はてなキーワード: 廃止論とは
天皇は古代からふわっとした宗教的権威の象徴を担ってきた訳だが、代わりになるものや人とはなんだろうか
ふわっとした曖昧な存在でありながら、同時に強力な権威を持ち合わせていないと、統合の象徴にはなりえない
「そんなものは天皇制を廃止してから考えればいい」といった楽観的過ぎる天皇制廃止論には、俺は賛同できない
日本人が抱く想像の共同体の中心に天皇はずっと存在し続けたし、天皇はそう振る舞う事で生き延び続けてきた存在でもある
その方が都合が良いからで続けてきた事でもあるし、代わりになるものを今日まで日本人は見つけられなかったという事でもある
天皇を廃するという事は、日本人の想像の共同体の核となっている部分を失うという事に他ならない
増田に投稿された、東京大学教育学部教授によるとされる高校入試廃止論を胡散臭せーと思いながら読んだ。その教授は誰なんだ?と。
■東京大学教育学部教授「あらゆる高校入試は廃止して希望者全員の入学を原則認めるべきだ。」
「高校進学率が95%を超えた現代、高校の定員および設備は十分に足りており、高校入試を行う必要性は皆無に等しい。
生徒・保護者に大きな負担を与え、教員に入試準備、進路指導などといった不用な業務を強いている。
高校入試により、高校が序列化され、出身高校差別や教育格差を生む。
先進国で高校入試が一般的な国は日本ぐらいしかなく、非常にガラパゴスな制度である。
高校入試は、高校生数が急増し設備の建設が追いつかなかった戦後間もない時期の名残に過ぎない。
以上より、高校入試は不必要であるのみならず、様々な問題を有しており、直ちに廃止されなければならない。
そして、各高校は、希望者全員の入学を認めるべきてあり、設備・人員の制約により希望者全入が不可能な場合は厳正な抽選で入学者を決めるべきだ。
高校の入試倍率(受験者数を合格者数で除した比率)は1.5倍未満が普通なので、定員を需要に応じて適切に配分すれば希望者全入も無理なことではないはずだ。」
これが現実らしいな
結論から言うと、少なくとも、増田に投稿された上記の発言をした東京大学教育学部教授は十中八九、現実には存在しない。
また、調べて分かったことが2つある。
①この投稿には元祖と思しき、もっと短い投稿が増田とは別のサイトにあったこと。
②そして、その内容がネット上で徐々に改変されるうちに、いつの間にやら東大教育学部教授が語ったという今の体裁になったらしいことだ。
以下に、ネット上で変遷していくテキストの中から主なものを列挙する。元祖の投稿から現在の投稿に至るまでの改変の過程では、それぞれの改変者たちが基本的には元のテキストをほぼ温存した上で、別のテキストを継ぎ足していく様子が見て取れるだろう。
■高校教師の88%「高校入試は廃止して希望者全員に入学を認めるべきだ。多すぎる場合は抽選で選ぶべき」 2021/03/31(水) 13:25
1: デジニュー 2021/03/31(水) 13:25:26.05 ID:kTsFeLPua
高校教師の88%「高校進学率が95%を超え高校教育が実質的な義務教育と化した現在、高校入試を行う必要性は皆無に等しい」
これが現実らしいな
・増田に投稿された文の1行目と最終行に一致する文が見られる。
・さらに元祖となるテキストが存在する可能性もあるが、見つけられなかった。
■高校教員の86%「高校入試は廃止して希望者全員の入学を認めるべきだ。多すぎる場合は抽選で選ぶべき」 2021-05-10 21:39
「高校進学率が95%を超えた現代、高校入試を行う必要性は皆無に等しい。生徒・保護者に大きな負担を与え、入試準備で教員に不用な業務を強いている。先進国で高校入試がある国は日本ぐらいだ。」
これが現実らしいな
・最初の一文はほぼ改変なし。その後ろに2つの文が追加されている。
・最後の決めゼリフは変わらず。
■高校入試は廃止して希望者全員の入学を認めるべき 2021/05/16(日) 03:16
高校進学率が95%を超えた現代、高校の定員は十分に足りており、高校入試を行う必要性は皆無に等しい。生徒・保護者に大きな負担を与え、入試準備で教員に不用な業務を強いている。先進国で高校入試がある国は日本ぐらいだ。あまりに希望者が多すぎる場合は抽選で選べばよい
・タイトルが変化した。タイトルの"高校教員の86%"は消え、また、"多すぎる場合は抽選で選ぶべき"という主張は本文の末尾へと移されて、"あまりに希望者が多すぎる場合は抽選で選べばよい"という1文となった。
・本文を囲っていた「」が消えた。
■高校教員の86%「高校入試は廃止すべきだ。」 2021/05/22(土) 19:34
「高校進学率が95%を超えた現代、高校の定員は十分に足りており、高校入試を行う必要性は皆無に等しい。
生徒・保護者に大きな負担を与え、入試準備で教員に不用な業務を強いている。
高校入試により、高校が序列化され、出身高校差別や教育格差を生む。
先進国で高校入試が一般的な国は日本ぐらいしかなく、非常にガラパゴスな制度である。
以上より、高校入試は不必要であるのみならず、様々な問題を有しており、直ちに廃止されなければならない。
公立高校の入試倍率は、2倍未満が普通であり、定員を適切に配分すれば希望者全入も無理なことではない。」
これが現実らしいな
・大規模アップデート。3文目移行が大幅に書き加えられて、本文は全部で7文に。
・タイトルから、"希望者全員の入学を認めるべき"という主張は削除されたが、代わりに?本文中では"希望者全員の入学を認めるべきだ。公立高校の入試倍率は、2倍未満が普通であり、定員を適切に配分すれば希望者全入も無理なことではない。"となっている。
・本文を囲っていた「」が復活。再び、誰かが語った風に。
・最後の決めゼリフが復活。
■東京大学教育学部教授「高校入試は廃止すべきだ。」 2021/05/24(月) 06:59
「高校進学率が95%を超えた現代、高校の定員は十分に足りており、高校入試を行う必要性は皆無に等しい。
生徒・保護者に大きな負担を与え、入試準備で教員に不用な業務を強いている。
高校入試により、高校が序列化され、出身高校差別や教育格差を生む。
先進国で高校入試が一般的な国は日本ぐらいしかなく、非常にガラパゴスな制度である。
以上より、高校入試は不必要であるのみならず、様々な問題を有しており、直ちに廃止されなければならない。
公立高校の入試倍率は2倍未満が普通なので、定員を適切に配分すれば希望者全入も無理なことではないはずだ。」
これが現実らしいな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/pedagogy/1621807174/l50
・ついにタイトルにおける発言者が"高校教員の86%"から"東京大学教育学部教授"となる。
・本文は4文目に"公立高校の場合、入試の経費には国民の税金が投入されている。"が加わって全部で8文となった。東大教授は税金面が気になる模様。
■名古屋大学教育学部教授「高校入試は廃止すべきだ。」 2021/06/13(日) 10:25
「高校進学率が95%を超えた現代、高校の定員は十分に足りており、高校入試を行う必要性は皆無に等しい。
生徒・保護者に大きな負担を与え、入試準備で教員に不用な業務を強いている。
高校入試により、高校が序列化され、出身高校差別や教育格差を生む。
先進国で高校入試が一般的な国は日本ぐらいしかなく、非常にガラパゴスな制度である。
高校入試は、高校設備の建設が生徒数の急増に追いつかなかった戦後間もない時期の名残にすぎない。
以上より、高校入試は不必要であるのみならず、様々な問題を有しており、直ちに廃止されなければならない。
高校の入試倍率(受験者数を合格者数で割った比率)は2倍未満が普通なので、定員を適切に配分すれば希望者全入も無理なことではないはずだ。」
これが現実らしいな
・"名古屋大学教育学部教授"版が登場。投稿者がご当地に寄せたかったのだろうか?
・本文は"高校入試は、高校設備の建設が生徒数の急増に追いつかなかった戦後間もない時期の名残にすぎない。"の1文が加わって全部で9文に。名大教授は歴史的観点から一言物申したかったようだ。
・9文目の文中に"(受験者数を合格者数で割った比率)"が足されている。
■東京大学教育学部教授「あらゆる高校入試は廃止して希望者全員の入学を原則認めるべきだ。」 2021/08/04(水) 03:44
「高校進学率が95%を超えた現代、高校の定員および設備は十分に足りており、高校入試を行う必要性は皆無に等しい。
生徒・保護者に大きな負担を与え、教員に入試準備、進路指導などといった不用な業務を強いている。
高校入試により、高校が序列化され、出身高校差別や教育格差を生む。
先進国で高校入試が一般的な国は日本ぐらいしかなく、非常にガラパゴスな制度である。
高校入試は、高校生数が急増し設備の建設が追いつかなかった戦後間もない時期の名残に過ぎない。
以上より、高校入試は不必要であるのみならず、様々な問題を有しており、直ちに廃止されなければならない。
高校の入試倍率(受験者数を合格者数で除した比率)は1.5倍未満が普通なので、定員を適切に配分すれば希望者全入も無理なことではないはずだ。」
これが現実らしいな
https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1628016244/
・タイトルは、再び、"東京大学教育学部教授"が発言したことになった。また、"希望者全員の入学を原則認めるべきだ。"が加わった。
・9文目が微妙に改変され、"(受験者数を合格者数で除した比率)は1.5倍未満が普通"となった。"2倍未満"ではなかったらしい。
・"原則的に"や"除した"など、硬い言い回しが取り入れられて教授らしさが少し増したかもしれない。
実在不詳の人が書いた老子のような古典も、改変を詳しく辿れたなら、こういう変遷が見られるのだろうなと、妙な感慨に耽ってしまった。
天皇制を支持する人に聞きたいんだけど
自分の意見の穴は指摘されても論点をずらしたりスルーしたりする
そして相手の強弱一体で構成されてる意見の比較的弱い部分だけを切り取ったりフォーカスしたりして批判を展開する
そういうところが如何にも天皇制廃止論者と思わせるから、まとまな議論を期待できないよね
こういう部分なんて少し考えれば相手が言っていることは一般的にありえる内容だと理解できるのに、自分の意見の陣地に引き込むことしか考えていないのがありありとしている
意見を交わす気なんてなくて自分の都合のいい論点で攻撃して天皇制維持支持者はこんな程度なんですよみたいに持っていくのが目的としか思えない
他人の意見が推測であることは批判して、自分の意見が推測であることは省みることをしない
現時点で、国際語となっている英語には、すでに多数のバリエーション(つまり方言)が存在しているのだ。イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語が違うことはよくネタにもされるので普通に知っているだろうが、英語を母語とする話者が一定いる地域が誕生すればそこには必ず方言が誕生するのだ。仮に日本が公用語を英語と定め、数世代あとに日本人が英語を母語とするようになっても、気候、歴史、文化等々が他とことなるこの地で話される英語は必ず「日本的英語」、ジャパニーズイングリッシュ、英語の日本弁になってしまうのだ。つまり「統一」など最初からできないのだ。(そして、極めてリアルに想像すれば、方言である「日本的英語」は、英語話者の中では、おそらく社会的に差別される方言になるのだ。日本でも、方言話者がどのように扱われるかを見れば、それは簡単に理解できるのだ。)
なぜなら、言うまでも無く、日本という地や文化、歴史等々についてこれまで書かれた文献はそのほとんどが「日本語」で記されているのだ。日本に住む者にとって極めて重要な情報源のほとんどが「日本語」なのだ。にも関わらず、それらの文化的リソースを、数世代後の我々の子孫はそれを母語レベルで理解することができなくなってしまうのだ。これはものすごいロスなのだ。もちろん、「その代わりに膨大な英語圏に関する文化的リソースを手に入れられる」じゃない?と反論したいのだろうが、それは怪しいのだ。なぜならば、言葉と文化はセットだからなのだ。文化的な背景、自然、文物に対する理解がない中で言葉だけを習得しても、それは月面で育つ地球人のようなもので、言語的文化的資産の十全な継承などおぼつかない、それは単に「全く新しい文化を一から作る」のとほとんど同じことなのだ。それは「古文・漢文」がかなりの割合で読めなくなってきている現代の日本が抱える問題でもあるのだ。
移行期間といっても、切り替えるだけなら実はそれほど時間はかからず、おそらく数世代で完了するのだ。上で触れた「文語→口語」の切り替えなど、一世代もかからなかったのだ。つまりそういうことは大した問題ではないのだ。ただ、その先に誕生するのは、上で述べたように「日本語的英語を使い、英語文化のバックボーンはなく、かつ過去の自分たち自身のリソースへのアクセス力までも失った、新しい文化を一から創出しなくてはならない1億人」なのだ。人口1,000人の小さな島で起きたことなら、その悲劇を理解する人すらやがていなくなるだけで終わるだろうが、世界に大きな影響を与えるそれなりの規模の国家で行ったらどうなるか、想像するだに悲惨なのだ。まあ、日本が没落することで喜ぶ国があるとすれば、その国にとっては喜ばしいことなのだ。
英語が公用化された第一世代は、日本語が入り交じった、たどたどしい英語を使うのだ(これを「ピジン」という。)一部の人は、留学などを通して「正しい英語」を身に付け特権階級化するが、だいたいの人はピジンの方を使うのだ。そうして次の世代になると、最初からピジンを母語として使いこなし始めるのだ(これを「クレオール」という。)上の方で、日本の公用語を英語にしても、使用されるのは「日本語的英語」になる、というのは、つまりこの「クレオール」のことを指しているのだ。
たとえば「洋食」。カツ。カレーライス。いずれも食のクレオールなのだ。仮に「正しいカツレツとは○○である」とか「カリアー&ライスは一バリエーションであってそもそも英国式はカリアースパイスドシチューだ」みたいな蘊蓄を並べて啓蒙しようとする人がいても、残念ながら世間では「かつ丼」やら「カレー」が登場し、オリジナルの「カツレツ」や「カリアー&ライス」とは全く別の料理が定着し文化になってしまうのだ。かつ丼もカレーもうまいから仕方ないのだ。言語でも、それと全く同じ事が起こるのだ。仮に最初に一所懸命カツレツを作るフランス料理人を招いて教えてもらったところで、最終的に定着するのは「かつ丼」なのだ。従って、「日本語を廃して英語を公用語化しよう」なんて主張しても、「日本の食を全て『フランス料理』にするために和食を廃止する」ことにはならなくて、単に「日本の食を全て『かつ丼』にするために、和食を廃止する」みたいな訳分からないことにしかならないのだ。そもそもかつ丼がうまいのは、和食がうまいからなのだ。つまり本末が七転八倒なのだ。
ここまで書いて何だが、元ネタの話に戻るなら、結局「言語は滅ぶもの」なのだ。これは避けられないことなのだ。日本語だって、10年前と現在ではかなり違うのだ。むしろ、言語は日々滅びており、そして日々滅びることをやめたとき、言語は「死ぬ」のだ。方言が生まれるのも、見方を変えれば「標準語の滅び」だし、方言が消えるのも、見方を変えれば「標準語(という新たな方言)の誕生」なのだ。そこに貴賤はないのだ。だから、言語学者は「言語が滅びてはいけない」というような価値判断をもって言語に向き合うべきではないのだ。もちろん、自分が研究対象としていた言語の話者が絶滅したら途方にくれるのは理解するが、それは文化史論的な見地から言うと、一つの現象に過ぎないのだ。たとえば、関西では最近TV等の影響もあり、日常的にかなり関東風のイントネーションで話す姿を多く見かけるようになってきているのだ。これは、一種の「滅び」でもあるし「誕生」でもあるのだ。なのに、「滅び行く関西弁を守れ」とか言い出したら、それは愚かなのだ。そういうのは、たとえば生物多様性が失われる……といった話とは全く違ってただの懐古厨なのだ。そのあたりを勘違いすると、元ネタの言語学者のように妙なエッセイを書き散らすことになるのだ。
日本語廃止論への反論は、上に書いたように政策的にマイナスであり、そして現実的にも不可能だという話に尽きるのであって、「滅び行く言語を守れ」みたいな感情論に落とし込んではいけないのだ。感情論は現実の利の前には極めて無力なのだ。
もはや義務教育はいらないと思う。国民全員の教育を税金を費やして援助するのは無駄だと思う。
この情報化社会において、わざわざ学校に通わずとも、小学校〜高校までの勉強を学習することは誰でもできる。
受験産業の振興の副作用で、巷には良質な参考書や、格安で受けられる映像授業などが豊富にある。そういうものはもう20年くらい前でも、既に学校の授業の水準をはるかに上回っていたように思う。
小学校では、掛け算の順序がどうとか極めて愚劣なことが行われているようだが、中学以降でも大して変わらないだろう。地方の公立小中学校のひどい所など最早「通わない方がマシ」というレベルなんじゃないだろうか。
そこまで酷くないにしても、自分の担当科目の範囲を超えた知識を持った上で教えている教師は稀である。さらに事務業務の煩雑化などにより、教師が教育に割ける時間はどんどん減っている。その上、出退勤管理の自動化のような設備投資、教材の電子化なども全然進んでいない。
公立小中高の教室にはエアコンがなかった(今は知らん)。気温が30度を超えようが、氷点下だろうがそのままである。今にして思えば、よく通ったもんだ。エアコンの無い会社に勤めろって言われたらほとんどの人は辞めると思う。
また、いじめ等で取り返しのつかないほど人生めちゃくちゃになる可能性もある。可能性があるどころか、いじめ自体どんな学校にもある。高校なら辞めりゃいいと思うけど、義務教育なのにいじめがあって通えないというのは、おかしな話だと思う。
そもそも学校で習ったことなんてほとんどの人は社会に出て使っていないだろう。つまり、不要なのである。不要なことを教えるのは無駄である。