はてなキーワード: バックパッカーとは
すごくよくわかる。
会社にお弁当持っていくの忘れてファミマに入った時に「弁当高い!」ってなったりね。
元増田と違うところは自分の中で「価値がある」と思ったものには
ある程度はお金を使うことにそこまで強迫観念がなかったことかな。
例えば旅行をするとする。
青春18きっぷなら1日あたり2300円だ。
揺られている間はぼーっと景色を見たり、本を読んでいればいい。
いつもなら食べられない700円の定食でも「旅行先なら...」と紐が緩む。
200円くらいで売っている屋台くらいなら買ってもいいかと思う。
日帰りで行ける近場のところがなくなってきたら
7000円くらいの宿を探したり、ネカフェやバックパッカー向けの宿で1泊する。
なんかそうやって少しずつ「自分が満足できるものにはお金を使っても罪悪感がない」
30代後半になった今でも正直「働き始めて2~3年目」くらいの金銭感覚だと思う。
1人なら深夜バスを使うし、ファミレスであっても値段見て安いのから探したりするし。
今から10年以上前、20代の半ばだったころにワーキングホリデーで某国に行ってあてもない気楽な自由を謳歌してた時期があった。
20代の半ばを海外でふらふらしてるような奴が入りびたるコミュニティなんて多かれ少なかれ似たようなマインド持ちが多かった。
国を問わずみんなふらふらしてて、でも将来のことを考えていないわけじゃなく、つかの間の自由に興味と行動力と若さだけで飛び込んでしまったような人たち。安い日銭を稼ぎ、バックパッカーを細々と続けているその先の冒険を全身で謳歌していた。
夜になると音楽とお酒。自分は英語は拙かったけれど若いというだけの怖いもの知らずで知らない人たちとよくお酒を飲んでいた。
たまに意気投合するとアクティビティを共に過ごすこともあった。デイトリップやダイビングやそんなことを。
少しの時間しか一緒に過ごさない人もいればそこから細々と今までつながっている人もいる。旅は道連れ世は情けというけれどそれを体現していたのかな。
じきに現実に戻らなければいけない時期がきて、自分もそんな日々とお別れを告げ、紆余曲折ありながら今は日本の片隅でひっそりと経済活動の歯車として頑張っている。
自分は日本人で、そういう流れでたどり着いた行先はだいたいご想像通りであまりぱっとしない。なんだけど、当時知り合った海外の人たちはみんな国に戻ってから大学などで学びなおして世に出ている。
最近もそういうニュースが知り合いのコミュニティであって、もう年齢が40過ぎてる人なんだけどようやく学位とったよ!って。
いくつになっても大学で学びなおせる環境ってすごくうらやましいと感じた。日本ってそんな感じで一度社会人を経験してても大学で学位とれたっけ。
先日生まれて1万日を迎えたので経歴を整理してみた。見てコメントくれたら嬉しい。
フェイク少な目なので、あ、あいつかもしれないと思ってもそっとしておいてくれ。
滑り止めで受けた琉Q大学に進学。
二つは3ヶ月でやめ塾のバイトを始める。
彼女ができるもすぐ別れる。
札幌と沖縄の環境の違い、彼女、生活環境等コンプレックスの嵐にさいなまれる。
21歳 大学3年生
ツールド沖縄で完走できたら好きな子に告白しよう(キモイ)としたものの
冬休みに一ケ月の男二人で東南アジアバックパッカー旅行をする。
ゴーゴーガールと仲良くなる。
22歳 大学4年生
かろうじて卒業。
25歳 社会人3年目
業務的な負担は少なく、伸び伸び会社勤めをし、悠々自適に過ごす。
26歳 社会人4年目
上記の彼女と将来の結婚を約束するも彼女が勉強のプレッシャーと
ちなみにここで株を始める、が苦戦。
27歳 社会人5年目
最近、メディアでミャンマー情勢を聞くことが増えている。軍部のクーデターで情報統制が敷かれ自由が奪われ、国民が弾圧されているというのだ。ニュースを聞いていると、少し昔にミャンマーを旅行したことをふと思い出したので、備忘録的に増田に書き残しておく。
2014年、私はミャンマーを旅してた。この前年、ゴールデンウィークに旅していたウズベキスタンの乗り合いタクシーで偶然出会ったベテランバックパッカーから、『早めに訪れるべき国』と紹介されたのがきかっけで興味を持ったのだった。曰く、「数年前からテインセイン政権が民主化をすすめていて、外国からヒト・モノ・カネが流入しだしている。そう遠くない時期にマクドナルドやコカ・コーラ等の海外資本で町が埋め尽くされ、純朴な国民性が拝金主義に染まり、メジャーな東南アジアの観光地のようにつまらない場所になってしまう。”素”のミャンマーが見れるのは今の時期しかない」とのことだった。その翌年だっただろうか、ANAがヤンゴンに新規就航した。クレジットカードのポイントで『丘マイル』がたまってきていたので、今しかないと思ってミャンマーに飛んだのだった。
ところで、私が旅を決めた2014年当時、ミャンマーの情報は書籍上にもネット上にも乏しかった。(今でもかもしれないが。)非常にベタだが、自分なりにミャンマーの知識を得るために、『ビルマの竪琴』を読み、高田馬場のミャンマー人街を訪れ、増上寺のミャンマーフェスに参加し旅の前に気分を盛り上げた。それら事前に集めた情報をもとに旅程を決めた。最大都市のヤンゴン、古都マンダレーとパガンを3泊4日ですべて回る。そのためにルートづくりは難航したが、夜行バスや、エーヤワディ川の水上ボート等を組み合わせて何とかめどがついた。
初めに訪れたのはパガン。初日にヤンゴンから夜行バスで向かって、到着したその日の朝に到着。その足で宿に荷物を降ろし、仏教遺跡にむかう。パガンの仏教遺跡は当時、全く観光地化されていなかった(今はわからないが)。滅びた過去の王朝の栄華を残す草原に埋もれた遺跡で、地元の仏教徒が花やろうそくを備えて信仰のよりどころにしている。そんな感じのところだった。遺跡は非常に広大なため、効率よく回るために宿で中国製の電動バイクを借りたのだが、これが曲者だった。バッテリーの残量メーターが適当で、まだ半分ほど充電が残っていると思っていたら、バッテリーがふいに止まり、南国の強い日差しのもと10km近い距離をただの重りと化した電動バイクを押して帰る羽目になったのだ。
ミャンマーの古都マンダレーへは翌日の早朝に向かった。ミャンマーを流れる大河、エーヤワディー川を観光ボートに乗って移動するのだ。朝日が昇る前に、宿の主人にお願いしてエーヤワディー川のほとりの船着き場に送ってもらい船に乗り込む。乗客はほとんどが欧米系観光客で、日本人は私一人。東南アジアでよく見る中国系・韓国系の旅行者は一人もいなかった。船に乗り込んですぐに、日の出を見ることができた。大河から見る朝日は非常に美しく、カメラのシャッターを切りまくった。だが航行時間は10時間以上と非常に長く、暇を持て余す。近くの旅行者に話しかけるとドイツ人だった。大学時代に習った片言のドイツ語で、「Ich lerne Deutsch bitte.」と話すと猛スピードでドイツ語会話が始まり、まったく聞き取れなかったので英語に切り替えてもらってコミュニケーションをとったりしていた。
10時間を超える船旅を経てマンダレーに到着した。マンダレーの市街地は船着場から離れていたのでタクシーを借りて中心地に向かう。旅程に余裕がなかったので、そのままタクシーで主要施設を回ってもらい、観光をこなす。そのまま勢いで長距離バス乗り場へ向かい、マンダレーからヤンゴンに向かう高速バスに乗り込む。ヤンゴンにはその日の夜10時ごろに到着。夜間の異動で治安が不安だったが、特に問題もなく宿に到着。最終日に備えて睡眠をとる。
ミャンマー滞在最終日。最大都市のヤンゴンで街歩きをし、国民食のモヒンガーを食べたり、過去のイギリス統治時代の建築物を見たりして過ごす。町中の家には見たことのないような巨大なパラボラアンテナがつけられており、台風対策で軽量化する必要があったからだろうか、日本で見かけるものとは違い皿の部分がメッシュになっているのが印象的だった。街歩きついでにミャンマー国鉄で市内を移動したりもした。東京でいうところの山手線に相当する環状線がヤンゴンにもあり、Circular Lineと呼ばれているものだ。料金は非常に安く、日本円で10円くらいだっただろうか?車内に外国人は一人もいなかった。パガン~マンダレーで見たような欧米系の旅行客はタクシーをチャーターして市内観光をしているのだろうか?しばらく客車に乗っていると、私が日本人とわかったのか日本滞在経験があるというミャンマー人に話しかけられたのだ。観光地で話しかけてくる現地の人は、たいていお金目当てなので警戒してたのだが、悪い人ではなさそうだったので聞くだけ話を聞いてみたら、バブル期に名古屋で期間工をしていたらしかった。
駆け足でいろいろな経験をしながらミャンマー観光を終えた私は日本に戻った。実際に現地を見てきたことで知的好奇心を満たされた私は、しばらくミャンマー情勢から興味を失っていた。が、最近またニュースで日々ミャンマーの情報を見聞きするようになり、ふいに旅行した時のことを思い出したのだった。当時であった人たちは今も元気にしているだろうか?数年後にコロナが収束しても、軍部主導の政治体制で外国人が自由にミャンマーを旅行できる時代が再びやってくるのだろうか?今はただ、遠く離れた国を思い出しつつミャンマー国民の無事を祈るばかりである。
年度末も近づいてきて有給休暇を消化したく、今日は休みをとった。
ずっとマグカップが欲しかったので、散歩がてら近所の幹線道路沿いのニトリまで行って買い物をしてきた。
そのニトリの近所のコンビニあたりでヒッチハイクをしているカップルがいた。
数ヶ月前にもその場所でヒッチハイクをしている大学生くらいの男の子がいたのだが、今回も同じくらいの歳のカップル。
もしかすると男の子は同じ子なのかもしれないが、服装はラフで軽装でバックパッカーとかでは無さそう。
カメラも回してないように見えたのでYouTuberでも無さそう。
掲げていた目的地の紙の内容までは見れなかったが、どこへ行こうと思ってるのだろうか、何者なんだろうか、などと考えながら歩いていたのだが、
コロナ禍で緊急事態宣言も出てる中、見ず知らずの人を車に乗せるってどうなんだろう?
それでもきっと乗せる人はいるんだろうな。
彼らはどこに行きたいんだろう。
アジアのどっかの国だと思ったが、食堂のおばちゃんと仲良くなった。
聞くと両親が中国系で、なんかの罪で追われたために移民したのだという。
おばちゃんに日本人だと伝えて仕事は何をしているとか意気投合していたのだが、
しばらくして、奥から娘さんらしき人が出てきた。
お互いにつたない英語であるがまあまあ意味はわかる。マジメで働き者とかそういう感じの。
10分ほどして、さらに女の子が2人あらわれた。おばちゃんの次女と三女だという。
オイオイどういうことだ。
近所で働いているが切り上げてきたのだという(このあたりが牧歌的である)。
このあたりで鈍感なワイも気づき始める。
「(おばちゃん、3人のうちどれか貰ってくれいうとるやんけ!!w)」
3人とも、あんたならまあええわ的な雰囲気をかもしだしている。ヤバイ。
なんだかんだのらりくらりと話題をそらしながら、その場をのがれた。
しかし考えると、情報化社会で婚活だの出会いサイトだのいっているが、
本来、男女のなれそめとはこうした「紹介」によるものだっのではないか。
そこにどこか牧歌的な、良い意味で日本が忘れた古き良き封建的時代をかんじたのである。
彼の事は大好きだけど、
彼が貧乏過ぎて、もうだめだ。もうだめだ。
私はちゃんとしてない人間で20代の頃は派遣やらを転々として、
すぐに仕事やめてバックパッカーとか、旅先でも貧乏やってたバカ女だから、
貧乏慣れっこなんだけど。
あー、だめだ。もうだめだ。彼が貧乏過ぎて、もうだめだ。もうだめだ。
私が前のブラック企業で働いてた時にすごく寄り添ってくれたし、
頭が狂わなかったのは彼のおかげだと思ってる。ほんとに。
私は2回も転職したけど、
今雇ってくれた会社は給料そこそこでも残業代があって、ボーナスもあって。
すごくツライ時もあるんだけど、なんとか折り合いをつけて、
就職決まった時は、彼もよろこんでくれたよ。
一方彼は、まだくすぶってる。
やりたい事がある訳でもなく、なんていうか楽な方、楽な方へと職を転々として、
「休みなく働いてるし!」って感じを醸し出す。
私も彼の就職が決まった時には喜んだよ。
でもさ、、がんばってるのは知ってるけど、そのお給料はどうなの?と思う。
具体的にいくらもらってるのかは聞いてないけど。
旅行なんて行けない。
GoToでも行けない。私一人だったらどこでも行けるんだけど。
「週末くらいいいもの食べたいな。」って思ってしまうけど、煮物を作る。
「おいしい!おいしい!お店の味みたいだね」って彼が食べてる。
どんどん、価値観がズレてきてる。
物欲の無い私は5000円の財布を買って浮かれていたら
あー。もうだめだなー。
卑屈でひがみと妬みと嫉みと。
こんなに長くいて一緒にがんばろうと何年も一緒にいたのに、
結局金で、終わるだよ。あー、もうだめだ。もうだめだ。
ちなみに彼は年上。もうだめだ。もうだめだ。
https://anond.hatelabo.jp/20201020160713
観光というか旅行の定義って人によって本当に違うから一概にどうこう言うのは難しいと思う。
俺はバックパッカーをやってたので海外旅行=気ままに1人で放浪という認識だったんだけど、世間的にはハワイやグアムのようなリゾート地で家族と贅沢に過ごす的な認識の人が多数派らしく、ギャップに驚いたことがある。
そんな中でも、万人に共通する旅行のエッセンスがあるとするならば、それは「五感で味わう非日常感」なのかなと思う。
どれもこれもオンラインでは体験できない、現地に行かなければわからない非日常の感覚だ。
結局のところ、こういう何かしらの違う文化にふれられれば、特別なことを何もしなくても、価値ある旅の経験になっていると思うのだ。
荷物的には70Lと50Lのトランクに30Lのデイバッグといった感じ。
点数多いけど、一つ一つは小さいし、箱から出せるものは全部出してジップ□ックなんかに小分けすれば意外と体積は減るのよ
この他にも米2kgとか酒1LとかノートPCとか持ち込んでるし。
ガチバックパッカー勢とかならもっと荷物を絞り込めるんだろうけど、2週間という期限付きなのと、旅慣れてない人向けを念頭に置いた資料だからね。
脅すとアレだから本文には書いてないけど、今のマレーシアでの強制隔離施設は所謂「ホテルガチャ」の状態。
運が良ければ5つ星ホテル、運が悪ければ3つ星ホテル。政府が指定するので、宿泊客は到着までどこのホテルに行くか判らない。
そして5つ星ホテルだからといって衛生面や食事面がひどくて(日本人以外も含む)滞在者から避難の声があがって政府が実態調査を始めたところもある。
逆に僕が泊まってるところみたいに部屋は狭いけど、食事が恵まれているところもある。
そして、料金はどこだろうと一泊RM150/人と一律。
ワイはその時32歳で、28歳の女子とアムステルダムでスパスパ喫煙しながら年を越した。
直行便だったので11時間以上のフライトでだったけど疲れもなく、
荷物取って税関に行き、そこでなんて声かけられたか忘れちゃったけど、
「あちらの方でお話をお伺いしたく」みたいな優しい感じだった。
僕は、机と対面に置かれた椅子がある個室に連れてかれて、
奥側の椅子に座らされても、まだ「麻薬密輸容疑の取り調べ」と気付かなかった。
ちなみに僕は、バックパッカーではないけど、香港中国タイカンボジアに住んだり、
ヨーロッパもアメリカも行く、旅慣れてるとは違うけど、国内行くのも海外行くのも違いない感じ。
それも最後の最後に気付いた。まあ日本の成田に帰ってきてるんだから、
一人でも家には帰れるし。その時何を思っていたかと言えば、
何も思ってなかった。親が死んだとか、隣りに座ってた外国人について聞きたいとか、
自分のことなら知ってるけど、それ以外の自分の知らないことで呼ばれてると思ってた。
んで、狭い部屋部4、5人の男性職員が居たかな。正面の椅子に座る干高圧的な眼鏡のおじさん。
と、僕の横に若いお兄さん。
「荷物見せて下さい」
「どうぞー」
「財布もいいですか」
「どうぞー」
財布は若いお兄さんが調べたのだけど、風俗店の割引券を見つけられたのがちょっと恥ずかしかった。
「じゃあ、あの、服脱いでもらえますか」
「ええ」
「ズボンも」
「はあ」
ホテルに泊まって買い物して、コーヒーショップ(スパスパするお店ね)に3、4回行きました。と答えて。
まあ、自分は持ち込んでないこと知ってるからのほほんとしてたけど、
突然眼鏡おじさんが声を張って
「もう、ちゃんと白黒はっきりさせましょう!」
「はあ」
「はい」
レントゲン撮影して、白黒のフィルムを白く光るのに張り付けて、
ロートルのお医者さんが「これは便がつまってますね」とか説明して。
その時は女子も居たかな。ここぐらいで(あー飲み込んで密輸かー。そんなことするわけないじゃん!!)とムカついたくらい。
もしかして、確たる証拠も無いからレントゲン撮影は強制できなくて、
でも僕の同意を得なければ飲み込んでるかもしれない麻薬を見つけられないしで、
そこで「ン拒否するゥ」人も居るんだろうけど、拒否する理由が無いので。
それまで取り調べ的な口調と態度で言葉数少なく真摯に仕事に向かう表情(眉間にシワ寄せたり怒って怖いのではない)だったけど、
途端に優しく申し訳なさそうな口調になって、僕が聞いてもないのに。
「私も若いときに妻と旅行に行って、花が綺麗でしたねー」みたいな世間話をし始めて。
「外国でする分にはいいんですけど、国内ではダメですからねえ」「はい。はい」。
若いお兄さんは「僕は最初から何もしてないと思ってました。だって色々調べてるときにも、
全然普通でしたもん」とか言ってきたから、「でも知らないうちに鞄に入ってるかも、とかは考えました」って言ったらなんか
周りが「ざわっ」として、「いや、自分も知らなくて、かけらが落ちて入ってることもあるかもとか」と説明。
最後は「ご協力頂きありがとうございました!」と頭を下げられるようだったけど、
それはみんな知ってる正しく普通な職務だし、恐縮することじゃ無いと思うけど、
ここで「俺は悪いことしてなかったじゃないか!委託もない腹を探られて、
人を疑ってことは云々」と怒り出す人も居るんだろうな。
自分は潔白だと知ってて、相手がそれを調べて潔白だと結論出したのに、
京成線にのって帰るとき「オランダで買ったパイプを没収されましたよ!
未使用なら良いけど、使ってちょっとカスが付いてるからって!」って怒ってた。
身に覚えがあるなら必死に頑張るべきだけど、
ないなら協力しましょう。