はてなキーワード: 芥川とは
以下のエントリにぶら下がったはてな民によるブコメを読んでいて、「ああやっぱりいつのもはてな民達だ…」などとぼんやり考えていたらふと、芥川龍之介の蜘蛛の糸を思い出した。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-509289.html
血の池地獄で他の罪人と共に浮き沈みを繰り返していたカンダタは、生前にたった一度、蜘蛛を殺さなかった。たったそれだけの「良いこと」をその血の池地獄の様子をたまたま眺めていた天上界のお釈迦様が思い出し、天界から蜘蛛の糸を垂らしてカンダタを地獄から救ってあげようとしたが、その蜘蛛の糸を上っていたカンダタは、自分の後から続々と上ってきた他の罪人に気づき、「こらっ!落ちてまうやろ!上ってくんな!」と叫んだら、その瞬間、糸はプチッと切れて血の池地獄に真っ逆さま、というあの話だ。
ていうか、田野氏の2年前のツイート炎上の時もそう思ってた。芥川龍之介が始めた書いた童話だそうだが、芥川が伝えたかったことは曖昧で何か教訓めいたものがあるのかないのかよくわからない、と聞いたことがある。ただしかし、私は単純に、「ナチスは良いこともしていたのでは?」なるよくある言い分は、この蜘蛛の糸にそっくりな気がずっとしていたものだ。
蜘蛛の糸を喩えとみなせば、そのような一般的な言い分を認める人たちは、2派に分かれる。一派は、「ナチスは実は良いこともしていたじゃないか」として、絶対悪の淵から救い出そうとする勢力だ。これがおそらくそのような主張をする人たちの大半であろうと思われる。だから、それらの一派は蜘蛛の糸を絶対に切ったりはしない。たとえばそれらの良いことの実例の一つや二つ否定されたからと言って、それらの人たちは次から次へと蜘蛛の糸を垂らしてナチスを救い上げようとするのである。
もう一派は、蜘蛛の糸の話そのもの、みたいなものだ。良いことをしていたかもしれないことは認めるが、ホロコーストなどの悪行のせいで絶対悪の淵からは救い出せぬ、とするのである。まるでその人達は、天上界のお釈迦さまそのもののようでもある。
id:NOV1975 対戦相手を全否定するのって中々の悪手で、観客にその否定の一部でも「いやそれは正しくね?」と思わせてしまえば全否定という主張の根幹が崩れる、という最大級の弱点を無視する人多すぎ問題。
このブコメなどはまさにお釈迦さま視点である。このブコメの裏を取れば、全否定しなくとも、ナチスは否定できると言っているようなものであり、どんなにナチスに良いことがあろうとも、ブチっと蜘蛛の糸を切って血の池地獄に落としてしまえさえすればいいだけじゃないか、となるのである。
話は少し変わるけど、私自身がしょっちゅうはてな民は、お釈迦様みたいなものかもしれん、と思ってたりする。とにかく「偉そう」な物言いを常にするからだ(笑)。いや、ネット民なんてはてなに限らず、ほとんどそんなもんなのだけれど、はてな民は若干だか平均して知性が高いように思わせる「何か」があるので、その分だけお釈迦様度は高いように思われるのだ。
さて、話を戻すと、一つ言いたいのは、これらブコメを書いたはてな民たちの何人が一体、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読んだのか?って話だ。この本は共著であり、およそその半分を小野寺拓也氏が著述しているのである。小野寺氏はウルリッヒ・ヘルベルトの『第三帝国』の翻訳者でもある(それがどうしたとか言わないでね。知る人ぞ知る名著です)。流石に二人とも現役のドイツ現代史研究者であり、『「良いこと」もしたのか?』は、極めて実証的に著述されている。もちろん、現代の学術的見解にも精通しているお二人だ。その観点で、記述内容自体は必要十分には詳細であり且つ正確だと考えられる。ナチスの経済政策や、労働政策、環境政策や健康政策などなど、それらが具体的にどんなものであったかを知るための入門書として非常に良書であると思われる。実際、このようにナチスの具体的な政策について概括的に知ることのできる本はこれまであまりなかったからである。『ナチスの発明』?あんなもんただのクソ本だ。ハーケンクロイツをデカデカと表紙にするセンスがそもそも信じ難い。
したがって、まずはちゃんと読んでほしいと言いたいところではある(たかだか100ページ程度の本だ)のだが、実は、同著は別に全否定しているわけでもない。確かに、田野氏は「ひとっつも良いとこなんてないですよ」とツイートでしたからこそ炎上したのだけれど、同著の記述方法は、まずは一般に言われるような「良いこと」を具体的に一つずつ、項目としてあげて丁寧にそれを「良いこと」として詳述するところから始めている。つまり、そこだけ読んで、その後の説明さえ読まなければ、ナチスは良いことばかりしていたかのように読むことさえ可能な本なのである(笑)。その辺が、小野寺・田野氏両名の学者として誠実なところではないかとさえ言い得る。つまり最初からナチスの政策を腐しているわけではないのだ。
結果的には評価として、ナチスの政策は良いところなんて一つもなかったと、結果論として評せざるを得ないことは確かである。その象徴が、現在もバルト海沿岸に残されている『プローラの巨人』と呼ばれる、ナチスドイツの歓喜力公団(Kraft durch Freude)が建設していた巨大リゾート施設である。同著では詳しい記述はないが、同施設は労働者が無料で使用できるリゾート施設になるはずだった。が、戦争が始まると、建設は中途で中止されてしまい、使用されることはなかった。現在は歴史的建造物として、廃墟のまま放置されている(以下追記)。しかし、ナチは確かに労働者に喜びや活力を与えようと、余暇を十分楽しめるように政策を実行しようとしていた証拠ではあるのだ。詐欺集団が実際には存在しない投資物件への投資を求めるのとは訳が違う。ただしそれもこれも、戦争の波の前に全て頓挫してしまったので、「夢」としては良いことかもしれないが、「現実」には良いことがあったとは言えないことになる。しかしその全てを台無しにした戦争を始めたのもヒトラーなのである。
個人的には、お釈迦さま視点など要らないと思う。個々人が個々人自身によって、ナチスにも良いところがあったのでは?と思うのであるならば、批判的視点を忘れずに、それを可能な範囲で自ら学ぶべきだと思う。否定・肯定を抜きにして、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、知性高いはてな民にとってすらも良書だと思うのだが。1000円未満で買えるんだぞ(笑)。
追記:プローラの巨人については私自身の記憶が曖昧且つ古かったようで、再利用化が進んでいるようだ。以下、英語版ウィキペディアから機械翻訳そのまま(修正なし)でコピペする。
売却と再開発
2004年、10年以上にわたって敷地全体の売却が試みられたが失敗に終わった後、建物の各ブロックは様々な用途のために個別に売却され始めた[1]。 2004年9月23日、ブロック6は入札者不明で62万5,000ユーロで落札された[1]。 2005年2月23日、旧ミュージアム・マイルのブロック3はInselbogen GmbHに売却され、同社は建物をホテルとして使用すると発表した。2006年10月、ブロック1とブロック2はProra Projektentwicklungs GmbHに売却された。しかし、ブロック1は2012年3月31日に競売にかけられ、ベルリンの投資家が275万ユーロで購入した。
2006年11月、連邦不動産庁がブロック5を購入した。連邦政府とメクレンブルク=フォアポンメルン州からの財政支援を受けて、この建物にユースホステルを設立する計画だった。複合施設の最北端に位置するこの建物は、5つの連続した部分に分割された。
2008年末、プロラが本来の目的を果たし、近代的な観光リゾートに生まれ変わる計画が承認された。同協議会は、3,000人が住めるだけの居住スペースとユースホステル、観光客向けのアメニティを建設する計画を打ち出した。地元議員のケルスティン・カスナー氏は、プロラの海岸を「カリブ海のビーチ」に例えた。しかし、この決定は、すでにこの地域には観光客が多すぎると感じていたビンツの地元住民や、プロラの歴史家であるハイケ・タゴルド氏からは懐疑的な意見もあり、また、町の過去の歴史から観光客には不適切な場所だとも言われた。とはいえ、2011年には、かねてから計画されていた96室402ベッドの大型ユースホステルがオープンし、ドイツ最大のユースホステルとして人気を博している。低予算志向の観光客に向けた施設の拡張の可能性も提案されている[8]。
2010年9月、ドイツとオーストリアの投資家グループにより、1号棟と2号棟を高齢者向け住宅として改修し、テニスコートとスイミングプール、小規模なショッピングセンターを備えた300ベッドのホテルを建設する計画が発表された。投資額は1億ユーロと見積もられている。
2013年、ドイツのメトロポール・マーケティング社がプロラを改装し、サマーハウスとして販売する権利を購入した[9]。その年までに、いわゆるコロッサスの改装済みアパートメントが1戸70万ユーロ(90万米ドル)で販売された[4]。2016年、ブロック1に新しいアパートの第一号がオープンした[10] ブロック2のホテル「プロラ・ソリテア」は2016年夏に合わせてオープンし、2017年半ばには同ブロックで再建されたアパートの一部が売りに出された。当時、建物のうち4棟は再開発の過程にあり、5棟目はユースホステルとして使用され、残りの3棟は廃墟のままであった[4][11][12]。
2017年11月の更新によれば、ブロック1のユニット(フラット)のほとんどは、ハンブルクやベルリンに住む人々のための夏の家として販売され、売却されていた[7]。多くの所有者は、Airbnb[13]やHomeAway[14]などのサイトに短期賃貸として掲載していた。
うまく伝わるかわからないのですがこの深い悩みの放流先を
「うたちゃんほむぺhttps://utap.hateblo.jp/」(頼りになる同人サイトです)
ではなくここになさったということで
アドバイスになるかわからないですけれど自分も放流してみます。
まず感情の問題によりそう文章を書くときは(自分の筆力では)かなりの長文になってしまうことをお許しください。
人間は自分にないものを持っている人にあこがれを持ち惚れこみがちな生物で、これはもう仕方がないことです。
元増田はAさんだけにふりむいて(かまって)もらいたいのだが
BさんはAさんだけにふりむいてもらいたいし
CさんはBさんにふりむいてもらいたくて(以下略)…なんて複雑な人間関係はよくみかけます。
その感情をテーマにして描いた「私のジャンルに神がいます」https://comic.pixiv.net/works/7003なんて漫画もできたくらいです。
歴史を紐解けば明治の文豪(男性)もそういう自分が好きな人にだけ認めてもらいたい、先に仲良くなった人に嫉妬する、みたいな悩みはしっかりあったみたいですしね。
直木五十六さんまわりとか、芥川さんとかいろいろあったらしいとうろおぼえしています。
その感情には私も何度もおぼえがあります。そして決まって振られます。というか成就がないです。
・相手は自分のミューズだ。ただの人間、クソもセックスもズルもするくせに、手をうごかせば神のような作品をつくれてしまう人間。…なんてものがいるから、悩む。
・自分の欲望が形になったものだ、とただの人間相手に理想を投影してしまう。
・延々と実のない「片思い」をしてしまう。(しかもなにをしてもらっても満たされないし、感情をぶつけても迷惑にしかならないことはわかっている)
・2000円にも満たないお金で一冊=一票を投じることしかできない。自分は発行部数分の1の存在でしかない。
こういう事象というのは一度真剣に創作をはじめてみるとわりと初期で普遍的にぶつかる悩みの一つなんだとおもいます。
(しかも一般に言われている簡単な解決法「その悩みを創作、同人ネタに昇華させりゃいいじゃん」ってのは、つかえるか?というとつかえないんですよね…
リアル悩みを投影させてキャラをうごかしてみてもはたからみたら古い少女漫画みたいなことになることはわかりきっているので)
ただ、ジャンルを複数経ていると相互提供関係、いわば両想い創作者になれる例も
数少ないながら見られます(ジャン神でもありましたよね、おけパ中島というキャラで)
・リアルで最低一度は会っていること。
・お互いにニッチな立場にいて相手の協力が創作活動にかかせないこと。
・ジャンル参入時期が近いこと。創作スピードも近いこと。(少なくとも片方は粗製乱造タイプが多い)
・リアル人間としての生活時間帯や生活態度がお互いに相容れるものであること。
ただここで指摘しておきたいのは、「戦友や両想い状態の実現」と、「片思いの成就」とは全く違うということです。
つまり両想い関係はお互いの創作にほれ込むというより、妥協とか譲り合いの産物で理性をもったつながりだから両想いになれるのです。
戦友になるしかない状況が先にあり、妥協と譲り合いで会話数も増えて外部からみて相思相愛にみえていてうらやましいだけ、のことが多い気がします。
はたからは会話が多くて仲がいいわね、といわれる。
普段は子供が夏休みになるけどどっかいくの?なんて事務連絡ばかりしている。
また相手が人間だとわかっているので通院や入院など人間が肉体を持つ故の悩みにたいして冷静で手慣れた処理(薬飲んだの?送迎しようか?対処法ぐぐっておいたよ、など)ができる。
そういう関係では逆に「月がキレイですね」なんてロマンス的なことを20年もいったことがなかったりする。
創作とか高次の感情のやり取りではなく、もはや相手の人格さえ把握しきっていて読めていて、自分の楽しむツールにつかえるってだけなんですよね。
逆に創作者というのは誰とつきあっても相手に創作の邪魔されてる足を引っ張られているとしばしば感じるけど、その度合いが比較的少ない相手というだけなんだとおもいます。
それがSNSで可視化されている状態が「戦友や両想い」の創作者たちである、と私は思います。
つまり、「戦友や両想い状態になること」は「片思いの成就」とはことなるものです。
それでもよければ一度「戦友」にまぜてもらいたいと口に出していってみるのもいいとおもいます。
ただ「こんどだらだらと通話してみない?」だけでもいいとおもいます。
逆に片思いをこじらせて憎さ100倍になってやってしまった典型的な事件もありました。
収監された爆弾脅迫犯人は本を一冊聞き書きで出したはずですが、
作品の表現に関する言及より(当然ながら)犯人自身への言及だけで出版されています。
で、はたから見ていると全くその創作じゃなくてもよかったんだな、と見えます。
気の毒になります。
もちろん被害者である藤なんとか先生も、ファンの集いを破壊されたその他のファンも気の毒なのですが、
たまたま脅迫犯人の心のぽっかりあいた空白にはまって、外そうとしても外れなくなってしまう作品が黒バス+先生の経歴だったんですよね。
同じ作者でも別のスポーツをあつかっている漫画や、別の経歴の作者のバスケ漫画は刺さらなかったのだろうに。
あるいはただ凡庸なよくいる顔もオーラもたいしたことのない人間がたまたま手から万人に理想的な嘘をつむいでいるだけだという実態を間近でみられればそうはならなかっただろうに。
だからあそこまでいくと片思いは免疫反応でが誤作動しちゃうアレルギー病みたいなもんです。
でも一度アナフィラキシーショックをうけたら回避して生きるしかないアレルギーとちがって
あなたには自分も創作という場に建てるという強みがあるわけですし、自覚もあるわけです。
人間と杉花粉でなくてよかった。話が通じない相手でなくてよかった。
(話が通じにくい相手の話が今日でてたのでいちおう貼っておきます anond.hatelabo.jp/20220720110433
これも一種のかまってちゃんなんだろうなと。これよりは同じジャンルで作品を書こうとしているあなたのアプローチのほうが25000倍マシだと思う)
あなたは沈黙を選んでもいいし創作を続けてもいいし、SNSに生息する普通の人(かまってほしいだけの人たちにまじる)になってもいい。
ただ表現力はしっかりおありになるので、ニッチな、自分が発揮できる場所をえらんで個性的な創作をみがいていけば、
いつか、あなたの欠点が全く見えないほどあてはまるだれかに片思いをされることもこれから出てくるとおもいます。
その人に(あなたの作品やそれをつくりだしたあなたという奇跡的な人格への)愛を告げられるたびに、
昔うけた「Aさんにふりむかれなかった自分」というトラウマ、あなたの心の中のAさんのお墓に土が積もって平にならされていく。
私はあなたならきっとそういう創作者になるだろうとおもいます。
あと本当に個人的にきれいごとばっか書いた気がしてここ増田なんで一応正直なとこを追記し
芥川のはんけち思い出したわ
例えばイタリア旅行は人生の目標として未達成のまま放置している
出張でニースには行ったことがあって、そこからモナコまでは遊びに行ったんだけどイタリアには入らなかった
ぶっちゃけ行こうと思えば1週間休み貰って行くこともできるんだけど行かないようにしている
これまで無かったけど仮にイタリア出張のチャンスがあっても行かないと思う
多分だけどイタリアに行ってしまうともう海外旅行はいいか、という気分になると思う
けど飲まない
こういう「明日死ぬわけにはいかない」っていう目標が今を生きている原動力になっていると思っていて
純文学界隈のヤバいところってお友達だけでショボくて少ない貧相な仕事回してるのもそうなんだけど、危機感のなさが一番ヤバい点だと思う。
編集者も作家も口では売れない売れない言って「現状把握できてますよ~」アピールするんだけど、「単純に作品がつまらないから売れてない」って現実を絶対に見ないようにしてる。
普通に考えて、文藝春秋や講談社や新潮社という圧倒的存在の後押しで出した単行本が、芥川受賞作でもない限り実売2千部も多分いってないのはヤバいでしょ。つまらないんだよ。
あのつまらないものを売りたいなら、それこそ現代アートや大昔のチューリップの球根みたいに値段をでっちあげなきゃ。特に現代アートのやり口は参考になると思うよ。小説って品物に馴染む。