対人関係が良好な者(いわゆるリア充)に対する僻みは、我々(いわゆる非リア充)にとって、文化、世代、性別を超えたある種の共通言語となっている。
この文脈は、はたしてリア充と呼ばれる人々にも共感できるのだろうか?
現在リア充であっても、リア充ではない自分を想定できるし、そうなった時に自分がリア充に向けるであろう目線も容易に想像できる。
リア充の中にも「リア充度」の高い者と低い者がいる。下位のリア充は上位者に対し、我々と同様に僻みを抱く。上位の者ほど僻みの対象が少なくなり、共感性も薄れる。
リア充は、コミュニケーション能力などの「リア充性」に関して他人を僻むことはない。しかし、収入や社会的地位、容姿、才能、知名度などについて他人を僻む事はあり、その感情と置き換える事で共感可能である。
リア充は、対人関係が苦手という感覚が理解できないし、それによって下される社会的評価の影響など想像もできない。
はいそうですね。