はてなキーワード: ハム太郎とは
休日だからなんか文章とか小説とか書こうかなと思っていたが、集中できず、ずっとyoutubeを見ながらゲームをしてしまった
だらだらとしゃべるyoutuberやタレントの耳障りの言いだけの会話劇を聞き流しながらゲームをしていると
僕のちっぽけな脳は自身の悩みや社会情勢や妬みみたいな感情の入るスキマもないくらいにギッチギチに情報で埋まって、
軋みながら走るジジイの自転車みたいに悲鳴上げながらもなんとか情報を整理して指先に返す
Aボタンを入力した画面上の選択肢は新たな悩ましい選択肢を呼んで、youtubeは勝手に次のおすすめ動画を選んでくれる
喉が渇いたら600mlの午後の紅茶美味しい無糖を飲んで、姿勢が苦しくなったらリクライニングを倒す
腹が減ったから外へ出たら、田んぼの稲の緑と空の青が映えていたけど、『ウォーターボーイズ』の登校風景みたいだくらいのしょうもない感想しか浮かばなかった
田んぼ横の用水路はどぼどぼと水を運んで、国道からこっちに吹く風は排気ガスのにおいを含んでいてとても不快だ
写真として切り取ったらばっちりと決まるくらいの夏の風景も毎日見ているとどうしようもなく抜け出したくなる
ただ県下には緊急事態宣言が敷かれていて、僕はそれを破ってまで出かける用事を持ち合わせていない
職場に掃除に来ているシルバー人材センターのおばちゃんはもう三か月くらい市内から出ずに生活していると言っていた
今週末、孫が遊びに来ると言っていたけど、それもやめてもらったらしい
自分は別に出かけたいところもないけど、若い人は色々我慢してつらいんじゃないかねえと世を嘆いてもいた
おっさんな僕もおばちゃんの中では若い人カテゴリーにいたらしい
そうですねえと僕はあのときつまらない相槌を打ったけど、僕は別におばちゃんに我慢してもらいたくねえけどなとも思っていた
くっそ暑い日にショッピングモールに連れて行ってもらって騒ぐがきんちょと慌てながらそれを追いかけるジジババはわざわざ語るまでもないくらいのつまらない風景として僕の中にある
ただこの週末にあったかもしれないそんな風景は一つ消えたらしい
そんな面倒くさい感傷が関係ない中年男性の僕にどおんとぶつかってきたよ
少年にとっての夏休みってさ、だって親にどっか連れてってよの夏休みなわけだろう
ここじゃないどっかって10代後半くらいから歌手以外使用禁止ワードに入るけど、小学生が親に駄々る「どっかっていったらどっかだよ」くらい正直で鮮明で許されるべき宣言ないよね
別にガキの話がしたいわけでもないけど、夏の昼過ぎに誰も歩道を歩いていなかったんだよ
田んぼの畔を新興住宅街のガキが勝手に侵入して歩く姿も1カ月くらい見ていない
なんかここんとこハム太郎の飼い主のガキがいつもアニメの最後に言っていた「明日はもっといい日になるよね、ハム太郎」という戯言を呪いの様に思い出してる
無邪気で明るい希望的観測に満ちた祝詞でかつ、製作者のこんな世界観で今後もこのアニメ続けますんでよろしくっすみたいなメタ視点の代理宣言
本当に毎回に近いくらい最後にこのシーンを挟むから、ガキの頃から時間の無駄感があって大嫌いだった
文章ってなんでテーマを決めて書くと書けないのに、適当に書きなぐろうと思うと書けるのだろう
また月曜日が来るよ
へけっ
コントローラーに乗せたあしを止める。
「ハム太郎……?」
ケージから出してほしいとアピールする。自分で勝手に出るのとは違う。
まっすぐロコちゃん目を見つめて、そばに行きたいと訴えているのだ。
「……っ」
意図は汲み取られたのだ。逡巡、意を決したように立ち上がる。
上気した顔は更に赤く、呼吸は荒く、扉に近づくほど手は震えだす。
この扉を開けることは、一線を越えることを意味すると、わかっているのだ。
いたずらでコントローラーを置いたなどと、自身に言い訳さえできないのだ。
扉があいた。飛び出さない。決意をもって、踏みしめるように一歩ずつ進む。
あしが震える。ぼくもまた、一線を越えることに緊張しているのだ。
手のひらからロコちゃんの元へ。おでこへの優しい口づけに、ぼくもめいいっぱいおでこを擦り付けてお返しするのだ。
横になったロコちゃんのからだを下っていく。ピンクのおとものいた場所にいく。
本能を感じる。"ここ"なのだ。この小ぶりなひまわりの種ほどの大きさの"ここ"が、ロコちゃんと愛を育むに足る場所なのだ。
鼻先で触れるとぼくの身体が浮いたのだ。いや、ロコちゃんの身体が跳ねたのだ。
軽く触れただけでこの反応、繊細なところなのだ。
やることが分かると、がぜんやる気が湧いてきたのだ。ピンクのおともがやってきたことを、ぼく自身のちからで達成するのだ。
あしで撫でる。ひまわりの種を磨くように、やさしく、素早く、緩急をつけて。撫でるたびに揺れる。声が漏れる。
ロコちゃんが足をつっぱらせている。不意に力がこもって、ふとももでぼくを潰してしまわないようにと我慢しているのだ。
その我慢がいっそうロコちゃんを昂ぶらせるのだろう。その優しさと艶姿に、ぼくの興奮も一段と激しくなるのだ。
あし先だけでは足りない。全身を、毛並みを、ぼく自身を使ってスパートをかけるのだ。
小刻みな揺れはどんどん激しくなり、ついにロコちゃんは絶頂に達した。
やったのだ!ついにぼく自身がロコちゃんとえっちを完遂したのだ。
「今日、とっても楽しかったね。明日ももっと楽しくなるよね。」
ネットとかで漫画家とかについて連載してるうちに絵がうまくなったねみたいな話を見ると困惑する。
まず絵がうまいとはどういうことなのか。単なる画風の変化とは区別されることなのか。と思う。
たとえば描き込みが多くなったとかで絵の上手いと評するのは安易に過ぎるだろう。
それは多分その人自身の星のカービィとかアンパンマンとかを落書きした経験から語られているのだと思う。
つまりそういったキャラは確かにオリジナルの描きこみ量も少ないし、それらを幼少の自分さえそれっぽく描けた経験から、描きこみ量と絵の上手さ(=真似できない度合い)は比例するという考えに至っているのかもしれない。
まあハム太郎なんかになると一見単純そうに見えてそれっぽく描くのも難しんだけどね。
(「何描いたか当ててみて!」「すみっこぐらしにそういうキャラがいたような…?」)
線を多くする方がバランスを取りやすいって書道におけるのと似たような説もあるぐらいだし、なんともいえないんだよね。
またかりに「真似できない度合い」でオーダーをつけようとするなら、個々人における真似できない度合いというものは題材により入れ替わり得るものなので、平均化して論じなければならない。
俺はプリズマイリヤとロザリオとバンパイアにおいてそういう言説を見たけど、やはり画風が変わっただけじゃないのかとしか思えなかった。
お前ハム太郎の何を知ってんの?
物心がついた頃からずっと、二次創作は私にとって身近な存在だった。
シンデレラ、白雪姫、ラプンツェル。気に入った話があればすぐ「続きは?」とせがむ私に母はよく即興の続編を聞かせてくれた。
本を読んでくれるのは昼間だが、続編を聞かせてくれるのは眠る前の布団の中だった。
お話をしてもらえない日の夜は、仕方ないので自分の二次創作妄想で眠りにつくまでの時間を埋めた。母の語る話には遠く及ばないが、神が書いてくれない日は自分で書くしかない。私は今でもそう思っている。
お気に入りの妄想は、シンデレラや白雪姫が王子様に嫁いだあと、隣国の王子が姫を奪いに攻め込んでくる話だ。
自軍が不利な戦況になり、さらわれそうになったシンデレラが、果敢に剣術で立ち向かい隣国の王子を斬り捨てるシーンが特に好きだった。
隣国の王子を殺したあとは、隣国の家臣から銃殺されることも少なくなかった。
母のお話では主人公は死なないので、軽率に死ネタ妄想ができるのはひとりで寝る日だけの特権だった。
まあ、そうやってお話で寝かしつけられていた私は、下の子が生まれると今度はお話をしてあげる立場になった。
内容は好きなアニメや絵本、漫画のキャラクターがよその世界に遊びに行ったり、冒険をしたり、無人島に漂流したりする、雑多なクロスオーバーだったように思う。
小学生の発想力なんてそんなもんだ。
私がおはなし上手だったのか、それとも下手なのか、今となっては確認するすべもないが、当時はそれなりに喜ばれていた。
もうお話してあげないよ!と言って下の子を脅したり、言うことを聞かせたりしていたかもしれない。最低がすぎる。界隈でROM専相手に横暴きわめる同人女かよ。
「あの…そういう方に私の作品をお見せすることはできません。これからはリスト限定公開とさせていただきます。」「こんにちは!〇〇さんの繊細でありながら大胆な絵柄が大好きです!よろしければリスインお願いします💦」「初リプ失礼します。いつも〇〇さんの作品に元気をいただいています。昨日上げられていた✕✕の△△も、なんと申し上げて良いのか…すごいの一言です。もしご迷惑でなければリスインしていただけないでしょうか。」「初めまし
いやまあなんでも良いけど。
私はほぼ毎晩のようにお話をした。家族で伊勢海老を食べに行った日は、セーラームーンが無人島で釣った伊勢海老をエビグラタンにする話をしたし、幼稚園の運動会が近いときは、テレビで見たキャラがみんなで運動会をやる話をした。
大玉転がしの玉の下敷きになるハム太郎の話に、かけっこで水の上を走るバジリスクの話。応援テントで酒盛りをしているアガサ博士と毛利小五郎の話。バジリスクはダーウィンが来たに出ていたのを一度見ただけだが、かなり気に入っていたのでどの話にもちょいちょい出した。
いくらでも作れたし、思いついた話を笑って聞いてもらえるのはとても楽しかった。
しかし私がどんなお話をしようと、界隈の神は揺るぎなく母であった。
特別な夜にだけしてもらえる母のお話は、いつも夢中になるくらい面白くて、私なんか台詞、ストーリ、構成。どれをとっても母には敵わなかった。
私の話はキャラ萌えと勢いの良いギャグだけが売りの、とっ散らかった話だ。毎日連載し続けた根性はともかくとして、行き当りばったりで筋の通ったストーリーが一つもない。
まあしかし、特に私は母に嫉妬するでもなく、たまに母のお話が聞ける日をとても楽しみにしていた。
そんな私がジャンル撤退するきっかけになったのは、別の神との出会いだった。
10歳の頃、初めて使ったインターネットで、なんとなく好きなアニメについて検索していたら、同人サイトに入ってしまった。
同人サイトの主は原作によく似たきれいな絵を描く人で、私はたちまち彼女の虜になった。
そこから私は「寝る前のおとぎ話界隈」という平和な世界に彼女の解釈や妄想をそれとなく持ち込むようになった。
下の子は世界観のアンバランスさに文句を言いながらも、はじめは許容してくれていた。
でも私が「同人サイトで出会った神」から得たネタを使う割合が増えるに従って、「寝る前のおとぎ話界隈」はどんどん崩壊していった。
それまでハリーポッターにもおじゃる丸にも濱口優にも等しく見せ場があったはずなのに、私が「新しい神」に毒され好きなキャラばかりを贔屓し始めたからだ。
やがて、「寝る前のおとぎ話界隈」は、かつて神であった母からの「あんたたちいつまで一緒に寝てるの?」という言葉により終了した。
そのとき既に私の関心は新しい「神」に移っており、特に未練はなかった。
産まれてから10年。私に二次創作の楽しさを教えてくれた本当に長い付き合いの界隈であった。
まああれから十数年経った今も、私は好きなジャンルの同人界隈に属し、二次創作を書き散らかしている。
下品なエロを書くこともあれば、原作のほんの一コマを補うなんでもない話を書くこともあるし、昔みたいに推しをシンデレラにする日もある。
しかし「寝る前のおとぎ話界隈」にいたときほど自由に、のびのびと活動できることはもうないと思う。
性欲とか、原作レイプとか、解釈違いとか、神への嫉妬とか、スランプとか、評価とか、感想とか、ネタ切れとか、文才とか、表現力とか、完成度とかそんなことは一切考えずにただ思いついた話を語り、それを聞いてもらうだけで楽しかった「寝る前のおとぎ話界隈」
二次創作は全部オタクの戯言だとか、他人の褌で相撲を取る下劣な妄想だとか言われると、まあ今の私は怒らないけど、10歳の私はきっと怒るだろうなと思う。
あの頃の私は原作を神だなんて思ったことはなかったし、世に出されたキャラクターは読者みんなのもので、ルパンも桃太郎も鉢かつぎ姫もひとたびお話に出してしまえば全部自分のものになった。
キャラクターはみんなのものだと言いたがらないミッキーマウスは嫌いだった。絶対お話には出さなかった。