はてなキーワード: ニーナとは
noteを書くに至った詳細もよく知らない。
江原氏が、女性が亡くなった事件に関わってたと思われる人物と深い中にある人間と共に働いていたこと、で説明責任を問われ粘着されたり諸々ありnoteを書いたと認識している。
「若い芽をつぶしたくない」
「功績は素晴らしいもの」
「時代を変えていくひとり」
「人として素晴らしい」
そういうことなの?
彼女が
優秀じゃなかったら、
若くなかったら、
女性じゃなかったら、
輝かしい功績がなかったら?
どんな経歴でも、
何の才能もなくても、
性根が腐ってても、
なんてことを執着する人間が間違ってるよ。
なのにどうして、
そういうことなの?
何もない人間は、
誰か上手く文字にしてくれ
https://note.com/historicalmoc/n/n284957b96801
村上春樹の作品はほぼ読んだので大体同意だけれど、肝心の文章について全く語られていないのは片手落ちとしか言いようがない。こういう何かを語っているようでその内実がわかりにくい言葉を並べるからハルキストだのなんだの揶揄られるんだ。ファンなら真面目にやれ。村上春樹以外の人間が村上春樹の真似したら中身がない駄文にしかならないって小学校で教わらなかったのか。
つーか村上春樹の文章は別にうまくねえから。特徴的で読解大好き人間ほいほいってだけ。
というこの3点が村上春樹の文章でもっとも印象に残る要素である。本気で語るなら時期によっての文体の変化とか、もっといえば情景描写についてもまとめたいのだけれど、とりあえず書き散らす。なお、3に関しては他作品に関する読解を含み、ひとによってはネタバレと解釈しうるものも混じるので注意。
実例を挙げてみる。
四月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセントの女の子とすれ違う。
正直言ってそれほど綺麗な女の子ではない。目立つところがあるわけでもない。素敵な服を着ているわけでもない。髪の後ろの方にはしつこい寝癖がついたままだし、歳だってもう若くはない。もう三十に近いはずだ。厳密にいえば女の子とも呼べないだろう。しかしそれにもかかわらず、3メートルも先から僕にはちゃんとわかっていた。彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。
1文1文が短い。技巧的な表現を使うわけでもない。文章から浮かんでくるイメージが閃烈鮮烈なわけでもない。日常語彙から離れた単語を使うこともない(「閃烈鮮烈」とか「語彙」といった単語が読めない人間は思いの他外多いからな。ここでの「他外(ほか)」とか/悪いATOKに頼りすぎて誤用なの気づいてなかった。指摘ありがとう)。ただただ「シンプル」だ。わかりやすい。
また、冒頭の1文の次にくるのは「~ない」で終わる文章の連続だ。テンポがいい。あと、どのくらい意図的なおかわからないが、↑の文章を音読していみると適度に七五調がまじっているのがわかる。そして、大事なところで「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断言を入れる。リズムで読者を惹きつけた上ですっと断定されると、その一文がすっと印象的に刺さってくるのである。
つまり、別に「うまい」わけじゃないんですよ。ただ「読みやすい」。それにつきる。読みやすい以外の褒め言葉はあんまり信用しちゃいけない。「うまさ」って意味なら村上春樹をこえる作家なんてゴマンといるし、村上春樹の「文章」がすごいなんてことは絶対にない。うまいとか下手とかを語るならナボコフあたり読んだ方がいい。
とはいえ、個人的な所感だと、この「読みやすさ」は村上春樹が発見あるいは発明した最大のポイントだ。「リズムがよくわかりやすい文章で圧倒的リーダビリティを獲得する」という、一見してみんなやってそうでやっていない方策を村上春樹が徹底しているせいで、誰でも座れそうなその席に座ろうとすると村上春樹と闘わなければならない。
で、そのあとにくるのが「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。」という文章である。村上春樹の比喩表現は独特で、たとえば『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を適当にパラパラめくって見つけた表現として、「不気味な皮膚病の予兆のよう」「インカの井戸くらい深いため息」「エレベーターは訓練された犬のように扉を開けて」といったものもあった。この、比喩表現の多様さは彼の最大の持ち味であり、真似しようにもなかなか真似できない。
そして何より、「100パーセントの女の子」である。何が100パーセントなのか、どういうことなのか、この6ページの短編ではその詳細が説明されることはない。ただ、語り手による「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断定だけが確かなもので、読者はそれを受け入れざるをえない。それはこの短編に限らない。「かえるくん、東京を救う」におけるかえるくんとは。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』における〈世界の終わり〉とは。「パン屋再襲撃」はなんでパン屋を襲うのか。「象の消失」で象はなぜ消失するのか。「レーダーホーセン」でどうして妻は離婚するのか。羊男ってなに。
こういった例には枚挙に暇が無い。文章単体のレベルでは「読むことはできる」のに対して、村上春樹の小説は比喩・モチーフ・物語様々なレベルで「言っていることはわかるが何を言っているかがわからない」ことが、ものすごく多いのだ。
じゃあ、「村上春樹の作品はふわふわしたものを描いているだけなのか?」と言えば、そんなことはない。村上春樹の作品には「答えがある」ものが、地味に多い。
たとえば、「納屋を焼く」という作品がある。ある男が恋人の紹介で「納屋を焼く」のが趣味だという男性と出会い、ふわふわした会話をして、ふわふわとした話が進み、語り手は時々恋人とセックスをするが、そのうち女性がいなくなる。読んでいるうちは「そうか、この男は納屋を焼いているのか」という、村上春樹っぽいよくわからないことをするよくわからない男だな……という風に、読んでいるうちは受け入れることができる。
だけれど、この作品の問題は、「納屋を焼く」とは「女の子を殺す」というメタファーの可能性がある……ということを、うっかりしていると完全に読み飛ばしてしまうことだ(あらすじをまとめるとそんな印象は受けないかも知れないが、本当に読み落とす)。それが答えとは明示されていないけど、そう考えるとふわふわとした会話だと思っていたものが一気に恐怖に裏返り、同時に腑に落ちるのである。
その他、上記の「レーダーホーセン」においてレーダーホーセンが「男性にぐちゃぐちゃにされる女性」というメタファーでありそれを見た妻が夫に愛想をつかした、という読みが可能だし、「UFOが釧路に降りる」でふわふわとゆきずりの女と釧路に行ってセックスする話は「新興宗教に勧誘されそうになっている男」の話と読み解くことができる(『神の子どもたちはみな踊る』という短編集は阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きた1995年1-3月頃をモチーフにしている)。
勿論、これらはあくまで「そういう解釈が可能」というだけの話で、絶対的な答えではない。ただ、そもそもデビュー作『風の歌を聴け』自体が断章の寄せ集めという手法をとったことで作中に「小指のない女の子」の恋人が出てきていることが巧妙に隠されていたりするし(文学論文レベルでガンガン指摘されてる)、「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。」と書かせた村上春樹がその小説の中で実は死とセックスに関する話題を織り込みまくっている。近作では『色彩をもたない田崎つくると、彼の巡礼の年』で○○を××した犯人は誰なのかということを推測することは可能らしい。
たとえば、『ノルウェイの森』で主人公が自分のことを「普通」と表現する箇所があったが、村上春樹作品の主人公が「普通」なわけない。基本的に信頼できない語り手なのだ。信用できないからしっかり読み解かないといけないようにも思える。
(なお、なんなら村上春樹が自分の作品について語ることも本当の部分でどこまで信用していいのかわからない。「○○は読んでない」とか「××には意味がない」とか、読解が確定してしまうような発言はめちゃくちゃ避けてる節がある)
ただ、勿論全部が全部そうというわけじゃなく、羊男とかいるかホテルって何よとかって話には特に答えがなさそうだけれど、『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』あたりは何がなんだか全くわからないようにも見えるし、しかし何かを含意しているのでは、あるいは村上春樹本人が意図していないことであっても、読み解くことのできる何かがあるのではないか、そういう風な気持ちにさせるものが、彼の作品のなかにはある。
このように、村上春樹のメタファーやモチーフには、「答えがあるかもしれない」という点において、読者を惹きつける強い魅力があるのである。
増田も昔は村上春樹を「雰囲気のある作家」くらいの認識で読んでたんだけど、『風の歌を聴け』の読解で「自分が作品をちゃんと読んでないだけだった」ということに気づかされて頭をハンマーで殴られる経験してから「村上春樹には真面目に向き合わないと良くないな」と思い直して今も読み続けてる。
……なお、それはそれとして、セックスしすぎで気持ち悪いとか(やれやれ。僕は射精した)、そもそも文章がぐねぐねしてるとか(何が100パーセントだよ『天気の子』でも観とけ)(なお「4月のある晴れた朝に~」が『天気の子』の元ネタのひとつなのは有名な話)、そういう微妙な要素に関して、ここまで書いた特徴は別にそれらを帳消ししてくれたりする訳じゃないんだよね。
たとえば『ノルウェイの森』は大多数の人間が経験することの多い「好きな人と結ばれないこと」と「知人の死を経験し、受け入れること」を描いたから多くの人間に刺さったと自分は思っているが、だけどそれが刺さらない人だって世の中にはたくさんいるのは想像に難くない。
だから、嫌いな人は嫌いなままでいいと思う。小説は良くも悪くも娯楽なんだから。
マジで村上春樹論やるなら初期~中期村上春樹作品における「直子」のモチーフの変遷、「井戸」や「エレベーター」をはじめとした垂直の経路を伝って辿り着く異界、あたりが有名な要素ではあるんだけれど、まあその辺は割愛します。あと解る人にはわかると思いますがこの増田の元ネタは加藤典洋と石原千秋なので興味ある人はその辺読んでね。
「うまくない」って連呼しながら「『うまい』のは何かって話をしてないのおかしくない?」 というツッコミはたしかにと思ったので、「この増田が考える『うまい』って何?」というのを試しに例示してみようと思う。村上春樹に対する「別に文章うまくない」とはここで挙げるような視点からの話なので、別の視点からのうまさは当然あってよい。
小説家の文章が読みやすいのは当たり前だが、「文章が読みやすい」なら「文章が読みやすい」と書けばいいのであって、わざわざ「文章がうまい」なんて書くなら、そこでの文章」は「小説じゃなきゃ書けない文章」であるはずだ。
じゃあ、増田が考える「(小説の)文章がうまい」は何か。読んでる間にこちらのイメージをガッと喚起させてくるものが、短い文章のなかで多ければ多いほど、それは「文章がうまい」と認識する。小説のなかで読者に喚起させるイメージの情報量が多いってことだから。
具体例を挙げてみる。
長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。
そのころのマコンドは、先史時代の怪獣の卵のようにすべすべした、白く大きな石がごろごろしている瀬を澄んだ水がいきおいよく落ちていく川のほとりに、竹と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。
ガルシア=マルケス『百年の孤独』の冒頭。大佐が子どもの頃を回想して大昔のマコンドに話が飛ぶ際、「先史時代の」という単語を選んでいることで文章上での時間的跳躍が(実際はせいぜいが数十年程度のはずなのに)先史時代にまで遡るように一瞬錯覚する。
津原泰水『バレエ・メカニック』1章ラスト。昏睡状態のままで何年も眠り続ける娘の夢が現実に溢れだして混乱に陥った東京で、父親が世界を元に戻すために夢の中の浜辺で娘と最期の会話をするシーン。
「お父さんは?」
「ここにいる」君はおどける。
「さあ……仕事で遠くまで出掛けているか、それとも天国かな。お母さんがいない子供は いないのと同じく、お父さんのいない子供もいない。世界のどこか、それとも天国、どちらかに必ずいるよ」
彼女は君の答に満ち足りて、子供らしい笑みを泛べる。立ち上がろうとする彼女を、君は咄嗟に抱きとめる。すると君の腕のなかで、まぼろしの浜の流木の上で、奇蹟が織り成したネットワークのなかで、彼女はたちまち健やかに育って十六の美しい娘になる。「ああ面白かった」
理沙は消え、浜も海も消える。君は景色を確かめ、自分が腰掛けていたのが青山通りと 表参道が形成する交差の、一角に積まれた煉瓦であったことを知る。街は閑寂としている。 鴉が一羽、下り坂の歩道を跳ねている。間もなくそれも飛び去ってしまう。君は夢の終焉を悟る。電話が鳴りはじめる。
作中の主観時間にしてわずか数秒であろう情景、ありえたかもしれない姿とその幸せな笑顔から夢のなかで消えて一瞬で現実に引き戻すこの落差、そこから生まれる余韻の美しさですよ。
あるいは(佐藤亜紀『小説のストラテジー』からの受け売りで)ナボコフ「フィアルタの春」という小説のラスト。
フィアルタの上の白い空はいつの間にか日の光に満たされてゆき、いまや空一面にくまなく陽光が行き渡っていたのだ。そしてこの白い輝きはますます、ますます広がっていき、すべてはその中に溶け、すべては消えていき、気がつくとぼくはもうミラノの駅に立って手には新聞を持ち、その新聞を読んで、プラタナスの木陰に見かけたあの黄色い自動車がフィアルタ郊外で巡回サーカス団のトラックに全速力で突っ込んだことを知ったのだが、そんな交通事故に遭ってもフェルディナンドとその友だちのセギュール、あの不死身の古狸ども、運命の火トカゲども、幸福の龍どもは鱗が局部的に一時損傷しただけで済み、他方、ニーナはだいぶ前から彼らの真似を献身的にしてきたというのに、結局は普通の死すべき人間でしかなかった。
ふわーっと情景描写がホワイトアウトしていって、最後にふっと現実に引き戻される。この情景イメージの跳躍というか、記述の中でいつの間にか時間や空間がふっと別の場所に移動してしまうことができるというのがナボコフの特徴のひとつである。
散文として時間や空間が一気に跳躍して物語世界を一気に拡張してしまう、この広がりを「わずかな文章」だけで実現していたとき増田は「文章がうまい」と認識する。自分が村上春樹の文章を「うまくない」って書く時、そのような意味での「小説としての文章」を判断軸にしてた。
村上春樹は下手ではない。村上春樹に下手って言える人いるならよっぽどの書き手だし、その意味で村上春樹に関しちゃ言うことはないでしょう。しかしごく個人的な私見を言えば、「文章」って観点だと、文章から喚起されるイメージに「こちらの想像を超えてくる」ものがめちゃくちゃあるわけではないと思う。
日本語の文法に則りシンプルで誤解の生まれにくい文章を書くことは高校国語レベルの知識で可能で、その点村上春樹は文章のプロとしてできて当たり前のことをやっているに過ぎない。平易な文章を徹底しつつその内実との間に謎や寓話やモチーフを織り込んで物語を構築するところがすごいのであり、そこで特段褒められるべきは構成力や比喩表現の多様さだろう。その際に使うべきは「構成力がうまい」でも「比喩表現がうまい」であって、「文章」などという曖昧模糊とした単語で「うまい」と表現することはない。小説=散文芸術において「文章がうまい」と表現しうるとき、もっと文章としてできることは多いはずなので。そして、このことは、村上春樹がしばしば(「小説」ではなく)「エッセイは面白い」と言及されることと無関係ではない。
ちなみに、増田は津原泰水やナボコフの文章技巧には翻訳を村上春樹じゃおよぶべくもないと思ってるけど、面白いと思うのは圧倒的に村上春樹ですよ。技巧と好き嫌いは別の話なので。
ここで書こうとした「うまさ」は佐藤亜紀がいうところの「記述の運動」を増田なりに表現したもので、元ネタは佐藤亜紀『小説のストラテジー』です。
月末になると死ぬほどクッッッソ眠い日が1〜2日。身体中が下半身にかかりっきりになり、抵抗力はハハコモリvsファイヤーレベルの紙耐久に。特に理由のない鼻水が無限に出てくるようになる。喋るだけで出てくる。黙ってても出てくる。この段階では風邪との区別がつかない。仕事に支障が出るため鼻炎薬を半分量だけ服用、それでも効果は絶大で頭はぼんやり、工場勤務だったら機械の操作は絶対任せらんないなと思いつつそろそろ来やがったなと察したあたりで斥候の滴りがユニクロのシームレスショーツに痕跡を残し、その翌日からは三社祭もかくやの大騒動たる地獄の数日間が幕を開ける。
斥候の到来を1日目と数え、明けて2日目が最も重い。バファリンのお世話になるのは3日目まで、あとはごく軽いが忘れた頃にダメ押しの出血が来てナプキンを外したばかりの下着にシミを作って一矢報いた感じになって(誰にだよ)終わる。激烈に眠い日から数えて約7〜10日間の戦いである。毎月これの繰り返しだ。
今回のサバイバルはこの2日目に起きた。当日の装備は以下の通り。
・最強夜用ナプキン
…防御力極振りでオムツかな?という見た目になる。スリムタイプでもいいんだがモレを防ぐならふんわりタイプ一択(モレないとは言ってない)。
股間が蒸れて痒くなるが背に腹は変えられない。フェミニーナ軟膏で騙し騙し乗り切る。
・パンツ
愛用してるのはユニクロのシームレスショーツ。痛む下腹部の負担をいかに軽減するかが大事。どうせ汚れるから回転数重視でサニタリー用とかは使わない。
・スパッツ
お腹を締め付けない、冷やさない、モレた時の防御壁として装備。腹をすっぽり覆えるタイプがいい。
・ズボン
エプロンさえつけてれば服装は自由なので、Tシャツに半ズボン、生足にクロックスの完全フリースタイル。見た目はマジで夏休みの田舎の中学生。虫取り誘われたら行くわってレベル。
ロキソニンじゃないだけマシ。どこででも安くで手に入る。痛みは遠のくが感じないだけで身体はつらい。調子乗って働くと薬切れた途端倒れるのでいつも自戒してる。
・替えのナプキン
2個。休憩中に1回、後半途中で1回替える。ぎゃんかわポーチに入れれば気分も上がるがすべてズボンのポケットに捻じ込むので省スペースのため最近は剥き身で入れてる。落としたら黙って拾う。
いざ出勤である。
電車ではなるべく座らない。いつ(下半身が)事故るか分かったもんじゃないからだ。
こういう時は却ってデスクワークではないことがありがたい。当方、降りかかる案件を千切っては投げながら走り回るタイプの接客系立ち仕事フレンズである。
今日も出だしは順調であった。幸い、盆明けで来客は少ない。細かい作業を進めつつ、秘密裏にだらだら零れる経血をふわふわナプキンが吸収してくれる感触を全身に感じながら客を案内し捌いていく。
喋りつつ、PCを操作しつつ、客に笑顔を向けつつ自分の体内からどろっと血の塊が流出する。痛みはないけど不快感は常にMAX。どろどろびゅるびゅる、文字に起こすとエロ漫画みたいだけどクソくらえよ。最悪だよ。こんな状況で働くとか狂ってんのかよ。
異変は休憩前、パンツと股の境目に乾いたベタつきを確認したところからだ。しかも新鮮である。あ、これ…と察して仕事を巻き上げ、フライング気味に休憩に突入。
社員食堂に行く前にトイレに駆け込み被害状況を確認。毎度そうなんだが、自分でもびっくりするほど経血が出てる。ナプキンは端から端まで一面真っ赤だ。
小学校の時授業で「一日あたりの経血は多くてもスプーン2杯」とか言われたけどあれ絶対ウソだろ。6杯分は出てるぞ。なんなら計ってやろうかクソ野郎。
ほんと初経の頃から思ってるんだけど、夜は別としてモレの95%ってナプキンの全長云々じゃ防げないんだよね。漏れるのはいつも股の間から太腿の内側。ここに漏れ伝って股と内ももは血でべったり、獲物を喰らったライオンの口みたいになってる。もうナプキンってパンツに収納する概念から抜け出さないと無理だよ。なんで変わらないんだよ。
当然スパッツなんて子猫の前の障子同様、防ぎようもなく染み込んで貫通した経血でべったり。うん、分かってた。
被害状況は半ズボンにも及び、傍目からはほぼ分からんが確実に赤黒いシミ。やっちまったな…と思いつつ狭いトイレで下を全部脱ぐ。フックが全然ないのでパンツとスパッツを左手に、ズボンは口に咥える。水道でポケットティッシュを濡らして股間を拭くのが理想だけど水に溶けるタイプじゃないとトイレに流せないし、そもそも手洗い管がタンクに内蔵されてるタイプなので手元に綺麗な水は無い。ハンドタオルはエプロンのポケットに入れなきゃだし汗を拭いたりもするので下手に濡らせない。トイレットペーパーに唾を染み込ませて股間を拭う。気休め程度。
血の染みたパンツ部分を覆うように位置を調整しながらナプキンを交換、スパッツを洗う余裕はないので前後を逆にして履く。ズボンのシミはシャツで隠れる。ちゃんとゆっるいズボンを選んでいるので肌に触れる部分も少ない。このまま何食わぬ顔で社員食堂へ、メシの後バファリンを飲んで後半戦に突入。
後半は閉店時刻に向けて動きが加速する。サビ残上等の会社だが、私は定時上がり厳守。定時内に仕事納めるのけっこう大変なんだよね。1.8倍で動き回ってやっとこさ収まる感じ。ぶっちゃけやろうと思えばできるもんだな、というのが実感なのだが。
引き続き通常業務を遂行しつつ予想だにしない案件をこなしたり投げ捨てたりしていたらふと気付く。強烈な違和感。
ズボンにさっきは無かったデカいシミがある。客に尻を向けられる状態じゃないことに気付き顔面蒼白。ちょっとトイレへ、おほほほほ、とおしとやかに宣言してカニ歩きでトイレへダッシュ。
ヤバイ。完全にアウト。Tシャツなんかで隠せないほどモレてた。基本的に立ち仕事だが、小一時間前に少しだけPC作業で椅子に座った。わずか20分足らず。絶対にその時だ。
天を仰いだところでどうしようもない。定時まであと1時間半、来客はほとんど無いが、私の大惨事に気付いたスタッフはいたかも知れない。言い出せないよなぁこれは…。
この惨状が休憩前に起きた場合、時間内に全力疾走でギリギリ行って帰ってこられる距離にユニクロや衣料品店がある。そこで下着とズボンを買って一新することもできるが(その場合は飯抜き)今回はそうもいかない。
最終手段である。ズボンを後ろ前に履き直す。超テキトーなズボンなのでデザイン的に違和感はない。後ろ手でホックを留める。べったりなシミをエプロンで隠し、降伏した時の新城直衛(皇国の守護者ね)みたいな堂々とした立ち振る舞いで仕事場に戻る。
そのまま定時まで駆け抜けた。
終業後にやってるのはドンキくらいだが、そこでいろいろ買い込んで駅のトイレでキレイにして……とか考えてるヒマがあったら一刻も家に早く帰りたい。エプロンなきあと、ズボンのシミはカバンを前に抱え続けることで隠した。そろそろ薬が切れる頃なので帰りの電車は死ぬほど座りたかったけど、カバンで前を隠し、ドアのそばに寄りかかって後ろを隠して40分の帰路を耐え抜く。頭も身体もへろへろ。
帰宅後はトイレと風呂場に直行して全部洗う。くたびれた。本当にくたびれたよ。
……というのは日常茶飯事である。私にとって生理とはこういうものなのだ。いくら対策を練っても勝つことのない、負けつつ共存するしかない隣人なのだ。
もう次からはあれだな、保育園児よろしく「(経血)おもらしセット」を会社のロッカーに揃えておくしかないな。水に流せるウェットティッシュも一緒に。
以上の記録は、生理の実質期間は3日程度、PMSもなく、周期も安定したイージーモードなフレンズのサバイバルである。
しかも靴も服装も自由、不潔じゃなければ化粧すらしなくていい私の職場での体験である。
かわいいお洋服とちゃんとしたお化粧をマナーとされている女の人たち、もっと行動の制限があるところで働く女の人たち、よりジェンダーロールが強い場であればあるほど、そして生理とそれにまつわる諸症状が重い人であればあるほどその苦労は想像を絶する。
やってらんねえよなこんなの。
韓国のCMじゃないけど、ほんと輝けるわけねえよ下半身血みどろでなんてよ。
子供を産む準備ってのは知ってるよ。ぷにぷにでふかふかだよね経血。赤ちゃんのベッドっていうのはなんかいいよね。現象自体への嫌悪はないよ。
でもそれと働かなきゃってのは全く別レイヤーだ。勘弁してほしいのは、どろどろの不快感と通常通り要求される仕事が並行していることだ。
まあ具体的に労われって言いたいわけでも男性側や雇用側に何かを要求したいわけでもない。ただ私の場合はこうだ、ってのを吐き出したかっただけだ。
でもまぁ、休みてえよ。
休ませてくれよ。
別に休暇とかじゃなくて、デスクワークだろうと接客だろうとゆっくり働ける仕組みがほしいよ。
生理が重い人も軽い人も、月一で訪れるこういうドタバタや不調と相談しながら無理なく働ける社会であってほしい。
ユニクロのシームレスショーツほんと良いよ。薄い布地だから一瞬で経血落ちるし乾きも早い。何より締め付けがなくて一度履くと戻れないぞ!
おわり
お尻の穴と、下の性器周辺がめちゃくちゃ痒い。お尻の穴は数ヶ月くらい前、性器周辺は何年も前から。
蒸れからくる痒みかもしれないと思ってるけどこんな痒いの無理。フェミニーナ軟膏塗って、確かにその時は痒みなくなるし数時間は持つけど、トイレでおしっこして拭いてる時にまた痒くなって掻いちゃって、皮膚薄いからすぐ傷だらけになって、またそこにフェミニーナを塗ってひりひりする。コラージュフルフル使ってみてるけどあんまり効果を感じていない。股から時々結構なにおいするけど、コラージュフルフル効果ほぼなし。
膣カンジダかなとも思ったけど、それにしてはおりものほそこまで異常はないようかな思う(調べるとカッテージチーズ状になる、みたくよく書いてある)。
災害 | 年 | 犠牲者数 |
---|---|---|
スペインかぜ | 1918年-1919年 | 1700万-5000万人 |
アジアかぜ | 1956年-1957年 | 200万人 |
香港かぜ | 1968年-1969年 | 100万人 |
唐山地震 | 1974年 | 24万-80万人 |
サイクロン・ボーラ | 1970年 | 30万-50万人 |
ハイチ地震 | 2010年 | 22万-31万人 |
新型コロナウイルス | 2020年- | 30万人+ |
タイフーン・ニーナ | 1975年 | 22.9万人 |
海原地震 | 1920年 | 20万-24万人 |
スマトラ島沖地震 | 2004年 | 22万人 |
関東大震災 | 1923年 | 14.2万人 |
サイクロン・ナルギス | 2008年 | 13.8万人 |
バングラデシュ・サイクロン | 1991年 | 13.7万人 |
東日本大震災 | 2011年 | 1.8万人 |
伊勢湾台風 | 1959年 | 0.5万人 |
1.僧兵型
ある程度の重装ができて、ある程度の攻撃もできるやつ
wiz、D&Dからの流れでドラクエ系(DQ10除く)
そういやパラディンもいるけどタンク役が多いので回復力はうんこなやつが多いと思う。
2.軽装系
FFの白魔導士系、FEなどのローブ職。か弱い。物理攻撃はうんこ。(FFより古いルーツがあるなら教えてほしい)
3.弓使い系
弓以外はあんまよくわからんけどダーツとかか? 遠距離物理攻撃ある人
FF3狩人、FF4ローザ、レジェンドオブドラグーンのヒロイン、FFBEフィーナ、BOFボッシュ
男の場合はメインヒーラー入る前の序盤のヒーラー、サブヒーラーとかが多いイメージ
4.軽戦士系
FF3赤魔導士(弓も装備できるが)、BOF1ニーナ、FEトルバドールとか
多分9割美少女
攻撃力はやや弱~そこそこ
5.勇者系
6.例外