はてなキーワード: 助長とは
今回のアツギの件では、多くの二次絵批判と同じく「性的消費(性的搾取)」といった用語による批判が見られた。
(https://digital.asahi.com/sp/articles/ASNC46FQKNC4UTIL00Z.html の有料部分など)
フェミ学者がこれらの語を用いて、表現物の中身について性差別の存在を仄めかすレトリックの結語はいつも「性差別を助長する恐れがある」である。
と二段構えにすることで、表現物にあるはずのない性被害の責任を表現物の側に押し付け、不快感にすぎないそれを性差別に偽装するところにある。
例えば、性的な内容を含む表現物を見せることを"強制"したり、性的な内容を含む表現物を間に挟んで"囃し立て"を行ったりした場合だ。
しかしこれらはあくまで強制や囃し立てという行為が悪いのであって、表現物が悪いのではない。
どんな表現物であれ、それを通して人権侵害を行うべきではないという倫理は、表現物ではなく人間の側に求められるのだ。
表現規制が行われるべきギリギリのラインは、表現物そのものに明白な人権侵害が含まれている場合に限られる(例えば「◯◯人を殺せ」のようなポスターなど)。
(もう一つの可能性としては、助長するのが差別的行為でなく、性に対する個人の意識=内心と想定されていた場合が残る。「二次絵は人々の性意識に悪影響を及ぼす」と。
だとすればフェミニズムはローマカトリックばりの中世に退行した思想である。フェミニズムが目指すべきは近代の徹底だ。)
「恐れがある」とは、「表現物が差別を助長する」という破綻したロジックについて、それはあくまでも可能性/蓋然性の話ですよと逃げを打つためのエクスキューズだ。
しかし可能性/蓋然性のレベルに下げてみた所で元々のロジックの破綻に変わりはないし、
この「かも知れない」可能性に抱く恐れこそ、「不快感」と呼ぶに相応しいものだ。
この全ての表現物について人々が抱きうる、そして表明されてよい「不快感」のレイヤーの話を、可能性の話に下げることで前段のロジックの破綻を曖昧にし、「恐れ」という言葉のニュアンスで表現物の側に責任を負わせるレトリックが「恐れがある」だ。
「国家による規制には反対です」と譲歩のニュアンスが続くケースも散見されるが、
国家による規制云々以前に、そもそも表現物自体に対して「差別=人権侵害」のニュアンスを含ませた批判の理路が誤りなのである。
このように「性的消費」を支えるロジック="性差別を助長する恐れがある"は破綻しており、扇動的ですらある。
また「助長」にも「恐れ」にもエビデンスがない以上、表現物単体で「性的消費」という概念が成立する余地はなく、オーディエンスは単にその表現物を通して「不快感」を受け取っているとするのが正確だ。
もちろんその不快感は自由に表明されてよい。しかしその不快感は、その表現物に差別が内包されていることを意味するものではない。
https://anond.hatelabo.jp/20201107053636
・ひろくメディアで拡散されることで女性軽視的な認識の再生産が起こる→わかる。いつまでも家事を女がやってるCM垂れ流し続けると社会が「そういうもん」って思うみたいなやつ。わかる。
・タイツを性的なものとして描いたPRがタイツメーカーによって出されることで、タイツ=性的という理解が広まる
→微妙。性的な場面を想起させる絵もあったがそれを見て「タイツ=性的!」って思うかは微妙。もともと(一部のマニア以外の)認識になかった意味を付与されて、それをスタンダードと思うようになるか?と思うと微妙。
理路を求めて長文をしたためる人の文章に理路がない、というのは置いておいて。
今回のアツギの件に怒っている(主に)女性は、理路以前の、日々の生活における不便を助長する(痴漢に怯えたり、あからさまな視線を向けられたり)、現実の可能性に怒っているんだろうと思う。
エロイラストの表現の自由を守りたい反フェミ?勢や、理路がない…と首をかしげる人たちは、表現の自由という「理念(風の我儘)」を胸に発言をしているので、女どもには理路がない…と思うのかもしれないが、こちらは理路だけでなく、もっと切実な「現実」というイシューを思い批判の目を向けている。現実と理念(風の我儘)とのぶつかり合い。
「理路がない」と思う人にとってはタイツは非日常(オレサマのエロの自由!という理念)であり、少なくない女にとってはタイツは日常であり、日々エロ視線にうんざりさせられ、自衛や撃退などをさせられている現実がある。
今回、アツギは割と広く燃え広がり、まだ燃えていて、いわゆる普通の女一般が色んな理由でNoを言っている。だから理路がないように見えるのだろうが、それは理路がないのではなく、女が毎日直面させられている「現実の色んな迷惑」がある裏返しである。なので、当然、批判の方向性もバラバラでその「理路」に統一感がないように見える人には見え、マンスプレイニングよろしく「理路がない女の話なんか聞く必要はない!」と炎上に薪をくべている。
「女の立場」における理路は、これらのうんざりする性差別の現実のあとに構えている。
「何を今更、ずっと視姦し続けてきたのに」と、「女が現実に直面させられ続けている迷惑」の矮小化やセカンドレイプめいた女性性の軽視が見られたり、表現狂戦士が「女には理路がない」と差別を公言したり、そういう点が、ジェンダー的な、構造的な「理路の問題点」だと言える。
今回は現実の迷惑が火種になってるので火の広がりが広く、それに薪をくべる男性からの性差別という理路的(というか形而上的な)な言動への批判が構築されている。無能な味方が、山火事の真っ最中に、キャンプファイヤーのように性差別構造を良く燃える薪でくみ上げていっている、二段構えの炎上だろう。
はは、呑気だねー。
いい問題提起だと思った。今一番しっくりきてるのは「女性が普通に履くタイツの性的描写をゾーニングのない比較的有名な媒体に出すことでタイツへの性的目線の広まり、罪意識の低下、犯罪の助長が危惧される」かな
https://b.hatena.ne.jp/entry/4693883421726092194/comment/yojihan
何もかもが違う。
「モノ化」というのは「objectification」の誤訳であり、正しくは「客体化」と訳さなければならない。
これはつまり、「性的関係とは、男性が女性を性的に扱うことである」「主語は男性で、女性は目的語である」という認識を助長することだ。
ちょうど「主体的な性」の対義語にあたるのが「客体的な性」であり、「女性の客体的な性を積極的に賛美・推奨・助長する言動」のことを「性的客体化」と呼ぶ。
「主語が大きい」という言葉は有名になりすぎて誰でも脳死で批判できる領域に成り下がったが、「主語が小さい」ことはあまり問題にされない。
嫌韓が盛り上がっていた頃から指摘しているのだが、差別を行う人々は時に「一般的に成り立つはずの事象を、あたかも特殊なことのように話す」ことがある。
例えば、「韓国は下水設備が貧弱で、水洗トイレでもトイレットペーパーを流すことが出来ない」ことを嘲笑う人がいる(いた)。しかしそれは全く逆で、「日本は下水設備が優秀で、水洗トイレにはトイレットペーパーを流すことが出来る」というのが正しい。「トイレットペーパーを流すことが出来る」のは、そもそも世界的に見て日本の方が特殊なのである。(最近は海外も状況が変わっているらしいが。)
このような論理は女性差別やオタク差別などでもしばしば用いられる。
「女は嘘をつく」と言うが、そもそも「人間は嘘をつく」のである。「女は感情的」と言うが、そもそも「人間は感情的」である。
「二次元表象が犯罪や差別を助長する」と言われる時、「二次元表象以外が犯罪や差別を助長する」可能性は無視される。「たとえ二次元でも小児性愛を肯定的に描くことは、現実の小児性愛の肯定に繋がる」と主張する人は、「たとえ成人でも対人性愛を肯定することは、現実の小児性愛の肯定に繋がる」とは言わない。
増田が批判してる雑な属性認定の極北が、実は「女性」カテゴリだよね。
今回のタイツ案件なんか、「女性」カテゴリが完全に崩壊してる典型的なケースだった。
それでもまだこれは「性的消費/性的搾取」だと言い続ける人たちのタフネスは見習いたい。
たった一つ、揺るがない事実があるとすれば、それは「あの表現を見て不快に感じた人がいた」という一点だ。
それだけは無視してはならないし、何かしらの配慮を必要とするものだ。
ただし、いくら性的な絵がSNSで目に入ったからといって、その表現が「女性」というカテゴリから何かを奪ったかのような悪質性の高い行為=「性的搾取」であることを意味しない。
タイツを用いて性的アピールをしたい女性もいる、そうした女性にアプローチしたい女性担当者もいる。
そのように「女性」というカテゴリが成立しない案件である上に、絵を目にしただけで何か(尊厳?)が奪われたかのようなレトリックは、もはや自分の感じた不快感に錦の御旗を付けたいだけの、不誠実極まる行為だ。
例えば面と向かって、或いはSNSなどによるリプライなどの直接的な応答で、本人の性的特徴をあげつらったりする行為、これは性的消費の枠組みで批判されていい行為だ。
しかしたまたま「本人にとって」性的な絵を見せられたことをもって、「性的消費/性的搾取=差別を助長する行為」と認定するのは、以上の理由からあまりに粗暴な行為という他ない。
単に興味がないこととサンドバッグとしての質の悪さだな。
オタ絵叩きやオタ絵叩き叩きは叩いた相手の反応がすぐわかるし煽りを楽しむ人たちにとってはエンタメ性が極めて高い。
例えば今国内の農業について叩くのがトレンドになっているがアフリカのカカオ農園については叩く叩かない以前に存在すら知らず呑気にキットカットやカントリーマァムが小さくなったと言って逆に搾取を助長するような言動を繰り返しているのがネット住民よ。
女が女を叩いて終わったとか、フェミがいつも通り暴れて終わったとか、某区議はそこまでやることだったのかとかで話題が着地してるのがもどかしい。
そもそも今回の件だって最初は特に攻撃的ではなく、これはちょっと気持ち悪いという気持ちの表明だけだった。
その気持ち悪さってのは二次元で可愛く(エロく)描かれるタイツと三次元で実用的に履くタイツは全く別の物であることを
タイツを利用する人が感覚的にわかってるから、そこの線引きがされてないことへの気持ち悪さがあったのだと思う。
この件で性的犯罪を助長するとか性的搾取だとかそんなこと思ってる人は私の観測内ではほとんどいなかった。
絵は可愛いものもあったけどそれを公式がやるのはちょっと・・・というスタンスの人たちばかりだった。
スク水の広告や幼稚園の広告に快楽天の作家を使うのはちょっとなあって感情に近いんだと思う。
(そういう意味でいうと絵師の人たちはおおむね実力を出し切って絵を見た人たちに自分の絵の魅力を伝えられたともいえる)
対立したいわけでも謝罪してほしいわけでもない。ツイッターの中の人を攻撃したいわけでもない。善悪で語ることでもない。
でも終わってみると結局はそこに着地している。不毛すぎる。
今回、ちょっとこれは不快だなって思った多くのタイツ利用者達は・・・だと主語が大きいので、少なくとも私はそんなことを望んでるわけじゃない。
なのになんでそこに着地してしまうんだろう。謝罪はしなくていいんだよ。これがいいと思った企画なんだから企業として自信を持って出し続ければいい。
そのうえで私たちタイツ利用者がそのPRに対してYESとするかNOとするかきちんと企業が見極めて欲しい。それがマーケティングってやつじゃないの?
炎上したから消火しなきゃいけないなら、企画意図をきちんと説明するとか(まあ興奮している人たちがきちんとそれを受け取れるかは別として)
謝罪以外のなんかはないのかな。一部の過激な人たちの大声とアツギ製品ヘビーユーザーではなさそうな人たちとの応酬で何も解決せずに臭いものには蓋で終わってしまうんだよこれじゃあ。
だから同じことを何度も繰り返すんじゃないの?結局いっつもこれで終わりじゃん。
違うんだよ。そうじゃないんだよ。どうしたらいいんだよこの気持ち。メールで伝えればいいのかなぁ。大企業に伝わるのかなあこういうのって。