はてなキーワード: 民間療法とは
インターネットで起こりがちな一種類の現象を表す言葉はいくつかあるが、どうも端的ではないと感じる
・知らなかったこと、知ったことに衝撃を受ける(ネットde真実)
・世の中が間違っていると感じる
・行動する
→ 一部過激化する
例えば学生運動では、大学というコミュニティを媒体に似た状態が起こっている
(テレビは難しいところだが、番組、局が階層化されているので案外感化されにくいのではないだろうか)
インターネットにおける感化の特徴は
・インターネット上で感化される
昔のネットユーザーがインターネットに閉じこもるタイプだったのに比べ、今はもう少しオープンなユーザーが増えたためだと考えられる
なので一番端的なのは「インターネット上で感化される」ではないかと思う
インターネット上で感化されやすいのは、偏った情報を扱っているサイトがあるためだ
理由は簡単で、インターネットは個人が情報をまとめやすいスペースだからに違いない
また偏ったコミュニティーへのアクセスも非常にしやすいため、感化がスムーズに進む
他国ではもっとあからさまにフェイクニュースなどが存在するらしいので、感化の度合いは大きいかもしれない
こういったものはまとめて「汚染情報感染者」みたいな用語で呼びたいがまだ妥当な用語が見つかっていない
・民間療法
・宗教
・ニセ科学
・騙されないようにする
等があると思うが
これは近年のインターネットでは昔に比べ解消されつつあると思う
個人サイトは減ってきているし、SNSも完全に偏った一覧にすることは難しい、そもそも今の基本はアプリだ
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180903-00013215-jprime-ent
8月に乳がんで亡くなったさくらももこ氏であるが、上記のニュースによると民間療法に嵌って、波動で乳がんを治そうとしていたらしい。
2018年現在の日本では、オカルトブームは終息したことになっている。
1995年のオウム真理教の事件によってオカルトは危険だという認識が広がり、1999年7月のノストラダムスの大予言も盛大に外れた。
その後の2000年代にはスピリチュアルブームが起きたが、それも短期間で終わった。
しかし、オウムのような宗教や胡散臭いスピリチュアルは否定されても、疑似科学レベルのようなオカルトは未だに健在である。
ちびまる子ちゃんの初期アニメにおいて、ノストラダムスの大予言を扱ったエピソードが存在する。
まる子(=作者のさくらももこ)は、1999年7月に人類は死んでしまうのだから、勉強しても無駄だと無気力状態になる。
現実世界でも1999年7月には何も起こらなかったのに、それから20年後に作者はこのような形でオカルトにすがるとは予想もしなかっただろう。
大層なタイトルをつけてしまったが、最近沈静化している医療大麻議論をここで復活させるのはどうだろうか
個人的にはガンによるさまざまな苦しみの軽減方法として民間療法以外に選択肢を用意すべきだと思う
医療大麻についてだが、大麻自体にはアルコールやたばこの様に身体依存性はなく、大麻の成分カンナビジオールは抗がん剤の副作用の抑制に期待が出来るとして研究結果がすでに存在する
人の寿命は、精神状態でも大きく作用する。抗がん剤の苦痛により逆に精神的にやられ免疫力が下がり余命が短くなるケースがある
医療大麻は苦痛を軽減し、少しでも元気に過ごすことで余命を伸ばすことができる可能性がある
(大麻について論ずるとまた活動家か…のような印象を受けるかもしれないが
大麻に関する正確な知識を得れば、なぜ規制するのか?という疑問しか湧かない
むしろなぜ依存性が高いアルコールがここまで野放しにされているのか不思議でならない)
将来自分がガンになった時のことを考えて欲しい
そして今ガンで苦しんでいる人のことも考えて欲しい
あの人ってかなり疑似科学というか民間療法に親和的な人だったよね
飲尿療法とかさ
だから今回のニュース聞いて真っ先に「ちゃんと標準治療受けてたんだろうか?」って思ってしまった
当然標準治療受けてても亡くなる人はいるし、こんなのただの部外者の憶測であり余計なお世話だろうけど
思い返してみると、一番最後に読んださくらももこのエッセイはさくらももこの尊敬する絵本作家が死んじゃって、生きてるうちに彼に会おうと行動に移さなかったことを後悔したももこがその後イギリス行ったり、彼の作品のコレクターに会ったりして彼の生きた痕跡?を辿るみたいな話だった
「さるのこしかけ」「もものかんづめ」「たいのおかしら」みたいに爆笑できる箇所はほとんどなかったけど、読後感は悪くなかったような記憶
違うと思う。
活字を読むぐらいのことにいちいち拒絶反応起こされても困るが、活字を好むぐらいのことを褒め称えるのは違うと思う。
とりあえず活字を拒絶しないことの次のレベルとして、化学式や数式に拒絶反応を起こさないってのがあるけど、これも褒めるほどではなく人として当然のこと。
というか、自分一人で黙々と本を読むだけのことになんの凄さもない。
アニメ毎週100話見てる自慢と何も変わらぬ。
じゃあ何が出来たら褒められるかというと、どの書物にも書いてないけど、誰も知らないという訳ではないようなことを知る方法を身に着けていること。
つまりは、他人とコミュニケーションを取れること、自分の手足を動かせること。
紙やテキストファイルに文字を書いてるのは人間な訳だけど、その内容は整理こそされてるけど、整理するために削られている部分も多い。
書く以前にその内容自体がまだ誰も知らないけど、しかるべき人が手足を動かせば案外簡単に手に入る情報とかもある。
たとえば、自分の体の調子が悪いと感じているとしたら、本を読んで調べればある程度の症例は絞れるかも知れないけど、医者に相談する方が正確だ。
素人がいくら本を読んでも憶測の域を出ないし、自分でできる治療も民間療法や市販の薬品を使うことぐらいだ。
本を読むことは多くの場合解決力において、然るべき人間とコミュニケーションを取ることに劣る。
誰にどう相談するか、どういう表現が適切かを学ぶのに役には立つが、実行に移さないなら宝の持ち腐れどころか、それが実践において宝と言えるのかも分からないままだ。
だが、本の虫であることに満足してコミュニケーションから遠ざかっては駄目だ。
本を読むことはある意味ではコミュニケーションなのだが、それは静的なコミュニケーションであり、動的ではない。
ピッチングマシンばかりを相手にしていては、ボールを捕れても投げ返し方が分からないままだ。
それでは、褒められない。
本を読むことを褒めるより前に、人と会話ができる事、積極的にコミュニケーションが取れることを大事にすべきだ。
天声人語より
奴らは「自分の体験が他の人の闘病に役に立つ」なんて抜かす。しかし中を覗けば自己憐憫と承認欲求にまみれたクソの内容。特にアラフォーあたりの乳がん患者のブログはひどい。小林麻央のブログに影響を受けたのか知らないが、がんであることにかこつけて、ズラを被った自分のブサイクな自撮りを散々乗せることを正当化し批判を寄せ付けず、根拠のない民間療法に騙される様を自分から晒し、末期になれば「辛い」だの「苦しい」といった題名のアメンバー限定記事を作る。そしてブログ最後の記事は家族が「〇〇はがんと闘って天使になった」などと意味不明な記事を残して終わる。がんになって残された時間が少ない中でなんの意味も残さないブログを書き、闘病仲間などというキズの舐め合い集団を作り死んでゆく様は見ていて滑稽だな、と思った若年がん患者でした。