はてなキーワード: フェミとは
少年漫画、少女漫画見るといじめっ子へのアプローチが違うよね。
少年漫画はいじめっ子に対して、主人公自身が鍛えてやり返したりする。
ところが少女漫画ではいじめっ子を「みんなお前のこと嫌ってるよ」状態にすることが「勝利」になる。
直接に抗議せずネットで「こんな嫌なことあったー→世間的にはそれはダメっていう空気にしてー!」と行動する。
まあ、まわりくどい。
そして「みんな同じ考えになれ!」って言うてもそりゃ同じにならない。揉める。
(けどバズってたまに成功したりするんだよな)
はたして本当に性的役割とかいうものが弱者男性の発生源なのか?
フェミニストと弱者男性が共闘するというなら賛同しとくが(面白そうだし)、
弱者男性がどこから来たのかについては、もっと生物の本能に根付いた何かがファクターだと思ってる…。
弱者男性だけどその条件をのもう
弱者男性だけどその条件をのもう
・・・ただし性的消費を止めるなんて約束はできない、今のめるのは、反省する、だけ
隠れたサイレントマジョリティである増田弱者男性たちだけじゃなく、脳内で武器として弱者男性を飼ってるアンチフェミとかリベラル勢の賛同も必要だ
フェミニストを名乗るなんておこがましいと思ってるけど一応、フェミニズムの片隅にいるものとして。ひと言だけ。
女性性の尊厳は自由にしていい、という性的な固定観念のままに、一方的に女性をまなざすのは、いい加減勘弁してほしい。学校のプールでは長袖の水着を着させられてるんですよ。実質的に、まなざされもせず/消費もされてない(こっちはゾーニングしてるのに!)という特権性に甘んじてセンシティブな側面を踏み荒らされ心理的安全性をないがしろにされるのが許される時代じゃない。結局
クレジットカード会社という外圧頼みだった件については溜息しかない。自浄とか最後まで無理だったなあ、としか。……でも反省するというなら話は変わってきます。
LGBT に配慮しろとか言いながら、自分たちは女性だけを選択的に殺す。そんな人たちを助けるなんて自傷行為ですので。
追記・女性の文化を見下してるからメイクとかのセルフケアも取り入れず、なのに「不幸率ガー」 と嘆いてる時点で失笑だし、そもそも「男らしさ」とかいう古臭い性役割を降りれば話は済むんじゃない? 下駄履いてる既得権益はキープなのに救済団体用意しろとか、逆に過保護に慈悲的差別されてない? とか色々思うところはあるけど、全部脇に置いた最小限の条件❶❷だから、そこんとこヨロシクね。
和解のカギを握るのは『腐女子』だと思う。フェミと弱者男性の両方の分野に近い。
『腐女子』は女性の生きづらさに通じていて、世間から隠れた趣味になりがちなので陰キャとも近しい。ゆえにチー牛などと揶揄されがちな弱者男性の気持ちは分かるはず。
話は進まないだろうな。
弱者男性が抱えている問題の多くは、日本社会に根深い、性別役割分業や性別に関する固定概念から生じています。フェミニズムはそれらを批判する運動なのだから、弱者男性の「敵」ではなく、共闘すべき「味方」のはずです。
一般男性はあの記事を読んで「なるほど」としか思わないと思う。
「なるほど、差別と定義は正確には違う意味なのか。そして弱者男性は排除されてるんだったら、それ専用の解決策で救わなきゃな。フェミと弱者男性で論戦するんじゃあなく」
…みたいに。
差別の厳密な定義を理解できない一般男性に合わせなかったのが問題なら、
アンチフェミも、お気持ちを女性差別と信じて疑わないフェミ率いる女性に合わせなきゃいけなくなる。
どっちを取っても弱者男性は譲歩を強いられる。弱者男性差別は差別じゃないと認めるか? それとも、性的消費を差別と認めるか?
これは何度だって繰り返し言うが、男が持つコンプレックスが「単に性行為の経験がないこと」が原因ならソープで解決できるが、「誰からも愛された経験がないこと」の場合、ソープ等の風俗で童貞を捨てると、かえって悪化する。
場合によっては、女を全て売女とみなし罵倒するアンフェミミソジニーに化けすらするので、安易に男にソープを勧めるのは、本当に、ほんんんんんんんとうに止めろ。
女性選挙権を奪うためにドイツ法学書を捏造し、利権と天皇制維持のために国民を戦争や原爆や水銀その他の犠牲にし、メディアを使って大衆の支持を装っているインテリヤクザは、女性や弱者男性の言論や収入を制限しようと躍起になっているようである。
女性賃金上昇のためにストライキをする労働組合など存在しないくせに、人件費に一切関係ないフェミやら環境改善のレベルで、さも争っているかのように見せる米国植民地の姑息
っていうけど、よく考えると為末のいってることって、子供、特に息子をを母親の良い話し相手にしてるフェミママと変わらないよね。あまつさえ堂々と洗脳までして、それを誇ってるんだから、為末よりキモいじょのいこ?
個人的には、ディープフェイク等の問題からAI規制は当たり前だと思っているが、SNS(X)を中心とした反AI運動は何か気持ち悪いものを感じて近寄れない。
この感じは何なんだろうと考えていたが、どうやらそもそも彼らは「連帯」という言葉の意味を理解していない、あるいは歪めているのだと気がついた。
連帯とは何か。
例えば反AI運動なら、「私は著作権問題でAIに規制を求めたい」「私はディープフェイク問題でAIに規制を求めたい」「私たち両方に利益のある規制を求めて協力していこう」とこういう会話ができることである。
まかり間違っても、「ディープフェイクを理由にAIを問題視しているなら、同じように著作権問題にも注意を払わなければいけない」などと迫ることではない。
ある問題が問題視される理路は一つではなく、それはどれかひとつが正しいというものでもなければ、ひとつが正しければ他のすべてが正しいというものでも、そうでなければいけないというものでもない。
連帯するということはその多様な問題点を問題視するそれぞれが、同じ対象に問題を感じているという一点だけで協力することであって、わざわざ邪魔をするようなことはあってはならないが、互いに必要以上に理解を求めあうものでもない。
しかしどうも、Xの反AI運動に熱心な、「クリエイター」意識が強い面々は、そういうことがわかっていないように思える。
彼らは「著作権問題は正直どうでもいいけど、AI規制は必要だよね」という意見の人を最初から想像もしてないように見えるし、たぶんそれを認めさせようとすれば反発すらしそうな気配がある。協力しようなんて気はさらさらないだろう。
というより、彼らにとって「協力」「連帯」とは、「クリエイター」の悲惨な境遇を認め、共感あるいは畏敬の念をもって憤怒の情にかられることであって、「クリエイター」に全く同情的でないがAIには問題を感じるなどという意見を持つのはその方がおかしい、矛盾してるくらいに感じているのだろう。
つまり、彼らにとっては運動ということが敵とやりあうためにクレバーに立ち回ることではなく、とにかく自分の立場の支持者を増やすことにすり替えられてしまっているのだ。
そうやって考えてみると、SNSの運動家には一般にこの性質が見られる。
「フェミに問題があると思うなら日本が女尊男卑だとも認めろ!」
とか
「表現の自由戦士に問題があると思うならオタク文化も全否定しろ!」
とか。
通常の人が通常の範囲で問題があると思うものに声をあげるために、それ以上の過激な立場でいることを何故か強制されるのだ。
「いや、そこまでは言うつもりはないんだが…」と躊躇していると、「だったら黙ってろ」と言われてしまう。
これって何か、「連帯の輪を広げる」という建前からはどこまでも離れたものになっている感がある。
独断と偏見でこういった排他性の心理を分析するなら、やはりそもそも彼らの望むものは問題の解決とか、合理的な利害の処理というところにはないのだろうと考えざるを得ない。
では何を求めているのか。
結局、それはSNSというサービスの本来の目的そのものなんだろう。
どちらかというと、そこまで極端な自分の主張を肯定してくれる、真の仲間、くらいのすごいものを求めているのだ。
そうでもなければ、些細な違いに目をつぶりつつ、なあなあで連帯することにあそこまで目くじらたてて拒否反応は示さないだろう。
彼らは、敵を設定することで、敵の敵は味方理論で自分を理解してくれる人を増やそうとしている、というのが本当のところなのだろう。