真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
こういった問題を公的な権力でもって調整することを、いわば「規制」という。
そして「殺す自由」が規制されているのは「生きる自由」の方を公的に支持しているからだといえよう。
だが、ここに屁理屈を足すならば、「殺す自由」は「生きる自由を侵害する行為」であるのと同時に「生きる自由が保障されていなければ行使できないもの」だからだ。
「生きる自由」が保障されていなければ「殺す自由」も行使できないが、「殺す自由は生きる自由を侵害している」という矛盾が発生しているのである。
ちなみに、これがゲームや小説など架空のキャラクターなら話は変わってくる。
その存在に生きる自由は適用されていないので、殺す自由を行使しても侵害にあたらないわけだ。
このように、自由の行使と侵害を臨機応変と手前勝手の狭間で使い分けるのが、現代社会のノブレスオブリージュである。
もちろん昔の私のように、「そんなこと気にしてられるか」と考えている人間もいるが。
やらなきゃ、こっちがやられる。
いや、あれは単なる勇み足だ。
何かを規制するために権力が介入するのは原則として避けるべきだ。
なぜなら特定の自由が、実際どのような、どの程度の損益があり、そして他の自由をどれくらい侵害しているか勘定しきれないからだ。
にも関わらず、それを「声の大きな人」や「多数決」などの権力闘争で決めてしまうのは前時代的だろう?
あれの場合、そういったプロセスすら杜撰だから批判されているわけだが。
今回、学ぶべき教訓は「民意に沿っていなくても法は法。だが言い包められる程度の屁理屈すら捏ねられないならば、それは秩序として破綻している」といったところだ。
人を殺すのが悪いなんて少なくとも法律家は言っていない 人を殺した植松青葉は死刑にすると法律に書いてあるだけだ 死刑を嫌がらない犯罪者を止める方法はない