はてなキーワード: アドホックとは
ここらへんの話だけど。
それは左翼自身がシングルイシューでアドホックに物事の解決を図ることを禁忌してるからでしょ。
別に右翼は問題の各個解決を否定してるわけじゃなく、左翼はもともとそういう考え方してないじゃないか、と言っている。
そしてその結果が、
ESHITA Masayuki @massa27
東京新聞「こちら特報部」は民主党政権の原発事故対応や原発政策を手厳しく批判しており、それはそれで当然のことだが、その結果自民政権になって原発再稼働になし崩し的に向ったとき、この新聞報道は何に貢献したといえるのか。
ってことでしょ。
私見を言わせてもらえば、右翼は現世利益中心主義というか、自分たちが権力をもてれば最初の理念なんてどうでもいいという考え方で、左翼は理念第一主義というか、理念さえ守られれば現実はどうでもいいという考え方。
>アブラハム・リンカーン (第16代 アメリカ合衆国大統領・欧州の銀行家に暗殺される)
暗殺実行犯のジョン・ウィルクス・ブースは、俳優であって銀行家ではない。両親はイギリス人だが1821年にアメリカに移住してる。事実はそれ以上でも以下でも無い。
陰謀論者の特徴は、すべての事象には“大いなる意思”が背景にあるというアドホックな仮説を崩そうとしないこと。
“大いなる意思”なんてものは存在しないし、そんな仮説をたどっても得られるものは何も無い。
わたしたちが生きている社会は、決して一言では語ることができない複雑さを持っていて、その社会は、たくさんの人たちの意思の集合と、たくさんの人の行動の結果によって形成されている。
社会は不透明かつ複雑で、一言では説明できない。一人の人間が動かせるほど単純ではない。
2chやTwitterを見てると、あのブログがソニーの回し者であるかのような流れになってるんだけど、何だか違和感を覚えるんだよな。
なので、とりあえず最近のあのブログのPSVITAタグの中からネガティブっぽい記事をピックアップしてみた。
1月だけでこれだけあるわけだが。
PS3の初期もこのブログはこんな感じだったし、ほんとにこいつソニーからカネ貰ってんのか?その辺はどういう解釈でみんな納得してんの?
12月も…と思ったけど多すぎて後半だけで力尽きた。
この努力は僕が Google に来る為に Amazonを離れた2005年半ばも続いていた。でももっとずっと進化していたよ。 Bezos が命令を出してから僕が離れるまでの間に、 Amazon は全てにおいてまず最初にサービスを考える企業へと文化的に変化していった。外部の日の目を決して見ることの無いような、スタッフへの内部的なデザインも含めて、今ではそれがデザインというもの全てに対しての基本的なアプローチになっている。
その時点では、彼らはもはや解雇の恐怖からそうしているわけではなかった。つまり、もちろんビビってはいたけれど、ドレッドヘアの海賊 Bezos 様にご奉仕するのは日常生活の一部だからね。そうじゃなく、彼らはそれが正しいことだと理解したから、サービスを提供しているんだ。確かに SOA のアプローチには長所も短所もあるし、短所を書き出してみたら切りが無い。でも全体として、 SOA ドリブンのデザインというものこそが、プラットフォームを可能にする、これは正しいことだ。
これが、 Bezos が彼の指令書で企んだことだった。彼はチームの健康状態なんて興味もなかったし(今もそうかも)、使われている技術もそうだったし、結局の処のどう取りかかるかなんて結果ができあがるまで気にもしていなかった。けれど Bezos は、 Amazon 社員の大多数が理解する前に、 Amazon はプラットフォームにならなければならないということを悟っていたんだ。
だって考えてもみてよ。なんで一オンライン書店が、拡張可能な、プログラマブルなプラットフォームになる必要がある、なんてことを考える?。そうだろ?
ともかく、 Bezos が気づいた最初の大きなポイントは、本を売り、出荷し、色々とやる仕組みが、素晴らしいコンピューティングプラットフォームに再利用でき得るということだ。だから今、彼らには Amazon Elastic Compute Cloud があるし、 Amazon Elastic MapReduce があるし、 Amazon Relational Database Service があるし、その他たくさんの aws.amazon.com で見つけられるサービスを持っている。しかもこれらのサービスは大成功した企業のバックエンドを努めていたりもする。 reddit なんか僕のお気に入りだね。
もう一つ、彼が理解した大きなポイントは、常にいつでも正しい、そんなものを作ることはできないということだ。これは Larry Tesler が、ママはこのくそったれサイトを全く使えないよと言ってのけたりでもした時に、 Bezos にピンと来るものがあったんだと思う。誰のママのことを言ったのかははっきりしないし、そんなことは問題じゃ無い。問題は、誰のママだろうとそのウンコサイトを使えないってことだ(訳注:アドバイス thx !)。実際、僕自身、そこで5年ほど働いていたわけだけど、あのサイトは胸がザワザワするくらいひどいと思う。でも僕はその気が散るようなサイトに慣れてしまって、トップページのど真ん中あたりの数万ピクセルに集中できるようになったんだからね。
とまあ、実際の処 Bezos がどうやってその理解、一つのプロダクトで、全ての人にとってふさわしいものを作り上げることはできないということに、たどり着いたのかは定かじゃあ無い。でもその方法は問題じゃ無くて、彼は理解してるってことが重要だ。実のところこの現象には正式な名前だってある。そう、それはアクセシビリティと呼ばれるものだ。コンピューティングの世界で最も重要なものだ。
君は思うかも知れないね。「はあ?つまりそれって、目が見えない人や耳が聞こえない人のあれ?あのアクセシビリティ?」ってね。まあ君だけじゃないと思う。とにかく世間には、アクセシビリティってものを正しく理解していない、君みたいな人たちがいっぱいいっぱいいるんだから。ただそこにたどり着いてない人たちがね。だから、アクセシビリティを理解していないのは、目の見えない人や耳の聞こえない人や手足が不自由な人やその他障碍のある人の責任じゃないように、君の責任じゃない。ソフトウェアが(この場合アイデアウェアといった方が正しいかもしれない)何らかの理由で誰かにとってアクセシブルでないというとき、それはソフトウェア自身の、あるいはアイデアの伝え方そのものに責任があるんだ。それがアクセシビリティの失敗というやつなんだ。
人生における重要なその他もろもろと一緒でさ、アクセシビリティには邪悪な双子がついている。小さいときにパパとママの偏った愛情で見捨てられて、今や同じくらいの力を持つまでに育った宿敵って奴がね(もちろんアクセシビリティには宿敵はたくさんいる)。それはセキュリティだ。一体全体こいつらが仲良くやっていること何てあるかい?
でも、僕は主張したい。アクセシビリティは実際の処セキュリティより重要だということを。だって、アクセシビリティを0にダイアルするってことは、何のプロダクトも持たないってことさ。セキュリティを0にダイアルしたって、そこそこのプロダクトを持つことはできるだろう? Playstation Network みたいにさ。
まあつまりですね、僕はみんなが分かってくれないんだったら一冊丸々この話題で本を書くことだってできるよ。分厚くて、僕が働いてた会社のありんことピコピコハンマーのエピソードで一杯の面白いやつをね。でも僕がこの話を公開しなかったら、みんなが目にすることも無いだろう。そろそろまとめに入らなきゃ。
Google がうまくやれていない最後の一つは、プラットフォームだ。僕らはプラットフォームを理解していない。僕らはプラットフォームを自分のものにしていない。みんなの中にできている人はいるだろう。でも、そんな君はマイノリティだ。辛いことだけれど、これはこの6年で僕にはっきりと感じられた。僕は競争相手のプレッシャー、 Microsoft や Amazon や最近じゃ Facebook なんかが、僕らを一斉に目覚めさせて、ユニバーサルにサービスを始めるのを期待したりもした。アドホックな、中途半端なやり方じゃなくて、多かれ少なかれ Amazon がやったようにだ。一度に全てを。マジで。偽りなしに。今その瞬間から最優先事項として扱うというように。
でも、そうはなっていない。10番やら11番めくらいのプライオリティだね。いや15番かも?。知らないけど、とにかく低い。真剣に取り組んでいるチームもいくつかあるけど、多くのチームは考えてもいない。一度もだ。ごく一部の人々がちょっとした規模でやっているだけだ。
多くのチームに、彼らのデータと処理に対してプログラマティックにアクセスできるような、ちょっとしたサービスを提供させるのだって大変だ。彼らのほとんどは、俺達はプロダクトを作っているんだ、って思っているからね。そんでもってそのちょっとしたサービスなんてのはみじめなもんさ。 Amazon の教訓に戻ってリストを見てくれよ。そんで今すぐ使えるサービスを持ってきて見てくれ。僕が知る限りでは、そんなものはない。小ビンってのは便利かもしれないけどさ、そんなの車がいる時だけだろ?(訳注:この人、 Stubby という小瓶のビールと、 stubby という「ちょっとした・不格好な」という形容詞をひっかけてしゃべってます)
プラットフォームが無ければ、プロダクトなんて使い物にならない。いやもっと正確に言うならば、プラットフォームの無いプロダクトは、いずれ同等の機能を持ったプラットフォーム化されたプロダクトに、取って代わられる。
Google+ ってのはまったくまさに、エグゼクティブリーダーシップのとても高いレベルから(やあ Larry 、 Sergey 、 Eric 、 Vic 、やあやあ)枝葉の使いっ走りまで(やあ、君だよ)、全くプラットフォームを理解していないっていう良い例だ。そう、僕らはみんな、全く理解できていない。プラットフォームの黄金律ってのは、自分のドッグフードを食えってことだ。 Google+ プラットフォームってのは惨めなまでに後知恵だ。ローンチ時には一つたりとも API が無かった。そんで最後にチェックしたときには、僕らが提供してたのはわずかばかりのほんのちっぽけな API さ。ローンチの時、あるチームのメンバーが行進してきて僕にそれを説明してくれた。だから僕は訊いたんだ「でさ、これはストーカー用 API?」って。彼女はむすっとして、「ええ」ってだけ言った。いやジョークなんだよ…いや…ジョークじゃ無いんだ…僕らが提供する唯一の API は、誰かのストリームを読み出すだけ…。うーん、僕が間違ってたのか?
Microsoft はこの20年間ドッグフードルールで知られてる。この時代の彼らにとっての文化の一つなのさ。デベロッパにドッグフードを食わせて、僕らだけ人間のご飯を食べようってわけにはいかない。それは単に短期の成功のために長期のプラットフォーム価値を損なう行為だ。プラットフォームってのはまったく長期的な視点が必要なんだよ。
Google+ は脊髄反射の代物さ。 Facebook が成功したのは、彼らがすばらしいプロダクトを作ったからだって言う、まあ実に近視眼的なものの見方の結果として生まれたものだ。でももちろん彼らが成功したのはそんな理由じゃ無い。 Facebook は他の人たちにも何かをさせてあげられる、プロダクトの美しい集合全体を作り上げたから、成功したんだ。だから Facebook はみんなにとってそれぞれ違うものだ。 Mafia Wars に全ての時間を費やす人もいれば、 Farmville で遊ぶ人もいる。何百の、いや何千の、質の高い、暇つぶしができるってわけさ。つまり、みんなのためにふさわしい何かが必ずあるんだよ。
僕らの Google+ チームは、プロダクトを出した後のマーケットを見てこう思った。「おっとっと、我々もいくつかゲームが必要みたいだな。さっそくどこかと契約して、我々のために作ってもらおう」。これが信じられないくらい間違った考え方だってことが、君にもわかってきたかい?。問題なのは、僕らが、人々がほしい物を予測して、それを提供しようとしているということだ。
そんなことは出来ないんだよ。現実的にはね。確実にやる方法なんてない。もちろんコンピューティングの歴史全体を見渡せば、それを確実に信頼性を持ってできる人間ってのがごく数人いることにはいる。 Steve Jobs がそうだろう。でも、僕らの処には Steve Jobs はいない。悪いけど、いないんだよ。
Larry Tesler は、 Bezos が Steve Jobs じゃないってことを口説いたかもしれない。でも Bezos には分かっていた。全ての人にふさわしいプロダクトを提供する為に、彼が Steve Jobs になる必要はないっていうことを。インターフェースとワークフローこそが、人々が気に入り、安心感を得るものなんだっていうことを。彼はサードパーティの開発者にそれを可能にするだけで良かった。そうすれば、後の事は自動で進んでいく。
僕の言っていることが、あまりにも明白なことだろって感じているみんな(多かったらいいな)には申し訳ない。とにかくもうびっくりするほど自明なことなんだ。ただ、僕らがそれをやってないってことを除いてはね。僕らはプラットフォームを理解していない。プラットフォームを持っていない。アクセシビリティを理解していない。アクセシビリティを持っていない。これらは基本的には同じことだ。なぜならプラットフォームがアクセシビリティを解決するからだ。プラットフォームがアクセシビリティなんだよ。
今まで出来ないものだと諦めていたが先日ついにできたので備忘録として書き留めておく。
【環境】
Win7 Pro 32bit
WinVista HP 32bit
※恐らくWin7、WinVistaであれば何でも出来る。
GW-US54GXS
【大まかな流れ】
・無線子機(私の場合GW-US54GXS)のドライバ環境を整える。
・あとは普通にKaiをやる。
【はじめに】
・今まであったすべての接続方法で出来なかった人が対象である。
【やり方】
①http://www.planex.co.jp/support/download/wireless/gw-us54gxs.shtml
ここから「ドライバ・ユーティリティWindows Vista/XP/Me/98SE版」をダウンロード。
※※理由:ドライバ・ユーティリティWindows 7版にはPSPXlinkModeプロパティがないためKaiが出来ない。
②展開後、中にあるインストーラのプロパティから互換性→Windows Server2003(SP1)、管理人モードで実行をチェックしておく。
③無線子機を接続する。このとき勝手にドライバをごちゃごちゃやり始めるがすべてキャンセルする。
※これ重要。
④Windows+Breakキーでシステム画面を開き、デバイスマネージャを起動する。
⑤開くと自分の無線子機の名前があると思うので右クリックし、「ドライバソフトウェアの更新」をクリックする。
⑥「コンピュータを参照してドライバソフトウェアを検索します」を押す。
⑦先ほどインストールしたフォルダの中の「USBIrv」(うろ覚え)みたいなフォルダを参照させる。
⑧更新が終わったらデバイスマネージャ上の無線子機を右クリックし、「プロパティ」をクリックする。
⑨「詳細設定」→「PSPXlinkMode」を選び、「Enable」にする。
⑩ネットワークと共有センターを開き、Win7:アダプタの設定、WinVista:ネットワーク接続の管理を押す。
⑪PSPのアドホックを1chに設定して、オンライン集会浴場に入る。
⑫⑩で開いたところに無線子機のアイコンがあるので右クリック→接続からPSP_AUL……を選び接続する。
あとは他の入門サイトにあるようにkaiを起動してください。
あらかじめポジションを明かしておくと、俺はスパコン開発いらない派。
だけども、仕分けの問題はそこじゃないんでして。
俺の見立てでは、スパコンカットは間違った理由付けで正しい結論が出た仕分けの例。
この件でもっとも象徴的な「2位じゃだめなんですか」。こんな質問、先端研究の場面では全く意味をなさない痩せた考え。生涯地を這う。
ここで本来なされるべき質問は「2位じゃダメなんですか」じゃなくて「国産スパコンなんているんですか?」。
くだんの質問によって明らかになるのは、仕分け人が役に立たない議論を前提に要不要を判定しているということ。
議論が役に立たない物になっている理由は、仕分け人が単なる一般人に過ぎず各分野を語る能力を欠いていることと、中央の官僚が現場を知らないため質問に適切に答えられないことじゃないかと思うんだけども、それはとりあえず脇におく。
適切な判断能力を有しない人間、適切な判断能力を発揮しえないプロセスによる判断なんて、占いの域を超えない。街角の占い師が、客の雰囲気等から悩みを感じ取ってアドホックにカウンセリングをする、その程度の価値でしかない。当たるも八卦、当たらぬも八卦。
スパコンは当たった八卦だろうと思うけれども、しかしこの数日間で数百の事業が仕分けられた時に、その仕分けの妥当性は担保されていない。外れた八卦が相当数含まれている危険が有る。
だからこそ、仕分けは参考資料に過ぎないから最後は政治決着だとか言い始めて、仕分け結果を仕分けするハメになる。
スパコンみたいに騒がれたものはまだ良い。しかし、同時に俎上に登ったSPring-8ですら無視されそう。体臭の娯楽として価値のあるものしか、不適切な仕分け結果から救済される見込みはない。
今回行われた「仕分け」は、事業の要不要を的確に判断して「仕分ける」には余りに粒度が荒く、有害な結果を多く含んでいる可能性が高い。
一般的なコミュニケーションツールの一種と成っている事はもはやかなり自明でしょう。
社会人においても、一部のゲーム好きなコミュニティ内ではそうなっているかもしれない。
このゲームはMMORPG的なシステムをアドホック接続のみでプレイさせるという形態により、
直に会話をして協力し合う終わり無いゲームとなって、「会話の種」「とりあえず集まったらやる暇つぶし」となった訳です。
で今回のドラクエ、システム的にはモンハンにかなり近い物なんですね。
「ゲームをしない人でも一応名前くらいは知ってる超ビッグタイトル」
「数字だけ見ればPSPよりユーザ数が多いはずのDSでの発売」
「見た目の可愛らしさ、取っ付き易さ」
そういえば、総務省の諮問会で日本人にはプライバシーなんてないってぶちまけた
グーグルの偉い人もどうなんだろう。
たとえば、その子供がブスとか馬鹿とかそういうのが学校裏サイトにかかれていた時に平気な顔できるんだろうか。
別に私も規制をアドホックに受け入れるわけではないけど、なしくずしに
グーグルなりある利害のある側に収益が回って、それがまた正義みたいな風潮は変だなあと。
経済的に考えても、利害がある側がこれで損害を受ける人に賠償をするメカニズムを作れば問題ない。
でも、いま彼らがやってるのはそれで払うことになると実はとてつもないから、
なにもわかってない。俺は別に「理論上の手段」なんて主張してない。「そこには社会問題が存在するのであって、自己責任の名のもとに頭から切り捨てるのは不当だ」と言っている。要は、君がここやここでやっているような安易な自己責任論と相対化で問題の所在をぼかすようなことはやめろと言っているだけだ。そこから先の話は今回の話題ではない。
ところが君は、自己責任論はなかったかのように「そこから先」の話題ばかりを語っている。これはもはや論題と何の関係もないことだ。
「ないのであれば」と主張しているのは君であるが、なぜ「ない」と考えるに到ったかを示されていない。
揚げ足取りもいい加減にしろ。あると考える理由があるように思えないからだ。というとまた「なぜ思ったのか」と「なぜ」「なぜ」の無限後退で来るんだろう。そりゃ論争に絶対勝てますわな。だから、「あるなら挙げてみてくれ、ないならこの点については争点なしということでよいのだな」と確認を求めているわけで、君はそれに真面目に答えていないということだ。
例えば学歴に男女差があると言われるが、脳の仕組みとして男女差がある、という内在的な理由も考えられるが、
だからそういう論点があれば最初から出せといっていたわけだ。つまり「女は学問に向いていない」と主張したいということだな。まあそれならそれでよしとしよう。だとすれば次の質問だが、都市が地方に比べて高学歴であるのはなぜか?このように、「機会の平等が実現されていない」ことの傍証はいくらでも出てくるが、一方でそれに対して網羅的な反論をすることは君はできないだろう。できるとしても「女は学問に向いていない」のようなアドホックな仮定を積み重ねるしかないわけだ。従ってこの点についてはどう考えても君の方が分が悪いと思うが、どうかね。
そこで、系に観測者も含める事で、初めて量子力学のような微小領域の記述が出来るようになった、ってことじゃないのかな?
いやそれは違う。
黒体放射とか原子の安定性とか(詳細は説明しない、ぐぐれ)、古典力学的な理論の帰結と矛盾するような現象が次々と見つかって、個々の現象を説明するためのアドホックな理論がその都度できてきたんだけど、それらをつなぎ合わせたところできたのが「量子力学」という理論体系だった。
で、これが数式レベルではともかく、その解釈としては理解に苦しむ部分があって、今までの物理学のように事前の情報から現象を原理的に確定的に予言できるということがなく、確率的にしかものが言えないということがわかってきた。
だとすると、で、問題はその「確率的」というのが見かけ上のことなのかそうでないか、だ。つまり、情報が不足しているために物事が一見確率的に起こっているか(くじ引きが当たりかはずれか、みたいな話ね)、それとも本当に確率的にランダムにしかものごとが起こっていないのか、ということが議論になった。で、色々試した結果どうも前者の解釈では辻褄のあわないことがいくつもあるだろうということはわかってきたのだが、問題は前者と後者の線引きでこれがそう簡単ではなく、「観測」が混乱の原因だというのはわかってきたんだが、本当に物理的に意味のある「観測」とは一体何か、ということで揉めたわけだ。その話の中で一番極端な例として挙がってきたのが「シュレーディンガーの猫」というわけなんだが、確かにこの解釈を否定する根拠も難しかった。まして実験で確かめるとなると原理的にも装置の制約上も問題が当時はあった(現在でもある)。
実用上の問題としては、こんな細かい話を無視しても「使う」ことは十分可能で、例えば半導体を作ったりするときにはこんなことは気にしなくてもよかった。それで、現在に至るまで大半の物理学者・化学者はこの話を棚上げして理論を「使う」側にまわっているんだが、一部でどうしてもこの問題が気になるという人がいて、本業のかたわら時々手を出したりしているというのが現状なんだよ。
幸福論って皆がまるで人間の規格は同一で、こう動かせばみんな同じ一つの「幸福」が得られるんだよ。つー、ことを語りたがっているような、胡散臭いところがある。
まあ確かにその通りだと話を進めると、今度そのみんな共有できる「幸福」という状態は何か、っていうと、単に個体差の認められない「脳」というシステムの一つの状態じゃん、となる。
さぁこれで安心だ。で、だからって、どういうときに「幸福」フィーバーが起こってたかとか、そんな類型を蒐集することが幸福論なのか。違うんじゃねえの。せっかくなんだから幸福ボタンを作ろうよ。
私は人に認められたとき幸せです。私はお金があると幸せです。こんなこと聞いてどうするんの。てか、育ちが分かってしまうじゃん。何が欲しいか、一発じゃないか。ギブミーチョコレートだよ。
じゃあボタンを作るとしてその前哨戦である幸福の定義付けがどうして出来ないか、という話なんだけど、まぁ誰もがすぐ分かる通り、幸福を定義してしまうと定義した事柄が起これば必ず幸福でなければならない。でも、美男美女で大金持ちで不老不死で王様だとしても、ほら、簡単に「でも」「幸せじゃないかもしれない」という発想が浮かぶでしょ。外界と内的な感情の距離は、今現に自分から起こっていることから切り離されて形而上学的な話になると、千里の径庭があるんだよね。これは別に幸福に限らず人文的な単語は全部そう。でも最初に脳の規格を統一していることが前提だったはずなのに、アドホックを認めてこんな例外的なことを想定し始めると、例外例外で結局脳全部個体差ありました、となって、あーあ…、というか。だから胡散臭いんだけど。
じゃあ個体となった脳が現に起こっていることからどう幸福を目指すのか、というと、教えてよほんと。
うわーん。幸せになりたいよー。
でえー、いつも思うんだけど、幸福について語ることが幸福を目指している訳じゃないのが興味深いな。
俺の幸福論でみんなを幸福にしてあげよう。というような形の論。確かに「論」なんだけど、語っているモノと重複しているつーか、出力と入力が同じところにあるというか。
え、と、ぐだぐだになりそうなんで切り上げ。
僕の場合幸せとは、運動というか、弁証法というか。お金がないー、はいお金ありますよ。これ。
人に認められないー。はい認められました。これだよね。ただこれだとふと日常を振り返って「ああ、俺って幸せだなぁ」的な感情をフォローできないけど、俺そんなの、しらねえし。体感したことねーから、わかんえーや。
その昔HTMLソースはエレガントであるべきでそのためには手打ち以外にないという職人派が居ましたね。
理由はいろいろいわれましたが結局は経済的な問題のためです。ドキュメントを表示するクライアントマシンのリソースとそのデータを取得する通信回線の帯域がとても少なく貴重であり、そのために通信量が少なくなるように簡潔なデータで再現にマシンの負担が無いように無駄なドキュメント要素の無い「エレガント」なソースが求められました。
さらに当時Webのコードを書くのは物好きでしかなく、金になりませんでしたので労働単価が安く、コードを人間様が調整するほうが安く済んだのです。
そして今目の前にあるのは有り余るマシンリソースとP2P以外に使い切れないような通信帯域。はっきり言って見た目が同じならいいです。(適当すぎて原因特定もできないトラブルが頻出して手間が増えるのは問題だけど)あまり気にするのは偏執であり、不経済です。
データの再利用も機械がデータを整理するべきで忙しい人間様を煩わせてはいけません。つまりそれはSEOもデータの分析が商売であるGoogle側が頑張るべきことでこちらがやることではないということです。
一部のエンタープライズなサイトではCSS等駆使したキレイな構造化による効率化はクリティカルに効くでしょうが、現実アドホックに組んでるその他圧倒的なページは数十ページ程度で局所的に最適化していてもシステムメリットは出ず、その規模ではむしろ抽象化上昇でオーバーヘッドの増加となるでしょう。
とはいえSEOで見積書の行数が稼げるならなにかと手間が増えた方が商売になるというものでもありまして、まあ良い時代になったのですよとごまかすのも処世と。
増田でこんな風にだべるのも一興ですな。
んー、誉めてる様に読めるのかなぁ。好きって意味では書いたけど、それは利点というより欠点っぽい気がするんだよな。特に設計の立場で考えると。
設計という観点を持たないコーディングが可能って考え方は斬新すぎて理解できないけど。
設計という観点での評価とコーディングという観点での評価、どちらを重視するか、って事です。
「とりあえず書いてみる」→「不具合をアドホックで直す」→「だんだんソースがぐちゃぐちゃになる」
人にも拠るだろうが、趣味で書くとそんな感じになったりする。で、perlの場合は変態的なことも出来ちゃったりするので余計にたちが悪いと思うわけ。書く時には出来ちゃう事が利点なんだけどね。
大体、オブジェクトがなってないよね。newしたら別のオブジェクト作っちゃうとか。別のオブジェクトに変更しちゃうとか。しまいにはコンストラクタじゃないところでコンストラクトしちゃうとか。
あー書いてたらわけわかんない文になったけど書き散らしとこう。
前回、
追試により証左を求めることが出来ない科学は全て『ニセ科学』だ!
と、定義してしまった場合の科学の脆弱性について書いたのですが、コメント欄や、トラックバックの反応を見れば解る様に到底容認出来ない!って思う人がどうしても出ちゃうんですね。
私個人的には、この定義が一番すっきりして好きなんですけど、この定義では、進化論や心理学や歴史の分野なんかもニセ科学になっちゃって困る人がいっぱい出るわけですよ。(相対性理論は違う…)
そこで、トラックバック先にもある『反証可能性』と言うものをニセ科学との判別に使えばよいというのを哲学の偉い人が言ったわけですが
実はこれもそうとう厄介な代物でして
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7
反証可能性の判定の困難さ
ある仮説が反証可能性を持つかどうかを判定することは難しい。次のような実験を考えてみよう。降霊会を開いて霊を呼び出す実験が失敗した。心霊現象に否定的な学者は、少なくとも今回用いた方法(条件)によって霊を呼び出せるという仮説が反証されたと考える。これに対して、心霊現象に肯定的な学者が「霊の実在を疑う者がいたための失敗」と反論する。ここで、もし心霊現象に肯定的な学者が「霊の存在を疑う者が降霊会場に立ち入らず、遠隔のビデオカメラによって撮影するならば、降霊は成功する」と付け加えるならば、この降霊理論は全体として反証可能性を持つものになる。つまり、メインの実験が失敗した後で主張者がそれに補助仮説を付け加えたとしても、その補助仮説が反証可能である限り科学的検証の場に立つことができる。反証可能性が否定されるのは、例えば、「心霊現象は科学的に分析できない」と主張するような場合である。したがって、安易に「この仮説には反証可能性がない」「これはアドホックな補助仮説である」と断定するのは危険である。
上記の『反証可能性の判定の困難さ』を読んでもらえれば解るように、ニセ科学のような学会とは違うフィールドで議論したい方に納得してもらうのは相当難しい考え方なんですよね。
時間を置いてしまいましたが、これが私の考える科学がニセ科学を糾弾することの難しさを簡潔に纏めて説明したものです。
さて、前回の文章を読めばわかると思いますが、私はインテリジェント・デザイン否定派でございます。
そんなものを科学と認めてしまえば
僕、ゼロが分母の割り算の答えがわかったよ!
…答えは『神のみぞ知る』だ!
みたいなことを言い出す生徒が出てきても不思議ではありません。
私に進化論に代わる理論を求められる方も居られるようなのですが、科学とは別に対案を出さなければ語る資格の無い場ではないのです。解らないものは解らない、納得できないものは納得できないと言ってしまえば良いのです。
別に生きていく上で解らなきゃ困ることもそんなありませんしね。
あー、他にナチスの優生論絡みで、突然変異の奇形は大事にすべきだ。というネタとか
相対性理論でも否定されずに生き残ったボーアの理論について書こうと思っていたのですが、ちょっとやる気がなくなったので気になる人は調べてみたりあれこれ推論してみたりしてください。(伏線未消化宣言)
その代わり、最後に私から皆さんにぜひ読んで欲しいお勧めの文章があります(コメント欄含)。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987