はてなキーワード: 東京弁とは
言語は抽象化されたデジタルな概念だけど、それを出力するのに発生器官を用いるとアナログな情報が出力されることが辛い。
でも最終的にはそれをデジタルな情報に直していかないと会話は成立しない。
「浜田さん」と口にしたいとき、発音が悪いと「アマダさん」になり、さらに電話や相手の耳が悪いとそれが「ヤマダさん」に変化する。
もしもメールでやりとりしていればこれは起こらないし、もし起こっても「あなたは確かに「アマダ」と書いてますよね?」と聞き返すことが出来る。
音声はそれがない。
音は出した瞬間に消えるし、もしも記録されていても記録機器の性能によって劣化する。
人間の耳が持つカクテルパーティー能力のせいで除去されていたノイズがモロに乗ってくる。
だが恐ろしいことに発生した本人はその音から「ハマダ」を確かに拾ってくる。
いやそもそも、生まれてきた地区や育ってきた環境によって同じ音でも発生方法が違ったりする。
日本人はRとLを区別できずにすべて「ら行」にすることで知られているが、それは日本人の発音する「ら」がRとLの中間で行われるからであるが、これは外人からすれば理解不能の子音である。
標準語と呼ばれる実質的な東京弁は存在するにはするが、それだって完全に全国で同じ発音が用いられているかは怪しいものだ。
つまり、文字として思い浮かべた言葉を口を使って出力するというD⇔A変換が行われた時点で、その正確性はまずもって失われるのである。
これが本当に辛い。
なぜ、わざわざ正確性を下げてる必要があるのか?
人間はもっとデジタルなものをデジタルなままで出力することに対して拘るべきじゃないのか?
むしろアナログで出力することを有難がる節さえあるのは理解に苦しむ。
それは音楽データをコピーする際にCDのデータを直接パソコンに取り込む代わりに、スピーカーで再生したものをマイクで保存するようなものだ。
狂っているとは思わないのか?
私は思う。
大阪で生まれ育って26年、東京に出てきてもうすぐ丸7年になろうとしているんだけれども、すっかり東京弁が板についてきたな、と思う。特に仕事中はかなりスムーズに東京弁がすらすらと出るので、しばらく会話した相手に自分が大阪出身であることをいうと「分からなかった」と言われるまでには東京弁をマスターしてきたかな、と思う。東京弁とは、べらんめぇの江戸訛りというよりかは、一般的には標準語というのかもしれないが、ここは関西人の言う「東京弁」のことだと思ってもらいたい。
7年前に東京に出てきた最初の一瞬は、特に意識することもなく相手が誰であろうと関西弁で会話していたものの、これを続けるのはやはり難しかった。というのも、いわゆる「でんがなまんがな」までとは言わないまでも、それなりにもともと関西弁が強い方なので、人の名前を呼ぶときも関西弁丸出しのイントネーションで声をかけるんだけども、聞き慣れないイントネーションで呼ばれても、相手に自分のことだと思ってもらえない。何度か声をかけるうちに「あ、もしかして俺のことを呼んでたの?」と言うふうに、そもそも聞き慣れない方言はすんなり頭の中で処理できない人が多い、と言うことに気づき、無意識のうちになるべく聞き取りやすい言葉=東京弁で喋らないといけない、という意識が湧いてきたと思う。すると今度は、自分の中に東京弁が無いので、思っていることがスッと言葉に出てこず、頭の中で変換するのに時間が掛かる。そうなると、話すこと自体が億劫になったり、ストレスに感じたりして、一時期比較的無口な時期が続いたりもした。比較的喋る方だと思っていたのに。
当然ながら東京では日常が東京弁に溢れ、自身も多少頭で変換しながら東京弁を話す、という作業を続けること数年。触れる関西弁といえばテレビに出ているお笑い芸人のみ。関西芸人の露出も大阪にいた頃の比ではない少なさで、東京弁が少しずつ耳に馴染んでいくにつれ、いつのまにか頭の中の思考もハナから東京弁で行われるようになり、すっかり東京弁をマスターした、と言えるようになった。
すると今度は、たまに関西人と会話するときに、関西弁がすんなり出ない、ということが増えてきた。これは他の地方出身者なら気にならない人も居るのかもしれないけども、本来大阪の東京へのライバル心たるや凄まじく、文化においては関西の方が上、つまり江戸に対しての上方であると言っていたり、ただの対戦相手のひとつである読売巨人軍に並々ならぬ敵対心を燃やしたりというので、関西人に対して東京弁を話すと「もうおまはんは大阪の人間ではない」「東京に心を売ったんか」というようなことを言う人もあり、アイデンティティが薄れていってると言う心持ちがして少し寂しいな、と思うことがあった。
一方で、ここ最近芽生えてきた思いがある。それは「東京弁、ありじゃないか」というので、実は結構東京弁が好きになってきている。
というのも、最近芸人がパーソナリティを務める深夜ラジオをradikoで聴くようになって、関西芸人関東芸人問わず色々聞いてるんだけども、関東芸人の話すエピソードトークが、どれも壮絶なオチがあるわけでもなく、とはいえしみじみと相手に訴えかける話が展開されて、これが滅茶苦茶に良い。これは恐らく、良くも悪くも方言にサービス精神が乗っかる、例えばとにかく大袈裟にであったり、少しでも相手に面白おかしく伝える関西弁の悪いところが一切排除されているからで、このサービス精神の要素が無く、かつ話術に長けたエピソードトークは、粋を感じさせて良いな、という気がしてきている。
自分が大阪に居た頃、いかに会話を話しかたで誤魔化してきてたか、曖昧なニュアンスを曖昧なまま伝えていたか、勢いのある方言に頼っていたか、という反省と、東京弁だからこそ活きる言葉の選び方の妙、相手に与える印象みたいなものの面白さに趣きを感じつつ、この感覚は東京と大阪を両方を体感して初めて味わえるものだし、言語化が難しそうだけれども、稚拙でも良いから明文化して残しておこう、そして自分は東京弁と関西弁のどちらの良いところも扱いながら、言葉の妙を使いこなすバイリンガルを目指していこう、と心に決めたのでした。
そんな矢先。毎年実家から年末年始の関西ローカル番組の録画をブルーレイに焼いたものを送ってもらっており、週末に計10時間以上の関西弁を浴び続けた結果、東京で育った家人に「なんか急に早口な関西弁になって、心なしか性格までキツくなった気がする」と言われました。わずか7年では、たった10時間のテレビ番組に打ち負ける。バイリンガルの道は程遠い。
いや普通に使ってるが
東北内でさえ秋田と青森と岩手と宮城の人が集まったら共通語でしゃべることは珍しくない
そういうときにはあまり使われないが東京/関東出身の人はちょくちょく使う真性の「東京弁・関東弁」もないとは言わんが、非常に少ない。
後ろ指刺されるからじゃなくて、地元の人以外に地元の方言丸出しで話したら通じないから、学校で習うしテレビでも流れててどこでも通じる「共通語」で話すんだよ
https://note.com/lingfieldwork/n/nefd96c0b8e71
いや、物事がなくなるのは悲しいことだ。言葉が失われることはその文化や人種が消えてしまうともいえるだろう。
これは植民地支配や同化政策とも同じで民族の多様性を失わせることにもなるだろう。
が、だ。
なんか、ピンと来ない。関西弁だってなくなるって言う。テレビの影響かしらないけど。みんな東京弁になる。
しかし、アマゾンの奥地の少数民族やチベットの少数民族だっていなくなる。自分たちが気づかないうちにいなくなる。
むしろ、そうやって文字も残さず消えていった民族だって多かったはずだ。
なくなることははかない。だが、それをすべて押しとどめるには私たちに力はない。歴史に血を通すのは言葉だろう。しかし、なくなることに情緒を見出さなきゃならんのだろうか?
かつて留学のためにVISAをとるべくある国の大使館に行ったとき、そこでひとモメ起きているのを目撃した。
おばちゃん職員の受付に、そこそこ日本暮らしの長そうな外国人のおっちゃんが並んでいたんだけども、書類に不備が複数あったみたいだった。
おっちゃんの方はあんまり攻撃的な感じでもなく、○○がないと言われたらあっそうなんですかというようなリアクションを返してたのに対し、おばちゃん職員は全ての言葉にトゲがあって超怖かった。
「○○がないなら駄目ですね。もう一度来ていただくしかないです」みたいなことをスゲー冷たい口調で言っていた。まあ口調が優しかろうと冷たかろうと不備があったらダメなことに変わりはないんだけど、それにしたって言い方!言い方!と思って俺は見ていた。
おっちゃんは出張?学会?か何かのために外国に行こうとしているが、発行にかかる時間的に間に合わないということがわかったらしく、けっこう絶望している雰囲気が背中から伝わってきた。
でもおばちゃんはとりつく島もなく(仕方ないけどさ!)、「とにかく、それは発行できません」というようなことを言って話を打ち切った。
おっちゃんは受付の前で立ち尽くしていた。俺でも立ち尽くすと思う。
ここからがいちばん心が痛んだパートで、おばちゃんはそこに追撃をかけた。
「ですから発行はできないので、そこに立たれていても無駄です。邪魔になりますからどいてください」
マジでこんな感じのことを言った。完全に正論ではあるものの、まったく関係ない俺の肝も冷えるくらいに怖い言い方だった。
おっちゃんはスゴスゴと横にズレようとして、そこで財布の小銭を床にぶちまけてしまった。おばちゃん職員はそれをみてため息をつかんばかり、というか実際ついていたような気もする。心底ウザそうな顔をしていた。
全体的に張り詰めた空気のなか、小銭拾いを手伝いに行く勇気も出ず、背中を丸めて床を探るおっちゃんの姿を見て俺は他人事ながら泣きそうになった。
そのあたりで自分の順番が来て、俺は俺でちょっとした不備があったりしたから記憶が飛んでいる。
ただ覚えているのは、外務省公式サイトに載っていた「手続きに必要な書類」のなかにあった封筒を忘れていたことに手続き終了後に気付いて、わざわざ買ってもう一度大使館まで行ったのに、件のおばちゃん職員に「封筒は必要ありません。知らないんですか?」みたいなことを言われてスゲー冷たく追っ払われたことだ。
実際手順が変わっていらなくなってたみたいなんだが、サイトにそれは反映されてなかったし、張り紙もなかった。なのになんでそんな言い方すんの?外務省ホント嫌い!全員死ね!と思いながら帰った。
東京に行ったのはそれが初めてで、赤坂のチョーお高くとまった雰囲気・クソ嫌なおばちゃん職員・電車内で耳に入る東京弁の不快な響きなどが相まって俺は東京すらすっかり嫌いになってしまった。
大使館は最悪
まず最初に問いたい。
最後に改めてもう一度聞く。
その時までこの言葉は忘れていてくれていいよ。
覚えててもいい。
俺の生まれた場所は東京から1000kmぐらい離れた場所にある。
日本という国において「標準語」ってのは「関東で生まれた標準語」を指す。
この感覚が関東の人は分からないっていうんだけど、本当にそうなんだ。
たとえば関東の中にだって、埼玉や千葉でしか使われていない言葉があって、それが標準語の喋り方に組み込まれている、らしい。
これは東京の知り合いに聞いたことであって、もしかしたら俺が詳しくないだけかも。
東京弁みたいのがあってそこから外れているだけなのかも知れない。
まあとにかく、この国では「いまどきの東京弁」≒「標準語」なわけだよ。
まあ結局の所、一番強い力を持った方言が日本を支配してるだけ。
俺はそう思っている。
その「東京の標準語」が堪能じゃない人がいたとして、その人は君たちのいう「日本語が通じない」に入るのかな?
そこが気になってしょうがない。
さっきそれぞれの地域にそれぞれの標準語があると言ったけど、これが本当に厄介なんだ。
本当に、すっごく微妙にだけども違うんだ。
99.9%一致してるけど1000回に1回飛び出してくる僅かな違い。
それが時に混乱を生む。
こっちが尊敬語として使った言葉を、別の地方から来た人はぶっきらぼうなタメ口だと勘違いしたりする。
お互いが大人だからその場では何も言わないけど、あとになってからそのことについて苛立っていたと告げられて驚く。
その逆だってある。
自分なんかは、嫌なことは忘れるのがQoLだと思っているのですぐ忘れるけど。
そういうものだと割り切って使えばいいとお互いが考えてればいいけど、そうじゃないと僅かな誤差から喧嘩になったりするのがキツい。
そもそも論として、みんな言葉なんて曖昧なものに完璧を求めすぎている。
たとえば、「汚名挽回」、とか。
「汚名挽回」と「汚名返上」と「名誉挽回」はどれも同じ意味だ。
そう決まっている。
でも、「汚名挽回」って言葉に対して、「汚名返上」と「名誉挽回」が混ざったようなイメージがある。
だから「間違えている気がするので、間違えているということにする」。
他人の揚げ足を取りたくしょうがなくて、苛々することが大好きな人達が。
そうして実に気持ちよさそうに「日本語が間違っている」「日本語が通じない」と口にしたがる。
ああ駄目だ。
嫌な思い出に振り回されてルサンチマンの塊になってきた。
これだけ書けば十分だな。
改めて聞くぜ。
覚えていてくれた人、ありがとう。
本当に、本当に、不安なんだ。