はてなキーワード: アワビとは
格付けチェックが流れる度に「ヤラセ疑惑」みたいなのが出るけれど
ぶっちゃけ今の時代にヤラセとかやったら即流出するからそんなリスキーなことやらない
笑ってはいけないで渡部が復帰したときもすぐに内部からリークされてあっという間に潰されたし
この辺を考えると、ゴチ・格付け・水曜日にはヤラセは無いと思う
ゴチに関しては俳優陣が毎回やる気がなくて必ずクビになってるっていうのはレギュラー出演が難しいから、っていう事情があるだろう
そもそも全員がレギュラーに居続けたいと思っている前提で「クビ」と言っているのには違和感しかない
格付けにしても同じ問題なのに人によってマグロだったりアワビだったり茶碗蒸しだったりしてるのは、大御所に簡単なのを持って行ってるからだろう
水曜日は特にクロちゃんが役者ばりに演出をしているがスタッフに言われてやっているわけじゃないからヤラセでは無い、という扱いになっている
クッキーを割ったのはスタッフに言われたわけでは無いが「その方がテレビ的に盛り上がる」と考えてやっているにすぎない
ドッキリ系もOAの数倍を収録しているがそれらを切り貼りしているだけでヤラセではない
そもそもドッキリに気付いているけれど乗っかっている、というのもかなり多そうだしなんとも言えない
アワビっぽくなってたら、かなりまでセーフ。
「人魚の肉を食すると不老不死・不老長寿となる」という物語は、八百比丘尼の伝説・昔話として有名でもあるし、仮にそれらを読んだり聞いたりしたことは無くても、高橋留美子の連作漫画『人魚の森』シリーズを読んだから何となく知っているという人も少なくない。
しかし、そもそも何故、人魚の肉を食したら不老不死・不老長寿となるのか?その理由というか説明については、知らない人も多いのではないだろうか。
これを書いている増田が、その理由らしきものについて書かれたものを最初に読んだのは、神話学者・大林太良の著書『神話の話』(講談社学術文庫)であった。この現物を、確かに所有しているはずなのに本棚や倉庫の中から見つけられないので、ここでは記憶を頼りに大林説を書き起こすが、もしも『神話の話』の現物を持っている人は、そちらを見た方が早い。図書館で探してもよい。
まず、八百比丘尼伝説の概要は、大同小異、以下のようなものである。「龍宮の主を助けた漁師が、龍宮に招待されて主から宴などの歓待を受け、家路につく際に主からの土産として、人魚の肉を貰い受ける。聞けば、それを食した人は、不老長寿となるという。家に持ち帰ったはいいものの、人魚の肉を食べるのに怖気づいた漁師は、いったん戸棚にそれを保管する。しかし、漁師の留守の間に、彼の娘が人魚の肉を食べてしまう。人魚の肉のことを父から聞かされるが後の祭り。はたして、娘は不老長寿となってしまう。父親である漁師も、娘が結婚した夫も、近所の人たちも、漁師の娘が愛した人たちは皆、寿命が尽きて世を去るが、彼女だけは不老長寿の若々しいまま、この世に取り残される。その孤独な境遇を嘆いた娘は、仏門に入るものの、その後も長く若々しいままで生き続け、とうとう八百比丘尼(八百歳の尼僧)と呼ばれるようになり、最後は洞窟の中に籠もり、人々の前から姿を消す」
大林太良によれば、これと殆ど同じ内容の話が、朝鮮半島・平壌の仏教寺院の伝説として残るという。但し、日本の八百比丘尼物語には見られないディテールとして「結婚して夫を迎えたが、子宝に恵まれない」という描写が、朝鮮半島版の物語には有る。
つまり、人魚の肉を食することによる不老不死・不老長寿の獲得は、生殖能力を喪失するというトレードオフになっている。このような不老不死性と生殖能力のトレードオフは、八百比丘尼の物語にだけ見られることではないことを知っている人もいることだろう。
例えば日本神話では、人間の寿命に限りが有る理由として、ニニギノミコトがオオヤマツミノカミから娘の女神を嫁に迎える物語が語られる。オオヤマツミには二人の娘、姿形が麗しくないイワナガヒメ、姿形が麗しいコノハナサクヤヒメがいた。ニニギノミコトは、見た目を重視してコノハナサクヤヒメを選ぶが「イワナガヒメを選んでおけば、不老不死でいられたものを」とオオヤマツミノカミから言い渡される。花が咲き、実を成し、種を残して枯れる植物のように、こうして人は有限の寿命となった。岩石のような、長い年月が経過しても残るような不老不死性は、こうして人から失われた。
女性を差別・侮辱する古語として「うまずめ(=子を産まない・産めない女)」というものがあるが、これを漢字で書けば「石女」である。言うまでもなく、この言葉にはイワナガヒメ(岩石の女神)とコノハナサクヤヒメ(植物の女神)の嫁取り物語と同じ考え・物の見方が、素朴な形で反映されている。
昔の人たちが呪術的な発想として、生殖能力の有無と不老不死性を結び付けて考えたであろうという仮説自体は、現代人も自然と受け入れられるであろう。
問題は、何故、人魚のイメージと生殖能力の有無が結び付けられたか、その点が定かではないところである。これについて『神話の話』の中で大林太良は、一つの示唆として、中国の人・袁枚(えんばい)の残した『子不語(しふご)』という書物に収められた、次のような挿話を紹介する。
「袁枚の甥が、地方の役人として赴任する旅の途上で立ち寄った集落で、住人たちが騒いでいた。何があったのかと尋ねると、その集落に住む或る夫婦の妻の下半身が魚になってしまったという。彼女の証言によれば、昨夜は夫と同衾し(夫婦の夜の営みを行い)、眠りについた。夜更け、下半身がむず痒くて堪らず、手で搔いていた記憶があるが、疥癬のように皮膚がポロポロと剥がれ落ちる感触が有った。朝になり、彼女が目覚めた時には、下半身は鱗の有る魚のものになっていたとのことである。剥がれ落ちていたのは、どうやら鱗だったようである」
大林太良は、この『子不語』の挿話について、わざわざ夫との同衾について言及しているのは「下半身が魚になる前の女性は、二本の脚を開いて男性を迎え入れる性行為が可能であったが、下半身が魚になったことで、脚を開くこと、すなわち性行為が不可能な状態になった」と言っているのだと考える。そして、人魚の肉による生殖能力の喪失も、これと同じ発想なのではないかと言うのである。
個人的には、この大林太良説を初めて読んだ時は「ううん、ホンマかいな?」という半信半疑の感想であった。しかし『神話の話』を読んでから暫く経過した後、大林説を補助するような話を、別の学者の著作で見かけた。が、やはりこの著作も、本棚や倉庫で見つけられずにいた。それがつい最近、その本を古本屋で発見して再入手した。嬉しい。だから舞い上がって、ここで記念にメモを残そうと思い立ったわけである。
件の大林太良の説を補助する記述が載っていたのは、金関丈夫の著作『木馬と石牛』(岩波文庫)である。ちなみに、解説は大林太良その人である!
この『木馬と石牛』に収められた「榻(しぢ)のはしがき」という論文が、人魚による不死性と生殖能力の喪失のイメージの結び付き仮説を補助するような記述を含むものである。この論文は何について書かれたものか、簡単に説明すれば、国文学におけるオナニー文学について論じたものである。これは、悪巫山戯で書いているのでも、嘘を書いているのでもない。本当のことである。初めて読んだ時は「お硬い岩波文庫で、こんな珍論文を読めるとは」と、かなり吃驚したものである。
本題に入ると、金関丈夫によれば、天明六年の自序がある東井春江による『譬喩尽(たとへづくし)』という俚諺(りげん)辞典の「い」の部には「一夢二千三肛四開(いちむにせんさんこうしかい)」という俚諺(ことわざ)が収められている。その意味は「性行為の中で快感が大きいものランキング・ベスト4」である。念のために言うと、男性の立場でのランキングである。4位の「開(かい)」が「女色すなわち男女の営み」を指す。この「榻のはしがき」の一節を初めて読んだ時「なるほど、『開(かい/ひらく)』の語と『男女の性行為』のイメージは、昔の人の頭の中では自然に結び付いていたのだなあ」と納得し、大林太良説も納得して受け入れられるようになったと、そういった次第である。
何?ベスト3の意味が知りたい?いちいち言わなくても、字を見れば薄々察しがつくだろうから細かい説明は書かない。なお、同「榻のはしがき」によれば、戦国時代頃に来日したポルトガル人宣教師たちが、布教活動を行うために編纂した日本初の日本語/ポルトガル語翻訳辞書『日葡辞書』には「Xenzuri」という単語が収録されているとのことである。
とりあえず『神話の話』も『木馬と石牛』も、どちらも非常に面白い本なので、機会があれば図書館などで探して一読することをお勧めする。
また、人魚の話に関しては、椿のモチーフなど海女文化が八百比丘尼伝承などにおける人魚のイメージに影響を与えた可能性の話、人魚の肉はフケツノカイ(キュウケツ[9つの穴]ノカイ)すなわちアワビのことではないかという可能性の話など、色々ほかにも面白そうな話が有るので、興味が有る人は調べてみることをお勧めする。
なんか、すれ違う度に顔をよく見るんだけど大体こんな感じ。
・なんかキマッてる顔
→何かに目覚めてる顔。マスクなんてしないんですけど?と言いたげな堂々とした顔
・人として終わってる顔
・性格きつそうな顔
→なんかやけに日焼けに過敏なファッションしてたり、無駄にカバンにポーチついてる
・だらしなさそうな顔
→息が臭そうな顔
どれも先入観でしかないんだが、なんでそう思うのか考えてみたら
このご時世(コロナ禍もまだ続いてる)のに
マスクをつけない→自分もうつるかもしれないけど、他人にもうつすかもしれないのを気にしない→自分さえ良ければどうでもいい→やべえやつ
こういう結論になった
マスクの感染予防の効果はもういっそ置いといて考えてるんだけど
なんかもはや一種の身だしなみに思えてきて
マスクしている=一応相手にもリスクを負わせませんし、不快な気持ちにさせない人間ですよっていう気がする。
感染予防効果はさておき、そういうポーズを見せるのはとても大切だと思う
こういうとき「うちはうち!よそはよそ!!唯我独尊!!」とか思ってるのがマスクしない人間とも思う
マスクしてないのはパンツも履かないで肉棒やアワビ(しかも黒ずんでて汚そうな)を
恥ずかしげもなく見せながら歩いてるのと同じに見えてきて
自分は回転寿司が好きで、週1かそれくらいの頻度でどこかしらの回転寿司屋へ行く。
特に行く店は決まっていなくて、くら寿司だったりスシローだったりそれ以外だったりする。
先日行った店は久々に行く店だった。
店に入って、回転寿司屋に入ったら必ず頼むセットを注文した。
ひとしきり食べた所で、今日はぶりとサーモンが美味いと確信して追加で注文した。
その日はやたらと空腹だったのでついでにサイドメニューのフライドポテトも注文した。
ぶりとサーモンを食べ尽くし、それからフラフラと注文用のタブレットの「次へ」ボタンを押してメニューの海を彷徨っていた所で、そこにヤツはいた。
内陸県生まれではないのだが、何だかんだ人生で食べた貝はアサリ・ハマグリ・カキ・ホタテ、ややレアなものでマテガイくらい。
美味しい貝なのだろう、と。
ポテトが到着して、バター味の粉をかけて混ぜているとほどなくしてアワビがやってきた。
その時の第一印象は、「小さくね?」だった。
シャリの上にちょん、と乗ったそいつは、シャリを覆うには足らず、シャリの上面が見えてしまっている。
横にしっかりシャリの隠れたマグロが流れてきたために、このボリューム感の差は歴然だった。
生焼けの腐った鶏肉に酢を染ませた味。
鶏の軟骨、あるいは砂肝の銀皮のような、噛むと歯に納豆のような滑りを残して自ら割れるかのように噛み切れる食感。
不味い。
十数回の咀嚼ののち、飲み込むにはまだ形が残っていて喉につまらせる頃合い。
しかし、口の中にあるこれを1秒でも早く胃に流し込んでしまいたいという条件反射に負けて、飲み込んだ。
食道にやや詰まっている感覚がする。
滑りと悪臭を茶で流し込み、それでも残る舌の感覚を消し飛ばす為にまだ温かいポテトを口に放り込む。
普段より圧倒的に早くポテトは空になった。茶も飲み干してしまった。
その後、ぶりとサーモンを食べられるだけ食べて、その場を後にした。
家に帰宅してから、アワビについて検索して、そこで初めて磯臭いだとか、人を選ぶなどという記述を見た。
なるほどあれこそがアワビだったのか、と一人ボヤいた。