はてなキーワード: 屁理屈とは
先週風邪を引いてダウンしたときに、彼がうちにお見舞いに来てくれることになった。
お昼頃に「夜いくけど、なにかほしいものある?」ってラインがきたから、
「甘いものが食べたい」と返した。
夜、彼が来てくれたんだけど、持ってきた「甘いもの」はゼリーだった。
私は「普通甘いものって言ったらケーキだよね?」と問いつめたら、彼は「ケーキはお腹にたまるからダメかと思って」と屁理屈。
そのあと彼が出かけてケーキを買って来たけど、お店のじゃなくてコンビニのだった。
秒速で冷めた。
「ラノベ批判するやつは文盲」とか言ってた人もいたっけ。強い言葉を使って自分を強く見せようとしてるし、そこに集まってるオタクたちはああいうのが正しい表現だと思って共感しているのだけど、普通の大人から見たらああいうのってただの痛い人なんだよなあ。
漫画、アニメ、ゲーム、ラノベなどは基本的に誇張された表現や過剰な表現が多いので、そういうものに大量に触れていればオタク自身もそういう言動をするようになるんだろう。
繊細な表現がわからない、きっちり説明されないとわからない、割り切れないと不満だ、そういうのがオタクなんだよな。行間を読む能力が欠如しているというか。テンプレ的表現でないと理解できないというか。物事を簡略化して単純な図式に還元して理解した気になる傾向があって、極論に飛びつきがち。そういう態度がネトウヨを生んでいるとも言えるのかもしれない。
例外を一つでもあげることができればすべてを論破できると思ってるオタクは多いが、これも極端な思考の一種と言えるだろう。一種のセカイ系的な思考習慣というか、かなり幼い態度だと思う。
オタクは「主語がでかい」という批判を好むが、元の主張は「すべての」と書いてもいないんだよな。勝手にそう読み取って「そうではない〜もある」と言って完全に批判しつくした気になっている。元の主張は傾向とか一般的にはどういう認識が世間で共有されているかとかその程度の話なのにもかかわらず。元の主張を批判するならば、例外をあげて満足するのではなく、そういう傾向とは言えないということを語らなければならない。オタク的反論だと元の主張を認めながらただ例外が存在するということを言っているにすぎない。極めて手抜きな議論態度である。ただし、そこに集まるオタクたちは例外がひとつでもあれば論破できたと信じてしまう。だれもそういった愚かな態度についてダメ出しもしない。それで自分たちが賢いと思っている。
箱の中にはAと書かれたボールが90個とBと書かれたボールが10個あった。世の中の大半の人は「箱の中にはAと書かれたボールばかりがあった」と言うだろう。それに対してオタクは「主語がでかい!箱の中にはBと書かれたボールもあった!お前は間違っている!謝罪しろ!お前は謝ったら死ぬ病なのか!」と騒ぐわけだ。なんなんだこれは。
たしかに箱の中にはBと書かれたボールもあった。が、全体としてみれば箱の中にはAと書かれたボールが多かっただろう。「Aと書かれたボールばかり」という主張と、箱の中には「Bと書かれたボールもあった」という主張は共存できる。そういうことをオタクは理解できない。オタク的な語り方では、「箱の中にはAと書かれたボールとBと書かれたボールがあった」ということになって、オタクの中ではこれだけが正しい。一見客観的な記述で中立で公平に見えるが、しかしこれでは「Bと書かれたボールよりAと書かれたボールの方が明確に多い」という事実を表現できていない。それどころかオタクは「箱の中にはAと書かれたボールとBと書かれたボールがあった」と言うことによって、まるでAと書かれたボールとBと書かれたボールの数が等しい、つまり50個ずつあったかのように誘導したがっているように見える。それがオタクだ。
かつてサイコロポエムというものがあった。とあるラノベ作家が提唱したものだが、これは「一の目が出る確率はその目が出るか出ないかの二分の一である」というものだ。まさにこれもオタク的な屁理屈、極端な態度と言える。
こういう自分に都合のいい屁理屈で現実をばっさばっさと切り、自分は他の人間より知的であると本気で思い込んでいるのがオタクだ。科学万能主義に陥った中途半端な理系が多いのも気になる。
「やめてね」って言われてるのに、「でもこれならOKだろ」とか言ってるのっていじめと変わらない構図だなあと感じる。
国鉄民営化はもともと経済成長の一環として行われたものである。こんなことは、バブル景気の歴史を調べればわかる話だ。
堂々と尤もらしい経済政策を打ち出せなかった日本は国鉄民営化によるGDP水増しを強行した(後の郵政・道路公団民営化もそう)。
もともと公的にしか管理できない危険なインフラであり、鉄道は公的管理できる必要な程度にとどめ、管理も公的に行うべきだ。
ましてや、経済政策のごまかしのためにビジネスを肯定し、それを正当化するために安全性や環境性の宣伝を行い、産業や地域が潤う仕組みを作らせ、管理も手薄な民間管理の鉄道が、放置しても日本各地で増加する仕組みをリスクを日常化させてきたとは本末転倒も甚だしいものである。
日本のリベラル勢力はこれまで公共インフラの民間管理反対を主張してきたが、公共交通推進と新自由主義反対の立場は、近年の日本の現状いや1987年以前から変わっていないものである。
マジレスすると、ネトウヨを「叩いて遊ぶ」つまり相手を不幸にすることで快感を得るような振る舞いは、
リベラルなメンタリティ(道徳心理学でいうところの公正やケアを司る本能に根差す)と矛盾するからNG。
ネトウヨの優位性は屁理屈があればこまでも嗜虐的になれ、ヘイト活動そのものを楽しめるところにある。
今回ネトウヨ叩きが盛り上がったのは自己検閲を飛ばして単純にネトウヨを困らせて楽しめるからだろう。
同じことをリベラルがやろうとすると、まず公正やケアの本能がやめるやめろと言ってくる。
その息子がゲーム機を欲しがっているという
息子さんはPS4の上位機種であるPS4Proを欲しがっているのだという
通常版とくらべて1万5千円以上も高いPS4Proへの購入を同僚が渋ると、息子さんは「高性能な機種の方が長く遊べるからかえって安く付く」と食い下がったのだという
その屁理屈に納得しかけていた同僚に、すかさず私は助言を与えた
PS4とPS4Proは確かに性能に差はあるが、ゲーム機の「世代」としてはあくまでも同じものであり、遊べるソフトに一切の差はなく(PS4Proでしか遊べないソフト、などというものは存在しない)、いずれ世代交代する時は両方同時に終了するという事を懇切丁寧に説明した
ついでに、PS4は発売からまもなく5年を迎え、ゲーム機の世代としては折り返し地点を過ぎており、現役(最新ゲーム機)でいられるのはせいぜいあと2、3年程度だろう、ということも
同僚はにこやかに納得して帰路に就いていった