はてなキーワード: 創作物とは
厳密に言うとMONACAだけど。
当時のオタク系アニメにおいてちょっと気になる曲を探すとMONACAに行き着くことがよくあった。
そこからの延長で、MONACAが関わっている作品をチェックしていくうちにアイカツ!に行き着いた。
原点なんだよ。
アイカツ!の色んなアイドルが「あのときのライブ、あの憧れの人を追いかけて」と語るのと同じ感覚で、俺はMONACAを追いかけたんだ。
それがこんなことになった。
作品と作者の人格を切り離せって人もいるけど、俺はやっぱ切り離したくないんだよ。
あらゆる創作物はコミュニケーションとしての側面があって、結局どこまで行っても「この客層はこういのが好きなんだろ?」って気持ちは絶対混ざると思うんだ。
こっちに気持ちを向けてくれたことの嬉しさとか、期待に答えようとしてくれたことへの感謝とか、そういうのを作品体験から切り離してけないんだよ。
特に俺の中でMONACAの人達はクールでカッチョイイ奴らだったから、あんなカッコ悪いことされたら何かが失われてしまうんだ。
音楽を数回聞くだけなら、ただ曲だけを純粋に聞くことも出来る。
でも何十回何百回と聞くと、どうしてもそこに作り手の意図を探す動き、アナリーゼが始まってしまう。
そして作り上げてきた自分なりの楽曲感を持って聞くから、好きな曲がどんどん好きになるんだと思ってる。
でもそれが壊れてしまった。
なんでここでこんな音を入れたんだろうって想像したとき、頭の中にあの事件のことがチラっと入ってくるんだよ。
アイカツって作品の性質からどうしても「女の子のどういう気持を表現したかったんだろうか」を考えざるを得ないから、逃げようがないんだ。
たとえばこれが侍やロボットがただ殺戮を続けるだけの話だったら、「今女の子の話は関係ないだろ?」で済ませられる。
俺はもう楽しめないよ。
今楽しめている人は羨ましい。
これは単なる嫉妬心で言うことだから無視してほしんだけど、感受性がどっかおかしいんじゃねえの?
ごめんね。
我慢できなかった。
じゃあねバイバイ
黒人差別的なフィクションを「フィクションだから」って許すのは「創作物だから許されるし差別に反対してるから問題ない」と言えるのか?否。
差別的フィクションがユーモアや娯楽として許されることも「差別的社会である証拠」に他ならない
「女性の性を公共の場で・公にして扱うこと」を許さないという社会的合意は、フィクションの場でも創作の場でも徹底するべきなんだよ。
どの女性も教師や上司や知らないおじさんに「性的に扱われる」ことは許していない。知らない人間にいきなりオナニーをぶつけるのは相手の人格を軽視している。その証拠にもし相手が上司のご令嬢なら君たちは絶対にやらない。
フィクションの場でだけ許すなら「内輪ネタ」だからOK?それは男が決めることじゃないよな。黒人差別が内輪ネタのフィクションならOKなんてキチガイでIQ3の日本人しか言わないっての
https://b.hatena.ne.jp/entry/4722919407755397794/comment/hnss
ブコメ連中、ここ5年ほど性犯罪者に勇ましく「死刑!」とか言い続けてたせいで、実際の死刑執行にも奥歯に物が挟まった言い方しかできなくなってるの笑う/光市レイパーの死刑にも反対していた気骨ある面々はどこへ
https://b.hatena.ne.jp/entry/4723423214676892962/comment/hnss
昔からみんなそうだったからこその温泉「旅館」なのだと思ってる。1日滞在なら飽きたらすぐ上がって部屋でくつろげば良いし、また入りたくなったらふらりと入るのだ
https://b.hatena.ne.jp/entry/4723446859021691458/comment/hnss
https://b.hatena.ne.jp/entry/4723552304823270978/comment/hnss
以前から女性同性愛は男からも女からもカジュアルに消費されてきたわけだが最近では「ぼくちん多様性描けてるでショ」ってキモい目くばせまで加わって吐き気がするレベルの創作物が多い
こういう事も言ってるけど
https://b.hatena.ne.jp/entry/4723855407818631458/comment/hnss
げに。
初げに
実際、容姿コンプが強い人って、あるべき理想の姿ってのが自分の中にあり、それとのギャップでしんどいというのがある。
もともとそういう認知を持って育つから「美人が優遇されてる」「ブスは馬鹿にされる」みたいなエピソードばかりがふるいにかけられて残る。
で、そういう人が創作活動すると理想の姿の人間を理想化して描く。
マチコ先生のツイートばかりが注目を集めているが、元々の文脈として栗下元議員が昔の漫画(男塾)を読んで今の漫画では出来ない表現の多さを嘆いたツイートに対して、『表現規制によってスカートめくりが減少したため、表現規制にはよい点もある』と噛みついたユーザがおりそれを援護する形でマチコ先生の事例が出てくる。よって『昔の漫画はやりたい放題で被害者が多く出たが、今は適正な表現に向かうことで社会がよくなったので表現規制も止むなし』というのがマチコ先生ツイートをしたクソフェミの大筋の主張と理解できる。ブコメ等でも証言が見られるとおり、マチコ先生が流行した際にその影響でスカートめくりが横行したことは事実とみなしても問題が無いように思える。しかしこの主張に対しては40年前と現代ではセクハラに対する意識が異なるため、創作物の影響として現代に適用するのは乱暴との反論もあるが、両者決定的な証拠は出ていない。この記事の目的は、クソフェミの主張がデマである証拠を示すことにある。
結論を先に述べると、表現規制がスカートめくりを減少させたという事実はない。証明が難しいのではなく、ない。なぜなら表現規制によって漫画からスカートめくり等のセクハラ描写がなくなったという事実がないからである。
僕たちは勉強が出来ないという、2017-2021年の期間で少年ジャンプで連載され、コミックス440万部を売り上げアニメ化もされた人気漫画がある。この漫画の中では、スカートめくりをする悪ガキや風呂のぞきに誘う友人、下着の窃盗等の描写がある。
https://note.com/siotamari/n/n37a081298024
またワールドトリガーというこれもまた少年ジャンプで掲載されアニメ化もされた人気漫画(現在は作者体調不良によりスクエアへ移籍)では、主人公の一人が女性キャラの尻を無断で触るセクハラ描写が複数回登場している。つまりスカートめくりをはじめとするセクハラ描写は現代でも日本で一番売れている雑誌である少年ジャンプで描写されており、規制の対象ではない。よって表現規制がスカートめくりを減少させたという言説は、表現規制の事実がない以上、嘘やデマの類いであると言える。
元となる表現が規制されていない以上、スカートめくり等のセクハラを減らした要因は受け取り手にあると考えられる。マチコ先生の流行は80年代前半であり、セクハラの概念が日本に浸透した時期(セクハラが流行語となったのは1989年)よりも前である。その後数十年をかけてセクハラの概念は日本人の倫理観に浸透したが、それによって漫画の中のセクハラ描写が実行にうつしてよい行為ではないという認識が広がったことが大きな要因と考えるのが妥当な結論だろう。
現代の漫画にセクハラ描写があるのか、セクハラの概念が日本に広がったのはいつなのかは少し調べればわかることである。お気持ちドリブンで意見を表明することについては否定しない(世の中の物事の発端はお気持ち駆動のことが多いだろう)が、自分の意見が論理的に破綻していないかどうか、事実をベースに検証してから意見を述べた方が良い。やりたくないというなら好きにすれば良いが、ロジカルシンキングの出来ない馬鹿共という印象はついて回るだろう。当然だが、まともに調べもせず同調した奴らも同罪である。
事例として挙げた漫画がマチコ先生に対してマイナーなので影響が少ないのでは?→どちらの作品もマチコ先生の倍以上発行されている。また一番売れている漫画雑誌の人気漫画の影響が大したことないのであれば、創作物の不道徳な描写の影響を特別規制する理由もなくなる。
現代にセクハラ描写が残っているのであれば、その影響でセクハラ被害が出ている懸念があり問題だ→セクハラの概念のなかった時代ですら社会問題となったスカートめくりが、現代で漫画の影響によって各地で起こっているなら既に大問題に発展しているのでは?
ぼく勉には理系科目については天才だが他人の気持ちを理解できず、文系科目はボロボロというヒロインが出てくる。このヒロインはボードゲーム好きにもかかわらず対戦相手の気持ちが理解できないことから対人戦が苦手で、それを克服するために心理学を志している。しかしほとんどのボードゲームでは自身が期待値の高い行動を取ることと対戦相手に期待値の高い行動を取らせないことが全てであり、ロールプレイしているのでもなければそこにお気持ちの入り込む余裕は無い。従ってボドゲに勝ちたいヒロインが進むべき進路は間違いなく理系分野でゲーム理論等を学ぶことなのだが、適性を活かすべきと主張する教師すらそのことには触れない。ぽっと出のキャラならまだ良いが、連載開始時から出ているヒロインの設定くらいはちゃんと練って欲しい。