がんばれは Good Luck ! と言うらしいけど・・。
南海電鉄の車掌には、差別の意図は一切なかったと思うし、これを差別だと宣う連中は反差別運動の価値を毀損するとすら思う。
なんでもかんでも差別だと叫ぶことで得られるのは、一般の人の呆れだけだ。
http://mainichi.jp/articles/20161011/k00/00m/040/058000c
そんな、なんでもかんでも差別にしなくては気が済まない、自分では考えられない悪い連中のために
これらの要因が組み合わさった結果として、例のコメントになったことは想像に難くない
日本で生活していたら、ポジティブな場面でもネガティブな場面でも、外人という単語を耳にしない事はないし
それが差別用語になるという共通認識は、日本社会には徹底されていない。外人という一語をもって差別というのは早計すぎる。
現段階では啓蒙を行うと同時に、使われた場合にはその背景を鑑みて批判を加えるべきだ
その為、外国人旅行客に過不足なく丁寧なコメントで注意をアナウンスする自信がなかった、という事は十分に想像できる。
そこへヒステリーな客によるクレームが殺到していたとすると、英語でアナウンスが出来ないから、
まず日本人向けに注意喚起と協力を頼もうとした事も容易に想像できるはずだ。
日本人のお客様にお願い申し上げます。本日は、大きな荷物をお持ちの外人旅行者に、多数、ご利用いただいております。
混雑の折、ご出勤・ご通学の皆さまには大変ご不便をおかけしておりますが、皆さまお譲り合って、ご利用いただきますようお願い申し上げます。
と言うようなコメントになった事は、まともな頭があれば理解できる。差別の意図なんてなかっただろう。
例え英語が流暢でなくても、十分に冷静であれば
恥ずかしなら、英語で正確なアナウンスをする自信がございませんので、まず日本語の分かるお客様にお願い申し上げます。
本日は、大きな荷物をお持ちの旅行者に、多数、ご利用いただいております。
混雑の折、ご出勤・ご通学の皆さまには大変ご不便をおかけしておりますが、皆さまお譲り合って、
とアナウンスした後に、下手な英語でコメントすれば、笑われる事で和む位の効果はあったかもしれない。
”外人客”と日本人客を敢えて区別する時、言語の背景と同時に、鉄道職員として
長旅を終えてこれから帰国しようとする、外国人旅行者に最後のもてなしとして
そこにPCを声高に唱える阿呆が、お前もお前の会社も差別主義者である、と叫べば社会のリアクションは悲しいものになる
>> 自分を取り囲む状況を変えることも出来ず、辛いと思う精神状態から逃れることも出来ない、この二つの問題を一気に解決できる手段として、「死ぬ」という解決先を思い浮かべるのが、死にたいと思う心のメカニズムになります。 <<
死にたいというと責められる
その程度で
と。
消えたい
楽になりたい
いい時に寄ってきた人たちはみんな離れていった
人を信用するというのはばかばかしい、無意味なことだと心底痛感した
このまま生きていていいことなんてあるのだろうか
壊れた人間を構う人などいない
ましてポストなんて与えられはしない
ただただ摩耗していくだけである
だったら早く死ねた方がいい
死ぬ気になって生きればいいと言われても、金がなければ何もできない
金さえあれば
海外に逃げる
車を買う
バカにした連中を見返すためにすべてを変える
復讐する
たくさんできることがあるのに。
金が欲しい
でも手に入らない
こんな人生もう嫌だ
そう叫ぶ日々
消えたい
楽になりたい
吐き出したい
ただそれを共感してほしい
このつらさを
過去に戻りたい
幸せに戻りたい
ダメなら死なせてくれ
もう楽にさせてくれ
それでも首の「のどぼとけ」の両側あたりに、ちょろちょろとはえることがあり、
爪でカリカリとつまもうとするが、大抵は周囲の皮膚ごとつまんだあげく、
血がにじむけど、ヒゲは抜けないという八方塞がりになることが多い。
そんな私の様子を見ていた後輩が「わたしが抜いてあげますよ」と言ってきてくれた。
彼曰く「ちょろっと生えたヒゲを見ると、抜かないと気持ちが悪い。それが自分のでなくっても」
なのだそうだ。
Win = Winの関係になった僕達は、朝、出社するやいなや、ヒゲチェックをするようになった。
「あ、ここはえていますよ!」
『しまった、あー、でているね。頼む。』
「しょうがないっすねー」
「ヒゲの抜き合いをやめろ」と言ってきた。
「それじゃお言葉ですが、ヒゲを抜きあう場所ってあるのですか?」
と聞くと、答えられない。
あげくに出てきた言葉が「見苦しい」と言い出した。
そうでかかった言葉を飲み込み、
自己愛の高い人間ほど価値観のフィルターが独特すぎるから一緒にいて疲れる。
そして折れないから余計疲れる。
論理的な会話もできる人はいるけど、フィルターで歪んだ解釈をされてしまう。
おまけに、正当だろうがなんだろうが、自己愛が傷つけばそれを埋め合わせるためにあらゆる行為をする。
婚活市場で売れ残ってる人たちって、そもそも自己愛が強すぎるんだよね。
顔はある程度は関係あるけど、それよりも肥大化した自己愛が客観性を無くして、動物のような機械のような存在に変えてしまってるんだ。
おちんぽ入れたい。
はてなブックマークを利用していると各種の弱者やマイノリティとされる人たち、女性・高齢者・病人・障害者・LGBT・オタク・貧困者・バカといった人たちに関する記事、及びその記事に付いたブックマークコメントをよく読むようになる
最近では(自業自得の)透析患者は死ね、とかゲイであることによって差別されるとかだ
それらの話題で他人を傷つける側に回る人が絶えないのは、その意見が生物学的にいえば正しそうだからじゃないかと思う
つまり、生物学的には男女で子どもを残すのは疑う余地も無い生物としての使命。生まれながらに障害を持って生まれてきたような個体は遺伝子を残すべきでないし、死病にかかれば死ぬべきで、弱肉強食、優れた強者が優先して生き延びるべきで、その結果劣った弱者を害したとしても残酷かも知れないがそれが正しい、自然なのだ、と言うことになる
でもそんな残酷かも知れないが生物としては正しく自然な社会を、人類は来たるべき未来として選ばなかった、なぜか?と考えた
思ったことは、人類の知性が生み出してきた社会というのは、究極的には自身が生物である事への反逆なんだなと言うことだ
話はちょっとそれるけど生物の中において、オスからメスに対する反逆があると思う
生物は増殖性(子を産む)があるものだから、生物の基本形はメスのはずだ。元々はメスがメスを生み、自己増殖を繰り返していた。遺伝子的な多様性を持つためメスとメスの間で遺伝子を交換し合う総百合生物を経て、もっと効率よく遺伝子的に強い子孫を得るための方法としてオスを分離することを編み出した
すなわち、オスはお互い同種のオス同士で競い・殺し合い、それに打ち勝ったその地域で最も優れたオスが多数のメスと子をなして強い子孫を残すシステムだ。この方法なら百合生物がメス同士競争しあうより、増殖する機会を損なわずに効率的に遺伝子の選別が出来る
でもそれのシステムに反逆するオスも出てくる
たとえば単純なケンカの強さで無く、羽根の鮮やかさやキバの長さといった勝手な自己ルールで勝ち負けを決める方法だ。捕食者に目立つ鮮やかな羽根や、肥大しすぎて獲物を捕る用途に使えないレベルまで伸びきってしまうキバ、といったもので優秀なオスを決めるルール下では、その種族はいつか進化の果てに滅ぶかもしれない、でもそれでいい、それしかないんだというオスたちの自分の種族に対する反逆を感じる
現在・歴史上の人類の社会の多くがオス中心なのも、本来殺し合うために生まれたオスという存在を最大限幸福にする経験則を重ねた結果、メスに対する反逆の社会が生まれたんじゃないかとも思う
話を戻すと
人類はより多くの個体の幸福を求めてきた、それは結果として自分という個体の幸福としても現れる
死にたくない、ずっと若く健康でいたい、安心のもと快適に暮らしたい、おいしいものをいつでも好きなだけ食べたい、他者からみて特別でいたい、美しく、優れた存在でありたい、理解し合える仲間と認め合いたい、望みの配偶者を得て理想の家庭、優れた子を得たい、金持ちの親から生まれたい、年下のお母さんが欲しい
実際には生物とは生まれたら死ぬものだし、老い衰えることから逃れられず、病気になることもある。また争えば勝者と引き替えに必ず敗者が生まれ、親は選べず、飢え、孤独、ララアの死から逃れることは出来ない
生物として生まれた以上仕方の無いこと、そこを人類は知性により社会を築くことで可能な限り克服してきた。これからもしていく
病期を治療し、低所得者に機会を与え、労働できない個体の衣食住を保証、障害を持って生まれた個体も不自由ない暮らしができる(ようになる)、生まれたときの性別に縛られず、同性同士で結婚し家庭を持てる。そのうち必要な労働はすべて人類以外の存在が行い、望んだパートナーを好きなだけ所有できる時代になる。自己実現も思いのままで、みんなこの世界の置き換え不可能な特別な存在として尊敬を集めることが出来る。死ななくなる、生物で無くなる
できれば人類が、その知性が、自身が生物であることへの反逆を成し遂げたときに立ち会いたい
障害とか延命治療とかLGBTの問題でそんなことは不自然だ、とか言うやつに、うるさい、人類そのものが不自然なんだよ。そして人類の知恵はそんなもんだって乗り越えてみせる!って言ってやろう、と思った(現在の結論)
はてぶでちょくちょく見かける度に気になる。
給料さえもらえていれば気にしていないか、はてななんて見ていないので知らないか、むしろその変人さに惹かれているのか、実は陰でボロクソ言われてるのか、嫌気がさしてやめていくのか。
社員以外に取引先なんかにも見られる可能性あるよな。あまりにアレな事ばかり書いてるとどんどん株は落ちて敵は増えていくと思うんだけどどうなの?
Sakura Clickerに乗り換えよう
Work hard, boy.
よその国では頑張るって単語がないから、問題の解決方法として「結局頑張るだけ」という選択肢が出て来ない。
日本人の非科学的ですぐ精神論に頼る特性は言語構造にも表れている。
どうしたらいいんだろね。
20代前半にて髪が危なげだったらしく、
ぼーっとしていると「生え際見てた?」とうるさいし、
口がすべってハゲなんて言ってしまった日にはしばらく口を聞いてもらえなかった。
気にしてるのかわいそうだなぁと思って、おしゃれそーな育毛剤買ってきて、
頭皮がこってると思うからこれつけてマッサージしてみたらどう?ってプレゼントしたけど面倒臭がってるのか、全然使わない。
別に私は気にならないけど、そんなに気になるなら何かしらしてみれば?と聞いてみると面倒だと。
なんじゃそれ。
2階なんて概念のないかと思えた私の保育園で、長くて細い、行き先の見えない空間はより記憶に残りやすい。
その中間地点は、雑多に置かれた、用途が明確でないもので溢れていたのだ。
この部屋の近くには、とある男が眠っている。
誰かが「ドラキュラ」と言う。
もちろん、聞いたことのない固有名詞で理解できるほど察しのいい人間はいない。
鋭い牙、鋭い目つき、語られる陳腐で断片的な表現は、私たちにはむしろ効果的だった。
想像力に常識なんていらない私たちは、隙間を勝手に埋めていき、それぞれのドラキュラを作り出すからだ。
もちろん、いくら私が子供だったとはいえ、先生の話を全面的に信じていたわけではない。
なぜ保育園にドラキュラがいるのか、いたとして、なぜわざわざそんなところで紙芝居なんてやるのか。
そんな疑問は当然出てくる。
けれどもその疑問の解消に努めなかったのは、有り体にいえば怖かったということなのだろう。
あの手この手で保育園内を一通り探索した好奇心旺盛な私でも、その欲求を満たそうとは思わなかった。
今の私は、当然ドラキュラなんて信じていない。
あそこで、私の作り出したドラキュラは眠り続けたままなのかと。
やっぱり、あの部屋も探索しとけばよかったという未練が、意外にも燻っていたんだなあ。
ふだんあまり笑わないMy Doctor
それは私の病状が悪くなって先の見通しもたたないようなとき
心配させまいとして安心させようとして笑顔を見せてるんだろうなとは思うけど
悪気はないのはわかってるけど
世の中の男性の母親は息子がアラサーになって「結婚を考えています」と彼女を連れてきても
「母親の貴方より、私のほうが彼のことをよく知ってるという態度が気に入らないのよ!!」とか思ってるの?