はてなキーワード: グラデーションとは
馴染めないけれど取り繕っているのと馴染めなさに抗っているのとで。もし自分が尾崎世代なら恥ずかしくてこんなこと言えないんだけれど、あっちもこっちもリアルタイムじゃない分、これ普遍的なやつじゃない? って思う
大体引き籠りのニートとか発達障害で不摂生でデブや底辺になったような奴が
いくらプログラミングスキルを磨こうと、速攻で同じデブニートになって役立たずで職場から叩き出されるわ
我慢が出来ない幼稚さと自己中だから発達障害のまま療育もせずそこまできたんだからな
記憶も人格もそのままでIT技術一つで即変われるわけねーだろって話
そいつの仕事論や愚痴聞いてても仕事では善い事してるつもりだろうがただ押し付けて自己満足に浸ってるだけで周りの負担になってるだけだしな
自分がニートこどおじや発達の療育中の時は飯食わしてくれる父親には感謝もせず
作ってくれる母親には置いとけとか
挙句一緒に病院で治療しようとか働き口探そうとか言われたらキレだすのは負い目を感じてたクセにな
僕は自分に関して出口が無いとはもう思わない。
仮にそう思っていたとすればそれは凡そ十五年前から四年くらい前の間で、基本的にそのくらいに感じていた「出口のなさ」は僕の人生からは大幅に減退している。つまり僕の人生は直近四年くらいは「出口のなさ」に苛まれずに済んでいるということだ。
しかし一方でこの「出口のなさ」を他者から感取する機会が増えた。「こいつ出口ねえな」と他人に対して思うのである。正直、自分でもこの述語用法の意味がよく分からなかった。「『出口がない』ってなんすか」という話である。なんなんすか、と大分長いこと考えていたのだけれど、半年くらいぶりにようやく答えが出た。
極言すれば「出口のない」やつは基本的に選択肢が目の前に一つしか浮かんでないタイプのやつだ。
例えば、野良猫がいたとすれば、その野良猫を前にして取れる選択は幾つかある。「無視する」「声を掛ける」「鳴き真似をしてみる」など。でも、この「出口のない」タイプは常に「無視する」しか選択肢がないタイプなのだ。いや経済的に選択肢のないタイプとは違う。つまり思考が固定化されていて、ある程度以上の自由度のある選択肢を取れないタイプなのである。あるいはそこに「迷いの無さ」というポジティブな述語を導くことができるかもしれないけれど、いやそんなんじゃねえんだと。行動の固定化というのは迷いもなければ意志もない。そこにその選択肢しか無い状態なのである。
そういう奴ってホントにいるんすか? という質問に対しては、ホントにいるよ、としか答えられない。
しかもこういうタイプの人は、別にコミュニケーション能力が劣ってるとかそういうのではないのである。むしろコミュ障タイプの人よりも一定のコミュ力や社会的能力を身に着けている人ほどこういうタイプに陥り易い。つまり、一定の成功体験を経てその成功体験によって行動パターンを固定化させてしまっているパターンの人なのである。ある種の成功体験がむしろ彼らに行動の固定化を迫るのだ。「これまでこうやって成功していた。だから次からもこうやろう」と。まあ気持ちは分かるんだけど。
はっきり言ってこの自己の固定化って、つまり「出口なし!」ってな状況じゃないか? それって地獄じゃないか? と思う次第である。上手く言えないんだけど、選択肢のない状況は即ち自由のない状況に直結するのだと思う。それって端的に地獄じゃないだろうか。
かつて、十五年ほど前に僕はこの地獄から逃れるために本当に命を掛けて戦った。十五年前に戦闘を開始して僕はそれを十一年間続けたのである。だから今はその出口のなさ、自己の固定化によって苦しむことは殆ど無くなっているのだけど、今もなお当時のことを思い出すにつけあれは地獄だったと思う。ずっと僕はカフカ的地獄の中にいた。自分が一人しかいないという地獄だ。全く選択肢が無いという地獄だ。本当にそれはこの世の地獄だったのだ。
でも僕は自己の固定化から抜け出した。それは文章表現の寄与によるものだ。僕は昔から詩や小説を書くのが好きだったし、ついでに言うと歌を唄うのも好きだった。つまり自己表現が好きだったんですね。で、自己表現というのは避け難く自己の多重化である。自己の表現したものと自己それ自身は微妙に異なっていて、そこには僅かなグラデーションがある。微かな色彩の差異。表現の直後から時間が経つにつれて広がっていくところの微差。十年前のテキストはまるで他者の書いたそれのように感じられる。「これ本当に俺が書いたっけ?」てな具合である。でも本当に僕が書いたのである。
僕が救われたのは十五年前に2chの専門板『詩・ポエム』板に書いた一篇の詩によってであった。
それは本当に救いだった。
「あれ? 地獄終わったじゃん」僕の十年以上彷徨っていた地獄が、その詩を再見することによって終わったのである。それは健全な自己の多重化であった。自己が自己でありながら他者であるという経験。自分が書いたにも関わらず他者が書いたとしか思えない十年の誤差、時間差。それが心に真っ直ぐ突き刺さったのだ。僕は僕であって同時に僕ではない誰かであるという、矛盾の受容。それは、僕が僕以外の誰かであるという分裂ではなく、矛盾の解消であり受容だった。それは僕にとって明確に救いであり、救済だったのだ。
僕の人生には出口ができた。すっごくそれは素敵なことだった。何せ息ができるのだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
でも、僕が人生で出会うのは「自己の多重化・矛盾の受容」とは正反対の方向へと突き進む「自己の固定化」方面の人々である。そっちには地獄しかねえんだよそれは僕が通ってきた地獄なんだよ! というメッセージは彼らには届かない。彼らは成功を通じて地獄へと進んでいくからだ。彼らはそのやり方である程度の利益を得た経験があるからだ。でもなああああそれは地獄なんだよ! そっちに出口なんてねえぞ!
X-MENのペンシラーとしての頃の印象が強いけど、ググってみたら最近の絵?もいい
眉間の影とシワとか、というか影なんだろうなあ
あの眉間は「るろうに剣心」の和月伸宏氏が恥ずかしいぐらいに丸パクリしていたけど、気持ちは分かる
眉間に水平方向の線の間隔でグラデーションを描くだけで、にらんでいるいかつい表情になる
藤子不二雄Aだと影の枠に線をひいて縦線だったり、真っ黒に塗ってしまったりするけどw
ただ和月氏もそうだけど、他人の記号というのは分かるので、なんかパクった持ってきた感が否めないのが嫌だったりもする、違和感があるからだ
その眉間、Jim Leeだよね、と言われるぐらい
対人関係が良好な者(いわゆるリア充)に対する僻みは、我々(いわゆる非リア充)にとって、文化、世代、性別を超えたある種の共通言語となっている。
この文脈は、はたしてリア充と呼ばれる人々にも共感できるのだろうか?
現在リア充であっても、リア充ではない自分を想定できるし、そうなった時に自分がリア充に向けるであろう目線も容易に想像できる。
リア充の中にも「リア充度」の高い者と低い者がいる。下位のリア充は上位者に対し、我々と同様に僻みを抱く。上位の者ほど僻みの対象が少なくなり、共感性も薄れる。
リア充は、コミュニケーション能力などの「リア充性」に関して他人を僻むことはない。しかし、収入や社会的地位、容姿、才能、知名度などについて他人を僻む事はあり、その感情と置き換える事で共感可能である。
リア充は、対人関係が苦手という感覚が理解できないし、それによって下される社会的評価の影響など想像もできない。
はいそうですね。