はてなキーワード: 法則とは
強いて法則があるとすれば、短い文は難しい、ということの方
製造業とかだと難しいことを簡単に、シンプルにしていくとか、誰でもできるようにしていくとかあると思うんだけど
そうしないと生産性あがらないし
「本質的に簡単にはできない物事」というものが世の中には沢山存在するんだよね。
製造業は特に、物理法則を相手にせざるを得ない事業なので、無理なものは無理ということはよくある。
やりたいことがNP困難な問題だった場合、どんなに頑張っても指数関数的に複雑な計算を実行する以外に手段は無い。
企画屋が馬鹿だと「ビジネスでは難しいことを簡単にしなければならない」というスローガンから「任意の物事は簡単にできるはず」という転倒した結論を導いてしまうことが往々にしてある。
本質的に難しいことを事業にしたいなら、本質的に難しい手段を実行することができる有能な人間だけで実施しないと無理です。
そういう人間を沢山集めることができないなら、その企画はあなたの会社の能力では実施できない事業なので他のビジネスを考えましょうね。
そういうことを理解できる程度の知識が企画屋の方に必要なんだよね。「難しいことを簡単にしなければならない」という思想を持つならば。
63. ベイエリアでソフトウェアエンジニアとして生き延びるために役立っていること
https://anchor.fm/todayilearnedfm
聞いてたんだけど、タイトルとベイエリアとかサンフランシスコとかで働いてる人たちのポッドキャストだから、最近のMetaなどのクビ祭りをどうやって生き延びたか?みたいなゴリマッチョな話を期待するじゃん?全然そんなことなくてがっかりだった。
それに話の進め方や根底にある考えが、気に入らない。
例えば、リーダーシップのあり方について冒頭触れてたところ。Bigtechならではの取り組みってありませんか?と聞き役が頑張って引き出そうとしてるのに、話し手がメソドロジー(方法論)じゃないんだよって全否定してて、えー個人の素質に依存しててチームとしてそういう仕組みは作ってないの?ってがっかりした。
また、SOLIDの法則を例にクラスの抽象化の話に繋げるのはいいけどやっぱりそこから先がコードみたら大体思想わかるじゃん?ってな感じだったり(いやそこで例えばさー開発ドキュメントに残すためにこういう仕組み作りをしててね…みたいに繋がったら美味しいのにそんなことないし、そもそも実装に依存するというところで口頭だと難しいかもしれないけど例を上げもせず流すし)、話の根底に個人の資質に依存してる感じが透けてマジで無理だった。
半導体に関しては、
昔、半導体に関わっていてメディアに移動した人でも、国内半導体に対してずっとダメだしの記事しか書かないことが多い。
「税金つぎ込むのは馬鹿げている」というのは誰でも思いつくものだし、日米貿易摩擦といった過去の話を繰り返すなど、
報道をいくら調べても、戦略を立てるのに役に立たない。ネットの暗黙知も役に立たない。
半導体に関わった人でも、分業体制なので、一従事者から見た範囲の出来事でしかない。
ゴール決めて、「人・金・物」が足りてるかが抜けてるように感じてならない。
あと1つの原因に絞りたがるというのもある。
この増田とはとても気が合いそうだ。
ただ普通に真面目に善く生きたいだけなのに、ちょっとしたことで八方塞がりになり得るというこの社会の有り様に苛立ち絶望してしまうのよね。
要は処理場に着くまでに炎上したり収集車にダメージを負わすような状態にしなきゃどーでもいいんだよ
元増田への批判的なこの意見。「適度に破る」という言い方には抵抗があるが、言いたいことはわかるし概ね同意だ。現実的には、塩梅を考えながら生きていくしかなくて、私もそうやって生きている。
件の状況に陥ったら、私だったら新しい灯油に混ぜるか、新しい灯油を買う予定がなければ、雑巾等に吸わせて一般ゴミで出すだろう(モヤモヤしながら)。
だけれど、私が知りたい(考えたい)のは、「こうすればいい(まぁ問題ない)」という裏技的な、あるいは生活の知恵的な回答ではない。
「自治体で少量から回収している」とかの直球の解決策があればそれでいいが、そうではないのであれば社会システムに綻びとも言うべき解決不能さが内在していることについてどう考えるべきかというという問いこそが重要なのだ。
ここまでくると、直球の解決策(「自治体が回収している」とか)で納得するのは、それが解決策であるからではない。この件に関しては、社会システムの綻びは顕れていないことがわかるからである。
生きていくということは、ルールに従うことではないのは当然だ。
生きることは本来自由だ。自然にルールはない。縛られるのは物理法則だけだ。
とはいえ我々は群れ、社会を形成して生きるヒトである。社会には掟がある。掟は社会を営むための道具に過ぎず、また不完全なヒトが決めたものであるから、不完全に決まっている。だから、それらに折り合いをつけながら我々は生きる。掟は所詮は掟、絶対的なものではないという感覚は、社会の外側があることから意識されるものだ。牧歌的な社会では、きっとそうだろう。
ところが、今日我々が生きている巨大で複雑な(特に近代以降の)社会システムには外側がない。社会システムは我々の生全体を覆っていて、そこから逃れることはできない。ところが、この社会システムというやつは全体性があるかのような顔をしていながら、実際には完全には程遠く、そこかしこに綻びがある。その綻びの発見が、コップ一杯の灯油なのだ。
何に絶望しているかといえば、それはインチキさである。全体性があるかのような顔をして、我々の生全体を縛っておきながら、ところが実は完全には程遠く、そこかしこに綻びがあるインチキさである。
何に竦み上がっているかといえば、それは得体の知れなさである。誰が回しているのか分からない、いや誰もが状況に合わせて振る舞っているだけで、誰一人全体性を把握できていない社会において、適当な塩梅でルールを踏み越えて良いという判断の妥当性をどう確かめれば良いのか。ともすれば、カフカ的な『訴訟』に巻き込まれてしまうのでないか、という得体のしれなさである。
何に苛立っているかといえば、それはこのような社会の抱える欺瞞さに鈍感である人々だ。いかにも我々はこの社会に適応(ルールの遵守)していくしかないが、それが孕む矛盾にどうして恐れや怒りを、少なくとも違和感を持たずに平然としていられるのか。
そんなことを私は思うよ。