はてなブックマークを利用していると各種の弱者やマイノリティとされる人たち、女性・高齢者・病人・障害者・LGBT・オタク・貧困者・バカといった人たちに関する記事、及びその記事に付いたブックマークコメントをよく読むようになる
最近では(自業自得の)透析患者は死ね、とかゲイであることによって差別されるとかだ
それらの話題で他人を傷つける側に回る人が絶えないのは、その意見が生物学的にいえば正しそうだからじゃないかと思う
つまり、生物学的には男女で子どもを残すのは疑う余地も無い生物としての使命。生まれながらに障害を持って生まれてきたような個体は遺伝子を残すべきでないし、死病にかかれば死ぬべきで、弱肉強食、優れた強者が優先して生き延びるべきで、その結果劣った弱者を害したとしても残酷かも知れないがそれが正しい、自然なのだ、と言うことになる
でもそんな残酷かも知れないが生物としては正しく自然な社会を、人類は来たるべき未来として選ばなかった、なぜか?と考えた
思ったことは、人類の知性が生み出してきた社会というのは、究極的には自身が生物である事への反逆なんだなと言うことだ
話はちょっとそれるけど生物の中において、オスからメスに対する反逆があると思う
生物は増殖性(子を産む)があるものだから、生物の基本形はメスのはずだ。元々はメスがメスを生み、自己増殖を繰り返していた。遺伝子的な多様性を持つためメスとメスの間で遺伝子を交換し合う総百合生物を経て、もっと効率よく遺伝子的に強い子孫を得るための方法としてオスを分離することを編み出した
すなわち、オスはお互い同種のオス同士で競い・殺し合い、それに打ち勝ったその地域で最も優れたオスが多数のメスと子をなして強い子孫を残すシステムだ。この方法なら百合生物がメス同士競争しあうより、増殖する機会を損なわずに効率的に遺伝子の選別が出来る
でもそれのシステムに反逆するオスも出てくる
たとえば単純なケンカの強さで無く、羽根の鮮やかさやキバの長さといった勝手な自己ルールで勝ち負けを決める方法だ。捕食者に目立つ鮮やかな羽根や、肥大しすぎて獲物を捕る用途に使えないレベルまで伸びきってしまうキバ、といったもので優秀なオスを決めるルール下では、その種族はいつか進化の果てに滅ぶかもしれない、でもそれでいい、それしかないんだというオスたちの自分の種族に対する反逆を感じる
現在・歴史上の人類の社会の多くがオス中心なのも、本来殺し合うために生まれたオスという存在を最大限幸福にする経験則を重ねた結果、メスに対する反逆の社会が生まれたんじゃないかとも思う
話を戻すと
人類はより多くの個体の幸福を求めてきた、それは結果として自分という個体の幸福としても現れる
死にたくない、ずっと若く健康でいたい、安心のもと快適に暮らしたい、おいしいものをいつでも好きなだけ食べたい、他者からみて特別でいたい、美しく、優れた存在でありたい、理解し合える仲間と認め合いたい、望みの配偶者を得て理想の家庭、優れた子を得たい、金持ちの親から生まれたい、年下のお母さんが欲しい
実際には生物とは生まれたら死ぬものだし、老い衰えることから逃れられず、病気になることもある。また争えば勝者と引き替えに必ず敗者が生まれ、親は選べず、飢え、孤独、ララアの死から逃れることは出来ない
生物として生まれた以上仕方の無いこと、そこを人類は知性により社会を築くことで可能な限り克服してきた。これからもしていく
病期を治療し、低所得者に機会を与え、労働できない個体の衣食住を保証、障害を持って生まれた個体も不自由ない暮らしができる(ようになる)、生まれたときの性別に縛られず、同性同士で結婚し家庭を持てる。そのうち必要な労働はすべて人類以外の存在が行い、望んだパートナーを好きなだけ所有できる時代になる。自己実現も思いのままで、みんなこの世界の置き換え不可能な特別な存在として尊敬を集めることが出来る。死ななくなる、生物で無くなる
できれば人類が、その知性が、自身が生物であることへの反逆を成し遂げたときに立ち会いたい
障害とか延命治療とかLGBTの問題でそんなことは不自然だ、とか言うやつに、うるさい、人類そのものが不自然なんだよ。そして人類の知恵はそんなもんだって乗り越えてみせる!って言ってやろう、と思った(現在の結論)