はてなキーワード: ブラウン管とは
おそらく億単位の設備とスタッフが必要だった「セガ・スーパーサーキット(1989年)」みたいなゲームが、数千円でしかもマリオカートの演出を3DでAR合成してくれる夢のゲームだった。だから発表時熱狂した。
だが購入しておっさんは思い出した。
「セガ・スーパーサーキット」もそんなに面白くなかったことを…
実際の小さいラジコンサーキットを借りてダンボールマーカーを設置して疑似スーパーサーキットを再現してみたけどそれでもダメだった。
ついラジコン走行でちゃんとRCサーキットのレコードラインを走ってVRコースが完成するんだけど、実は通ったラインを中心にして左右幅均等にARコースが設置されるため、ARカー(敵車)は「インのイン」を走れてしまう。
だからまず勝てない。
そのためにはARカーが不利になる(実際のRCサーキットの)非レコードラインを走って仮想コースを作り、ARカーは目一杯走っても通れないレコードラインを自分が走る、みたいな本質的でないテクニックが必要になってしまった。
まあ、マリオカートに限らず「コクピット視点でラジコンで遊ぶ」は、30年以上前からなぜかRCファンは夢見てしまう。
30年前、まだアナログVHF転送の小型モノクロカメラにブラウン管TVのローカル受信を使ってまでコクピット視点のマシンで疑似スーパーサーキットを作って学内催しとして遊んでいた。
だが一番面白かったのはイベント会場でドライバーが見えないところにマシンが飛び出して入り込んでしまい、そこからカメラ映像だけで戻してくるというトラブル時だった。
最近どんどんFPV(ファースト パーソン ビーグル)用アイテムも進化し、手軽にゴーグルでドローンとかもできるようになったんだけど、出来るようになったらあんがいすぐ飽きてしまった。ドローン規制もあってあっという間に廃れてしまった。30年の間に3Dグラフィックスも同時に進化し続け、もうディスプレイ越しに見て見分けがつかないレベルなら3Dグラフィックスでいいやん、ってなってる。
ただ、3Dグラフィックスで遊ぶにしても、実際にレースカーを走らせるわけに行かないところをぐるっと撮影カー走ってあとはゲーム内で再現、みたいなコースビルドをあの技術でできるならとても楽ちんかもしれない。
そういう可能性だけはまだ夢見させてくれた。
芸術には疎いので知識を得ようと買った『現代アートはすごい』という新書を地下鉄内で読んでいた
そのなかでナム・ジュン・パイクという芸術家が紹介されていた
何でも、電子テクノロジーを使ったメディアアートというジャンルのパイオニアらしい
暗い部屋の中にテレビモニタが上向きに置かれていて、そのテレビモニター群の間に観葉植物が置かれた『TVガーデン』(1974-1977)
テレビ受像機の上に強力な磁石を置いて、故意に映像をゆがませる『マグネットTV』(1965)などが文章にて紹介されていた
当たり前だが、文で読んでも全くどんなものかが浮かばず、実際に見てみたいなという気持ちになった
メディア・アートを観たことないどころかそもそもインスタレーション作品自体あまり見たことが無いから気になったのだ
そこでスマホを取り出し「ナム・ジュン・パイク 日本」で検索すると、福岡市内の商業施設、キャナルシティに作品が展示されていることを知った
壁に100台以上のブラウン管モニタを設置し、映像を流すという作品らしい
そして、あーあそこに設置してある何だかわからないやつ、あれ、現代アートだったんだ、そして有名アーティストの作品なんだ!となった
何か長らく壊れていたらしいが2年くらい前に修理して、一日の内決まった時間帯に映像を流しているらしい
ブラウン管モニタなので今度壊れたら修理できないかもしれないとのことで、見れるうちに見ていた方が良さそうだ
そのうちキャナルシティに観に行こうと思う
あと出身地の韓国にはナム・ジュン・パイクの美術館あるらしいし、よく考えたらこっちも近いなと思った
私は26歳の男。今は一人暮らしでテレビを持っている。毎日見ることができる。
なんだそりゃと思うかもしれない。テレビくらい持ってるし見れるだろと。
でも昔はテレビがなかった。
母は言った。忘れもしない。私が小学2年の1学期のころ、テレビは教育によくないと。
家からテレビが消えた翌日。我が家の小さなブラウン管テレビは粗大ゴミ置き場にあった。
どうしてこんなことをするのだろうと思った。家に持って帰りたかったが重たくてびくともしなかった。諦めた。同級生が見ている番組は私は何もわからなくなった。何を話せばいいのかわからなくなった。無口のまま。周りと話せない。孤立が加速し、排除された。
テレビが見たい。リビングで新聞のテレビ欄を見る。スターウォーズをやるらしい。
テレビが置いてあった方向に顔を向ける。テレビはない。そこには水色のラジオがある。俯いた。学校に行く。同級生の話の中で昨日この番組を見たかと話をする。うらやましい。
同級生は友達と楽しく話をする。私は何も話せない。家に帰る。誰もいない。父は仕事。
母は弟の送り迎えと世話。姉は部活。台所にたつ。皿を洗う。床を見る。髪の毛と埃が目立つ。掃除機をかける。母が帰ってくる。お手伝いありがとうと言われる。テレビが見たいと私は言う。母は教育によくないという。手伝いの報酬として5円もらう。貯金箱をばらす。
テレビを買う金額には遥か遠い。友達の家に行く。どの家にもテレビがある。友達はテレビがあることを気にしていない。テレビにゲームをつなげる。私はその時しか触れない。友達は毎日触れる。私は下手くそ。友達はうまい。格差を知る。家に帰る。テレビがほしいという。駄目といわれる。どうしてと聞く。どうしてもと言われる。俯く。新聞のテレビ欄を見る。ナルトをやる。そういえば同級生はナルトの話をしていた。でも私は知らない。同級生は毎日楽しく話せることでコミュニケーションの積み重ねをする。私は格差と親の選択の残酷さを知る。同級生はコミュニケーションを取ることを苦に思わない。私は何を話せばいいかわからないまま。テレビがあれば同級生と楽しく話せて、情報のキャッチも人並にできたのに。26歳の一人暮らし。テレビを見れる。でも今はテレビ以外にも情報はあふれている。皆それを上手く使いこなし、楽しく話せている。私はもうできないと思う。
今家族もテレビを見ている。昔のことなどなかったかのように平然と見ている。
だんだんわからなくなってきた。今も私は独り。周囲と楽しく話してみたかった。
あのとき楽しく話すことを養いたかったけどもう手遅れ。抗うのも疲れた。
私は26歳の男。周囲と楽しく話してみたかっただけの男。昔に戻ってやり直したいだけの男。
自分も画像以外の「解像度」を最初に聞いたのはガンプラ界隈の記事だったな。モデルグラフィックス関連、ガンダム・センチネルの単行本(30年以上前)で読んだかも。MS ERA(これも30年以上前)かも
40年近く前、模型雑誌でディテールをどう入れるのかという分脈で「解像度」という言葉が使われてて、俺はそこで知った
(このディテールは実物のなになにを元にして理にかなっているので間が寂しいからとりあえずつけましたより全然解像度が高い工作です、とか)
以下に2015年以前の使用例。模型というのはスケールモデルがそうであるようにまず「実物」があって、それを落とし込んで模型とする。その際にどのディテールを残すべきかという取捨選択を迫られる。解像度が低いカメラで撮った写真の細部が低密度に見えるように、模型でも情報量の多寡を「解像度」という。ガンプラはもとになる「実物」がないわけだが、だからこそ却って解像度が議論になりやすい。「1stガンダムの映像ではカメラの解像度が低かったから写ってないけど、実は解像度の高いカメラでザクを撮るとこういうディテールが入ってるんですよ」みたいな
until:2016-01-01 "解像度" ガンプラ OR プラモ OR プラモデル - Twitter検索 / Twitter
「こいつ!装甲の隙間を狙ってんのか!」
このカットちょっと微妙で、グシオンのアニメ稿では前腕には「隙間」がないのだけど、解像度を上げたプラモデルではちょうどここにパネルラインがある。なので「開眼して継ぎ目のないところまで斬れるようになった」のか
ガルパンを何回も観に行く人は、1回映画我慢してタミヤの戦車プラモ組んで(色塗りは無しでもいい)、それからまた映画館に行ってみるのオススメ。戦車の解像度が上がって見えると思う。
ガンプラEXPOに展示されてた作品は毎度凄いなぁと思う一方でこのくらいサイズを大きくして情報量増やして解像度あげないとコンテスト的にはダメなんだなぁと少し肩を落とす そんな中ですーぱーギャン子は異彩放ってたw
「エッジを出して!」「ディティールの密度を上げて!」と解像度高くする方向のガンプラ制作が主流のように思えるけど、少しだらしなくも見えるMIAの作風も実は嫌いじゃないです。
戦闘機なんかのスケール物も作ってたけど、ガンプラを筆頭とした架空兵器の方が設定や自分なりの解釈をいかに落とし込むか、20m弱あるものとしていかに解像度を上げるかって作業が楽しいんだよね
ガンプラとかのデカールとかもむやみやたらに貼るよりキットの「解像度」をイメージするようになったなあ。1/144スケールならおそらくクレーンで作業する人が読むであろうコーションに限定して貼るようにしてる。所属章は宇宙で母艦から見るサイズの奴、とか。
ウチのレオパルド、ちまちまと解像度上げる作業をしております。
プラモデル臭さを無くすのを念頭に、形状変更やディテールの追加ってところですかね(⌒‐⌒)
悩みながらなのでなかなか進まない(^-^;
希望したK0の1/12化はコレジャナイ…プラモ好きからしたら残念解像度。でもこれ手にして物足らない人がバイクプラモに触れるきっかけになればいいな。 → 1/12完成品バイクシリーズ「Honda CB750FOUR」発売
解像度が凄いです!
せっかくここまで来たので
と質問をしてきました
「センス」
「技術」
「オラザク」
「読者投稿」
がキーワードでした
ほんと年々プラモデルキットの解像度が上がって、さくっと作るのが難しくなってきてしまっている。輸入キット作ったあと、タミヤのキット組むとこんなパーツ少なくて大丈夫?!って思うけど、精密感はそんなに変わらない不思議。
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追記:ガンダム・センチネル別冊をザッと読み返したみたけど「情報量」「正解」という言及の仕方にとどまっていた
腕です。上腕のコブに有る平面は、スラスター(?)の様な解釈になりました。露骨にノズルを追加するのでは無く、普段は閉じていて、遠目には平面にも見えるのかな?なんてカンジでしょうか。設定画を否定する程にはイジらない、奥ゆかしさが良いですね。(解像度を上げるってヤツですか?)
具体的な情報をできるかぎり少なくして、そのかわりに鉄道模型、庭園鉄道の楽しさを抽出しよう、という気持ちがそもそもありました。模型や工作を続ける動機がそこにあると思いますし、また、そういった形のないものは、専門誌などの技術的資料には表れないものだからです。『ミニチュア庭園鉄道』の本を作るときにも、写真を小さくして、そういった具体的な情報の解像度を落としました。本HPでも、このポリシィが基本にあります。
昨年で発売25周年を迎えたが最近、「ガンプラ」に対する市場ニーズが明らかに変化してきていると川口さんは語る。
「昔はTVのブラウン管を通して見た“解像度の低い”ガンダムをガンプラで、いかに精密に表現できるかというのがガンプラの楽しみ方のメインストリームでしたが、最近は『キャラクターグッズの1アイテム』としてガンプラを購入される方が確実に増えてきています。
結婚前の二十代後半のとき、痔の手術で入院したとき、総合病院だったからか個室でない病室に入院してて隣ベッドが小学生男子だった時期があった。昼食後~夕食前の面会時間帯にその男子のクラスメイト男子たちが見舞いに来ていて、つけっぱなしだったテレビにたまたま再放送で『うる星』が流れだして、患者の子ふくむ男子全員が無言でブラウン管を見つめる変な空気になってた(苦笑)
そこで思い出した、ワイがやっぱり小学生でリアルタイムで視聴できた時期、アレは女子だけが読んでいい少女マンガみたいな扱いされてて、クラスでは男子がたとえ視ていたとしてもそれを口にできる雰囲気でも世の中でもなかったやで~(o´・ω・`o)
親の寝室のテレビを買い替えた。古いTVの処分はセルフで。処分の手順をネットで確認。
郵便局でリサイクル券を購入。あれ?ネットで調べた金額と違う?
局員に訊ねると「15インチ以上が大型テレビ。よって19インチは大型テレビにあたる」とのこと。
ネットで調べた時、何の疑問も持たずに小型TVの料金欄を見てたわ。
別にゴネたりはしなかったが、「19インチは大型テレビですよ」と言われて素直に納得できる?
家電リサイクル法、2001年(平成13年)4月1日より本格施行。
当時だと14吋の4:3アナログブラウン管の廃棄がまだ多かった頃か。
でも、当時にしても14吋や19吋、21吋くらいが小型テレビ、大型テレビといえるのはまあ25吋くらいから、って感覚だったと思うけど。
さらに調べると、
2008年11月1日より一部のメーカではブラウン管式テレビと電気冷蔵庫・冷凍庫はサイズを2種類に分け、小サイズ(テレビは15インチ以下、冷蔵庫は170リットル以下)の料金を値下げ
ブラウン管式のリサイクル料金が大小2種類に分かれたのが2008年、液晶テレビ・プラズマテレビが加わったのが2009年と。
もし本格施行時の2001年に大小2種に分けたなら「14inchまでが小型、それよか大きいのは大型ね」って区分でもまだまあ納得できなくはない。
父親がパソコンオタクだったため、我が家にはニフティサーブのサービスインと同時にネットが導入された。俺はまだ中学生だった。
最初はジオシティーズに個人ホームページを作るなどして遊んでいただけだったが、メル友募集掲示板というものに出会ってしまい、もともと文章を書くのが好きだったこともあってハマってしまった。
当時のメル友というのはPCを使って長文のやり取りをするもので。後にくるケータイ時代の常に短文をやり取りするスタイルとは根本的に異なる。いわば文通に近い。
どこに住んでいるかもわからない相手と近況を報告し合ったり、本や映画について踏み込んだ感想を交換したり、そのメールの返事がいつ届くのかじりじりして待ったり。現代からするとだいぶレトロな世界観だが、ネット自体が普及しておらず、調べ物は図書館、待ち合わせには念入りな調整が必要で、大都市の情報は雑誌や新聞が頼り……そういう時代だったから、メル友との交流は最先端を感じささせた。
ブラウン管の向こうに世界があり、そこには人間がいて、俺とそいつが繋がることができる。
現代のデジタルネイティブには理解してもらえないかも知れないが、個対個のネットワークがあることは全然当たり前なんかではなかったのだ。
その後すぐに出会い系サイトの宣伝スパムで汚染されて壊滅するが、その少し前の話だ。俺はそこで同年代の異性数人を見つけてメールのやりとりをしていた。下心があったわけではないが、やはり心のどこかでロマンスを期待する気持ちもあったかもしれない。
実際その中のひとりとは3年にわたってメル友関係が続いた。仮にちーちゃんとするが、このちーちゃんとはかなり親密な関係だったと思う。お互いだいたいの住所から家族構成、趣味嗜好まで知っていたし、誕生日やクリスマスなどのイベント時にはチャットで長時間やりとりしてて、言葉にはしないまでも会いたいとお互い思っていた気がする。
時は流れて高2の頃、俺が東大を目指そうかな〜という話をしたことで、その流れが本格化した。
東京の西の方在住だったちーちゃんはそう言って応援してくれた(実際には増田は受験に失敗し、鬱を発症し浪人した挙げ句日大を出て零細企業を転々とする人生を送り、はてなブックマークが唯一の趣味の独身アラフォーである)。
俺は受験勉強に打ち込み、しかし週に2,3往復のちーちゃんとのメールは続けていた。
ところで俺はネットにだけ傾倒していたわけではなく、学校でもまあ普通に生活していた。カースト色の薄い学校だったこともあって、ギーク寄りの仲間とのんびりと生活できていた。特に仲が良かった男を田中とするが、こいつは曲者だった。遅刻魔であり地頭はいいのにテストは苦手、思考に口が追いつかなくて口下手、ときおり突拍子もない事をやって周囲を驚かせるという有様で、今で言う多動型のADHDだったんだと思う。
何の話だ?と思った。知らない名前だったからだ。しかしすぐに嫌な予感がして、
と聞いた。ビンゴだった。田中は何らかの方法でちーちゃんのメールアドレスを入手し(当時はシステム的に侵入を許したかと思ったのだが、後に調べたら他のクラスメイトに宛てたメールのCCにちーちゃんのアドレスが混入していたことがわかったので多分俺が悪い)、メールアドレスから俺がたまに話していたメル友だと察知し、偶然を装ってメールでやり取りを繰り返し、会うところまでひと月で漕ぎ着けたのだった。俺が本名さえ知らなかったちーちゃんと。
ショックだったのと同時に、田中の行動力に感心もした。ド田舎の高校生にとって東京まで往復するのは時間的にも経済的にもハードルが高い。しかし行動したから田中はちーちゃんと会えたのだ。
俺は何事もなかったふりでメル友を続けたが、ちーちゃんの熱量があからさまに落ちているのがわかった。メールの頻度も減った。それもそのはずで、その後も田中はちーちゃんと月に2回のペースで会っており、正式に付き合うことになったと田中から報告を受けた。その後に続いた
という童貞卒業の感想もボディブローのように効いて、この頃を境にちーちゃんとの関係は俺の方からフェードアウトしてしまった。
俺にとってちーちゃんはあくまでネットの向こうの、本と映画が好きな誰かであり、淡い期待そのものであり、それだけだった。
しかし数年後、俺の大学の文化祭に田中がちーちゃんを伴って遊びに来た。
ちーちゃんは俺の想像よりも小柄で垢抜けた今風の短大生だった。店番をしていた俺はぎこちなく短い会話を交わしただけだったが、田中が言うにはちーちゃんは後に俺について「なんか怖かった」と感想を述べたという。当時の俺がアート系の学部の雰囲気に影響されて髪の半分を緑に染め夕方でも黒いサングラスを掛けていたからかも知れない。
その後あっけなくちーちゃんと別れた田中はアムウェイで一財産築き、会社を立ち上げるために地元に帰ったが津波で流され、生存は絶望的かと思われたが何故か身分を偽って大阪でパチスロ系Youtuberとして生計を立てているのが同級生によって発見された。
田中の家族の頼みで俺は一度だけ大阪まで田中を連れ戻しに行った。痩せ型だった田中は別人のように太って、肌は土気色だった。しかし話すことは間違いなく田中で、スロットで金を貯めてアフガニスタンに行くと言っていた。その言葉通り田中は地元へは帰らず、ペルーへ渡って交通事故で死んだ。
なあ田中。
お前は何だったんだ。台風か何かなのか。ふざけんなって。