現在の人類はただ一種だけだが、人種の違いが、亜種レベルでの変化、そして種レベルでの変化の過程にあるのは間違いない(ただ、今後は融合圧力の方が強くなると考えられる)。犬種(品種レベル)によって性格や知能が大きく違うように、知能や性格において遺伝が果たす役割は一般に考えられているよりも大きいし、その変異の蓄積は数世代で生じ得る。
人種によってポテンシャルの平均が大きく違うとしてもなんら不思議はない。
むしろ「違わない」と仮定することが、実態とかけ離れた結果をもたらすだろう。
ただしここで言う人種とは、必ずしも三大人種のようなステロタイプなものであるとは限らない。皮膚の色はメラニン色素の量であるに過ぎず、知能とは直結しない。
白人なら白人、黒人なら黒人の中で、知能の適用能力の差異が生存や繁殖に致命的に作用する淘汰圧があるならば、当然、「白人であっても」「黒人であっても」知能が高い集団が出現することは合理的な推論である。
しかしここで言う、知能が高いとはいったいどういうことを意味しているのかという問題も生じる。
野生種を家畜化するにつれ、家畜の脳は縮小・単純化することが知られている。これは比較的知能が高いと言われている家畜、犬や豚などでも同じことである。イノシシがブタよりも知能が高いだろうと推論することは解剖学的には妥当な推論だが、比較実験は難しい。イノシシが人間とコミュニケートする機能において著しい欠落があるためである。
手段であるコミュニケーション能力が欠けていれば、知能を計測することは難しく、結果として知能があったとしても「意味」がない。
知能とは所与の条件におけるコミュニケーション能力をあらかじめ含んでいるのである。
非常に危険が多い場所で比較的孤立した生活を送っているヒトはあらゆる事態に自力で対処する必要に迫られ、結果、知能による淘汰圧がかかる可能性が大きい。
一方都市化された地域では比較的脆弱な個体も繁殖することが出来るため、知能による淘汰がかかる可能性は低い。しかし、コミュニケーション能力を知能に含めて考えれば、より複雑で矛盾した情報を同時に処理する能力や、人間関係を調整する能力は孤立した集団の中で生きるよりも、必要の度合いは高くなると考えられる。
つまり知能を問う時に「文明に適合した」ことを所与の条件とした場合、必要とされる知能はイノシシよりもブタの方が高いとも言えるのであり、人種の知能の問題を問う時は、この文明への適応能力を前提にしているのだから、自己家畜化もまた所与の条件に加えておくべきである。
人種の研究において、現代に通用するようなデータは非常に少ないがラシュトンの研究はその数少ないもののうちのひとつであり、解剖学的に、性行動において、人種間に知能の大きな差異が存在することが示唆されている。
代表的な事例は、ネオテニー傾向の差異であり、幼児と成人との間の肉体的な相違の相対的な程度として示され得る。
また、性的機能の早熟さ、初体験年齢の早さ/遅さや、ペニスの平均値の大小などでも知能による淘汰の度合いを推測することは出来る。
こうした研究(ラシュトンはこの研究のために大学を追われている)に対する推論的な反駁の代表的なものは、個人間の遺伝的変異の方が人種間の遺伝的変異よりも多いと言うものである。
つまり、同じ黄色人種の特定の、異なるふたりの個人の間の遺伝的差異の方が、無作為に選んだ異なる人種間の遺伝的差異よりも大きいことがしばしばあると言うものだ。
ただしこれは、人種とは個人ではなく集団であるのだから集団的な傾向を計測する時にそもそも個人を抽出すること自体、不適当だと言うことも出来る。いずれにせよ、実際的なデータの裏づけが不足しているため、推論を戦わせているに過ぎない。
比較的まとまったデータを今日提出しているのはラシュトンの研究だけであり、反駁するのであればデータに基づいたものでなければならないが、むろんこうした研究自体が、現在の政治状況では不適当だといえるし、それをしたところで何の役に立つのかと言う意見の生じるだろう。
学問は必ずしも役に立つ/立たないでなされるものではないが、仮に人種間の「文明的な意味での」知能にポテンシャルの違いがあるとすれば、仮にそれをないと仮定した時に生じるだろう不都合があることは考えられる。
これは基本的に、生理や出産という女性に特有に生じる生物的な所与条件を無視して男性と同じ労働市場に送り出した場合、何が生じるかという問題と同じことである。
「人種の平等」の概念は、文明的かつ生物的なポテンシャルにおいて、より脆弱な人種に対して非常に強力なプレッシャーを与えている可能性が大きい。それはむしろ彼らが社会的な地位を向上させる上で、マイナスに働いている可能性を考慮する必要はあるだろう。
まぁユダヤ人とか明らかに飛びぬけて優秀だからなあ