はてなキーワード: 平安時代とは
無視されてきた底辺が「私は病んでいます」と発信することが可能になっただけのこと
平安時代なんて平民に記録を残す手段がないから現代では貴族以外はほとんど家畜のようなものだったと思われている
江戸時代ぐらいになってようやく識字率も上がり平民も多少は記録が残せるようになった
明治になって出版文化が拡大して、平民でも高等な悩みを抱えていることが「純文学」などの形で認知されるようになるが、
金も才能もない大多数の底辺が悩みを発信するには、ホームページ時代やブログ時代でもまだ足りず、SNSの登場を待つ必要があった
誰かがつぶやいた「悩み」に「いいね!」を送るだけでも有意な発信となるシステムが構築されたからだ
原始神道では、神が宿る対象は特定の巨木や山などに限られていたのは増田の言う通り。
しかし平安時代初期(8世紀~)から中世にかけて神仏習合が進むにつれて、森羅万象に神が宿るという思想に変わっていった。
特にこの時代の神道は密教の山岳信仰と密接に結びついていて、山中のあらゆるものに神が宿ると考えられるという思想が、現在まで続く概念の起源となる。
その後は伊勢神道(9世紀~)が「森羅万象に神は宿る」という思想を広め、
江戸時代の吉川神道の開祖である吉川惟足(1616~1695)が明確に「神は幽玄にして森羅万象に充満し、一草一木もこれ神ならずということなし」と表明した。
自分が見える範囲、人類の仕事のかなりは、ホントに意味あるんかな?っていうものに見える。
合意形成のために、あんなに時間を使って意味があるんだろうか。
今に始まったわけじゃなく、ずっと昔、今大河の舞台になってる平安時代の頃だって、今より不便だったのに、祈祷やら占いやら呪いやらで大忙し、侍ること、気の利いたことを言うこと、それが特級の仕事だった。
全く生産性がない仕事に思えるけれど、今だってかわりゃしない。占いや祈祷で合意形成ができたように、選挙や議論でみんなの合意が得られるから、そのために時間とお金が使われる。
全くもって不毛だ。
平安時代の貴族、家系図書いたらかなり血が濃い。ダビスタだと危険な配合ですって言われるレベルでインブリードがあったりする。
でも、近親婚で有名なスペインハプスブルク家みたいに顕著な奇形とか知能障害とかは出てなかったように見える。 疫病か出産がらみで早死にしなければわりと長生きだし。
これ、もしかして、通い婚だから密かに別の男と通じてて外の血が入ってたりするんじゃないかと思った。そう考えると昔の人は頭いいな。建前としてはやんごとない血で固めましたってことにできるし。
源氏物語の後半で、朱雀帝の娘である女三宮が光源氏に降嫁するけど、朱雀帝と源氏は異母兄弟だからおじ姪関係になるわけじゃん。当時はそれがさほど問題とされてなかった。
これで子ができるとなるとかなり心配になるけど、実際には別の男が密通して子ができた。これで遺伝上の問題は軽減されてる。こういうのがわりとあったのかなと思う。
“語源として、夫の所有する人の意である” という誤解がある[1]。フェミニズム論者には好まれない側面もあるというが、安易な言葉狩りであるとも言われている。
律令制における天皇の后妃の身位及び称号。皇后・妃に次ぐ地位にあり、定員は3名。位階は最低でも従三位・正三位を与えられる。
平安時代以降、妃・嬪(ひん)の号とともに次第に用いられなくなり淳和天皇期に事実上廃止され、夫人の地位は中宮・女御・更衣へと移行する。
后妃位の1つ。 秦から唐までの後宮における高位の妃嬪の汎称。特定の称号として
以下が要約になります。
ある夜、巨大な羅生門の下で一人の下人が雨やみを待っていた。門の上には数多くの死体が放置されており、そこで一人の老婆が死体の髪の毛を抜いているのを目撃する。老婆は死人への復讐が目的だと言うが、下人はその行為を許せず、老婆の着物を剥ぎ取って逃げた。老婆は裸になり、下人の行方を探したがわからなかった。
この物語は、飢餓に喘ぐ平安時代の惨状と、人間の残虐性、生存をかけた行為を描いている。下人は最初は生き残る方法を見つけられずにいたが、老婆の非道な行為を目の当たりにして、自らも非道な行為に走る決意をする。生きるためには時に非道を行わざるを得ない、というテーマが描かれている。
奈良時代から明治時代まで、日本人の、日本人による、日本人のための文章は漢文で書かれてたんだよ?
ローマ帝国が滅んだ後も学術語としてラテン語が使われてたのと同じように中国と断交してた時期ですら日本人はひたすら漢文で文章を残してた
古代中国語や現代中国語を学んだところで漢文の代わりにはならんのよね
あと現代語訳すればええやんみたいな話?
日本の漢文には1000年以上の歴史があって、そのすべてを口語訳するのは物理的に不可能よな
まあそういう話ではないだろうけどさ
それと役に立たないんだからいらんでしょみたいな話?
どの時代のどの地域の人類にとっても役に立つのはいわゆる理系的な知であって、文学も法も言語も歴史も、時や場所が変われば全く役に立たない
そういう意味では古文漢文どころか、日本の文学や日本の歴史すら、日本人くらいにしか役に立たないんだよね(日本人でも役に立ってねーよというツッコミはひとまず控えてほしい)
でもさ、だからこそ大切なんじゃないの?って思うわけよ
日本人くらいにしか役に立ちそうもない古文漢文だからこそ、日本人が学ぶ意味があるんじゃないのかね
まあそれでもいいかもな
でも一つ注意して欲しいことがある
裾野を狭めれば頂点は低くなるってこと
日本文学研究や日本史研究の最先端はもちろん日本の大学なわけだけど(だって他所の国は日本人ほど日本に興味ないし)
それでいいのかね?
日本人がフランス文学の研究するために第二言語でフランス語を習得したり、西洋哲学を学ぶために古代ギリシア語を覚えるのとはわけが違う
そこのレベルが下がってもいいんかね?
長野の光前寺で飼われてた犬。
6世紀中国、北斉の高長恭という人物の称号「蘭陵王」または「羅陵王」。
19世紀ロンドンを賑わせた連続殺人犯、通称「切り裂きジャック」。犯人が誰かわかってないので妄想、あるいは怨念の産物ということになってる。
邪馬台国の女王。魏志倭人伝に記載があるので実在したとされるが、肝心の日本でまだ証拠が見つかっていないため実在しなかったとも。
ヤ○ザ
サッカーで暴れる観客