人間が心のなかで思ってることって言語化されてなくて、快・不快や喜怒哀楽レベルの感情であることがほとんどだから、
だだ漏れしてもそれは「本音」と呼べるほど明確なものではないかもしれない。
たとえば駅の中で「何か不快そうなオーラ(気持ち)が漂ってるな」とそっちを見たら落ち込んで歩いてる人が見える、
サラリーマン風だ、仕事でいやなことがあったのかな、大丈夫かな…
とか、そんな感じになると思う
もともとヒトという動物は、言語を発明する前は嘘などつけなかった。嘘をつかないのが動物としてのデフォルト。
しかし、言語がこれだけ高度になることで、ヒトは言葉を万能の道具として使うようになって、嘘がつけるようになった。
言葉によって、何かを隠したり、威嚇したり、偽装したり、命令したり、負の感情で言葉を使う人達は、嘘のつけない世界を恐怖する。
言葉をそういった使い方で扱わない人は、大して恐怖しない。
つまり、嘘をつけなくなったところで、変わる人もいれば変わらない人もいる。
コミュニケーションとは言葉のみに非ず。顔から読み取る情報、発話者の言い方、タイミング、それらから総合的に情報を収集判断している。
昨今流行っているWEB会議で、人によっては非常に疲れると言った人もいた。恐らく言葉以外の情報収集にも集中していたからだと思う。
嘘か本当かといった事実認定だけで考えるならば、解る人には解るけれど、解らない人には解らない人もいる。
増田に文化として根付いてるお気持ち長文、アレはまったく無視されるやつであれ最終的にすげえ伸びるやつであれ、最初は「うんち」「長すぎ」みたいなトラバがつくもので、基本的には嫌がられてるものだと思う。
俺もいろんな増田のいろんな増田が見てえなと思ってスクロールしてるところでクソ長い記事が混じってるといや長えよ要約しろなんて思うのだが、一方でこんなに長い文章が書けるのはすごいなあと素直に感心もするのだ。
なんせ書けない。夏休みの作文(800字)でつまづいてたんだから、根本的に長文を書くことが苦手なのだ。自分としては結構長文を書いたなあと思っているエントリを引っ張り出してきて文字数カウントにかけてみたら698字だった。夏休みの作文にすら届いていないというのはなかなかショッキングだ。
どうやったら長文が書けるのかってのを考えてみると、まあやっぱり気持ちの大きさなんだろうな。スーパーに行って出来合いのピザを買ってみたら思ったよりうまかったよ!なんてテーマでそんな何千字も書けないが、自炊するならピザを作れ!という強い気持ちがあれば5181字書けるのだ。あの増田そんなにあったのかよ。怖えよ
ここまでで500字ちょっとで、俺はこのあたりから結構書いたなあと感じ始める。でもこの10倍くらい書くのがお気持ち長文というもので、マジで空恐ろしい。いくらスクロールしても終わらないんだもんな。参ってしまう。
長文でも箸にも棒にもかからない文章ってものが結構流れていく(これもそうなる!)のが増田の魅力のひとつで、しかもそういう流れていく長文に限って気取ったタイトルが付いてたり読者への呼びかけが入ってたりする。ふはは、てめえの声は誰にも届かねえよと思いながらいよいよサルベージされない場所へと押し流されていく増田をみるのは小気味良くて、再投稿されると冷や水を浴びせられたような不快感がある。ダイアリーって名前なんだからあくまで日記であって、無視されたからってもう一回掲げなおすようなものではなかろう、と俺は思うからだ。Twitterかなんかでやれよな。
900字近くまで来た。これでもまだ長文ってほど長文らしさがないので、普段見ているお気持ち長文たちがどれだけすごいかがわかるというものだ。アレ1時間とかかけて書いてんのかな。創作やってる人が多いから文章かくのに慣れてるっていうのはありそうだ。
旅館に行きたいという気持ちがずっとあって、この前は一室の絵まで書いた。べつにすごい景色とか素晴らしい浴室なんてものは求めてなくて、むしろこぢんまりした感じのほうが好ましい。虫がいるのは嫌だけどな。半年前くらいに彼女と旅館に行って、俺は結構いいところだと思ったのだが女風呂の状態がメチャ悪かったらしく彼女が悲しんでいた。風呂には藻のようなものがあり、そのへんに虫がいて…と、ちょっと信じられないようなことを言っていてかわいそうだったな。次どこかに行く時は彼女も楽しめたらいいんだけど、その次がいつになるかがわからない社会情勢になってしまった。
コロナ禍でガラガラポン…という儚い望みはあるものの全然叶わなそうで、それだったらさっさと収まってほしいが、とはいえここで収まったらただ損するだけな気もしていて、やっぱり社会が破壊されるくらいにまで粘って欲しいという気持ちもあるものの、近所の店がシャッターを下ろしていくのをみると悲しくもなるので難しい。
自分が住んでたところは地方の県庁所在地ではなくマクドナルドすら存在しない田舎だった。
当時自分はそれなりに勉強が出来たので地元の私立の進学校に学費免除で合格してしまった。
まず、周りの人間に馴染むことが出来なかった。
最初は色んな人と話したものの私がつまらない人間だということがバレて次第に孤立するようになった。
中学の頃までは母はパートに出かけたりパチンコをしたりして楽しそうに過ごしていた。
しかし、私が高校生になってから母は事あるごとに「〇〇さんが私を殺そうとしている」「元旦那が私を裁判で訴えようとしている」など言うようになったのである。
それで私に対して「あんたは楽をしてる、お母さんが子どもの頃は…」「あんたを生まなければ私は自由だったのに」と言われるようになった。
家にも学校にも居場所がない私は次第に精神を病み高校のカウンセリングルームに通うようになった。
両親揃って社会的地位のある職に就いている家庭の生徒が大多数のクラスで問題のある家庭の生徒は今思えば面倒を見たくないと思うのは自然だと思う。
記憶に残ってる例を言うと、
運動会当日に熱が38度出て体力が無かったのに高校に来るよう強制され登校したものの頭が痛く、教室の椅子から動けず「本当に気分が悪いんです」と訴えても「じゃあ帰れば?」と言われたり、
高3のセンター試験後に受ける二次試験はどこを受験するかで教卓の前に呼び出され当時目指していた大学名を言うと「お前が受かるわけがない!」とクラスメイトの前で怒鳴られ公開処刑されたり、
その後担任に受けろと言われた地元の大学の合格報告をしても合格実績に載せてもらえなかったりした。
どうして私のことをひどくいじめた奴が受けろと言われた大学に通わなければならないのか疑問を持つようになり
頑張って都会の大学に行きたいという気持ちが出てきたため仮面浪人をすることにした。
母親からは受験費用は自分で稼ぐように言われコンビニバイトをしながら受験勉強を頑張った。
大学の授業は出席強制であり、その上バイトもやるため限られた時間の中でだったが受験勉強に高校の時よりも集中できたと思う。
その結果、第一志望は落ちてしまったものの第二志望に合格することが出来、4年間大学生活を思いっきり楽しむことが出来た。
社会人になりしばらく経ち、振り返ると当時の私は母親はともかくクラスメイトや担任は確かに扱いをひどくするだろう。
担任の行為は行き過ぎたものだが、育ちの違いを勝手に卑屈に感じてる人間に対して良い扱いをする必要はない。
それに当時の私は全く優等生ではなくむしろ体調不良(おそらく精神的なもの)で1週間とか2週間とか休むことが多かったので鼻つまみものだったろう。
ちなみに母親と離れて暮らすようになってからは関係は良好である。
以前真っ赤なハイヒールも買ってなかった?
はい、自営業なんでこの時期に無慈悲な住民税の通知が来るのですが高すぎw
別に、サラリーマンも払ってるから制度自体に文句は無いのですが、
児童型ラブドールが実在児童との性交を誘引すると主張する人たち、そんなにセックス実践が大事なのかな?「オナニーだけじゃ我慢できるわけない!セックスしないと死んじゃう!」って感じなら病気だから病院行った方がいいよ。
b:id:lady_joker「子供部屋おばさん」という人間性を踏みにじる侮蔑的な呼称を、自虐であっても使わないで欲しい。社会に蔓延していい言葉ではない。
子供部屋おじさんとして「こどおじ」っていう言葉はニートに似た概念で
いい年して自立しないで実家に住んでる人という意味で流行ってそこそこ定着した
働いてそこそこ収入ある人にもマウントできるのが特徴だと思ってる
元増田は40歳で実家に住んでるくらいの意味で子供部屋おばさんって書いたんだろう
文章全体を読むとそこそこ貯金あるのを言いたいのと単純にどうすればいいのかを知りたいだけに見える
そこに自虐要素は感じられないしわざわざ追記で謝ることでもないと思う
子供部屋おばさんがブコメの人が言ってる人間性を踏みにじる侮蔑的な呼称には到底聞こえない
もちろん知り合いがそうだったとしたら面と向かって言える言葉ではないと思うよ
ほぉ。そんなものなのですか。意外。
根暗だったりすると、冷笑家のキャラは狙いやすいポジションのようだ。
慌てず動じない感じ、多少なりとも知的な感じ。
クールに物事を洞察し、判断を謝らず、冷笑を武器に場を収めさえする。
そういうポジションに寄せていった立身というのは、分かる話ではある。
ただ、冷笑の格好の悪さ、というものを自覚する機会は少ないのかもしれない。
なぜだろう?なぜ「格好の悪い皮肉屋」というのが溢れるのだろう?
それがずっと疑問だったが、わかった気がする。
だがそういう連中のうちのある割合は、自身を含めた俯瞰のという技法に気づかないまま過ごし得るのではないか。
「客体に徹する」上で不可欠な自省・自己からの脱却(に努める)という機構が働いていないのではないか。
だから騙りに過ぎず、つまり不徹底で下手くそな冷笑家が多いのだろう。
そういう仮説を得た。
気になるのは、
インターネットはその存在を可視化しただけなのか、または増殖させているのか、(逆に減ったのか、)
その仮説はまだない。あなたはどう思われるだろうか?
何も悪くない