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高速道路沿い、高架につく明かりが深夜でも明るいオレンジ色をしている
小さく歌を歌いながら帰る日が多い。頭を空にするための歌なので、なんの歌でも良い。TikTokで聞いたサビしか知らない歌でも、学生時代の合唱コンクールの課題曲でも。車が多いから迷惑にはなっていないと思ってる。
いつも曲がらない角を曲がって帰る日もある。知らない坂の先の景色をみたり、通れるかわからない細い路地を入ってみたり。
自転車で帰った日もある。電動式のシェアサイクルはわたしをぐいぐい引くように走った。
自分の足で走った日もある。通りを走るランナーはたまに見るしそれほど浮かないだろうと思った。自分で自分の体をコントロールして、心拍を上げる行動は何かに良い気がした。
酒を買って歩きながら飲んでみようとした日は、缶を路上に落としてしまい中身が噴出した。甘くないジンソーダで助かったと思いながら拾って帰った。
誰にも迷惑をかけない範囲で行う小さな奇行は、私が私に許す小さい遊びだ。1日の大半を仕事に明け渡してしまった今日をちょっとだけ取り返してから自分を寝かしつける、そういう儀式。最初はちょっと外食をして自分の機嫌を取ったりしていたのだが、夕食をしっかり摂るのも憚られる退勤時間になってからは「帰る」ことに遊びを見つけていた。人目につかない深夜に、小学生の帰り道みたいな、誰にも話さない1人遊びがたくさんあった。
何も出来ない日は大抵泣きながら帰る。あの時の自分のなかに何の感情があったのかわからない。悔しいなのか苦しいなのか、誰かに心配されて嬉しいなのか情けないなのか、
あのとき取りこぼしてしまった自分の気持ちはもう、私がわからないってことはこの先誰にもわからない。
泣いている時に頭の中に入っていたのは、周りの人が私に投げかけた言葉だけで、それを咀嚼して反芻しても、なんの味を感じたのかわからないまま、子どものように口角をひん曲げてボロボロ泣いた。マスクの中に水分が溜まって蒸れて、でも外した顔はひどいから付けたまま歩く。
公園の横を抜けて、ファミレスの駐車場を突っ切って、その先の横断歩道は押しボタン式の時間帯。渡った先のコンビニに寄る。朝昼は胃痛を避けるために軽いものしか摂らないので夜は多少好き勝手に食ってやろうと思いながら入店するが、運が悪いと夜中に腹を下すので結局中途半端な惣菜や軽食を買う。大体いつもボブヘアの男性店員がシフトに入っている。コンビニの横の坂道を上ったらあと少しで家に着く。
徒歩25分。家も職場も駅からあまり近くないせいで、電車に乗ってもせいぜい5分短縮できるか微妙な所だから歩いて通勤した。
机に縋り付いている記憶の方がたくさんあって良いはずなのだが、私は長い間、家に帰る道をずっと歩いているような、ずっと夜みたいな感覚を1番よく思い出す。
日中は、
「食事か睡眠、どちらかを満足に出来なくても片方が人並みならまだ保つ」
「このくらいの度数のロング缶を一度に飲み切ると眠れて二日酔いも残らない」
働き始めてから何年かで身につけたおまじないのような「これが出来ればまだ大丈夫」を幾つかポケットに入れて、指先で手触りを確認するような日々を過ごしていた。
「酒や乳酸菌飲料の力を借りて睡眠は取れているからまだ大丈夫」
「胃が荒れていて平日は差し障るだけで、食欲はあるからまだ大丈夫」
「朝は起きて支度できるからまだ」
部屋は荒れているが、不精なので繁忙期はそんなものだ。青クマもデスクワーカーの職業病。
「まだ大丈夫」を肯定的に捉えてサバイブしていたつもりだった。
いつのまに切り替わったかわからないが、これらの一つ一つが「まだ私が壊れてくれないから、大丈夫じゃなくなるのを待つしかない」のカウントになっていた。
勤務中、気を抜くと頭を上げていられなくなった。
ひとの目を見るのは元々苦手ではあるけど、顔を見せるすら苦しくなった。
対面で働くチームメンバーには両手で伏せて早口で指示を出す。通話会議は声を出せれば成立する、まだ大丈夫。
大丈夫な自分を演じているのか、大丈夫ではない自分を演出して逃げ出そうとしているのか、どっちにしろ何かのフリをできているうちは大丈夫なのか、大丈夫ってなんだ?
わたしは席に座れる、手を動かせる、web会議で通話が出来る、謝罪を述べることができる。出来るけど、帰りたいと申し出てある日早退した。これはダメなことだってわかっているからまだきっと大丈夫。平日の明るいうちに外出するのが久々でなんだかスカスカした気持ちになりながら、せめて身体を労わるポーズをとらないと均衡が取れないから大戸屋で品目の多い定食を食べた。ポテトサラダが重くていつまでも口に残った。
わたしにも少ないが友人はいる ありがたいことに定期的に会う用事がある
他愛ない近況の報告をしようとしたら、言葉が出ない日があって、そのとき友人は精一杯わたしを傷つけないように、「頑張る私」を否定しないように選んだ言葉で、心配に思っている、あなたを害するものをあなたは拒否する権利があるとだけ 言葉を投げてくれた
書いて消して何度か回り道しただろう、書かれなかった文にたくさんの気持ちが詰まっていた それに対して言い訳のような自虐で返事をした 最悪だ
病院探しを始めた。
躊躇いは特になかった。「自分に限って」なんていうバイアスは思い上がりだ。弱さを認められる方がまともだと思う、そういうペラペラのプライドを持っていた。「まだ大丈夫」のうちに、近い将来ダメになった時の避難経路を決める、それは賢い判断だと思った。
まあまあ都心に住んでいたので選択肢はいくつかあると知っていたし、思ったよりいっぱいあった。逃げ場ってコンビニほどはないけど歯医者くらいはある。場所を見つけて、予約を取ったあと、メモを書くことにした。
うまく話せるように、話せなくてもとにかく伝わるように。カンペなのか手紙なのか問診票の別紙なのか、わからないけど言葉を起こす必要があった。
相手に自分を「大丈夫」に見せたいのか、「大丈夫ではない」と言わせたいのか、なんだか意図がブレブレのメモ書きになった
紙に書き写す以上はありのままなんてどこにもない、本当のことを書いたのかどうか主観で見てもあやふやな文面。とにかく話せなくなればそれを読むか手渡すかしようと思って、印刷したものを携えて心療内科に行った。初診の予約は平日の昼しか取れないルールで、14時過ぎに中抜けして向かった。
名のついた診断が出た。
有給休暇の残数を尋ねられたり、直近で休養の取れるタイミングなどの話を流れるようにし始めた医師に、そんなつもりではない。 まだ大丈夫だから、もう少しマシになるための方法をくれと訴えたら、それはまっすぐに否定をされた。でも自分に「休め」を許せなかった結果、中途半端な診断書を持ち帰った。
朝、眠りから浮上する感覚を覚えると同時に心臓が跳ねるようになっていた。生きている、意識があるということに気づくと心が怯えるのはまあ自然なことかもしれないとその時は思っていたし、動悸そのものは業務に差し障りないから「大丈夫」「ダメ」の判断基準にならなかった。寝覚めは悪いが寝起きは良いので、遅刻もしなかった。
なんの名前を付けたら良いのかもわからないけど、しっかりと質量のある「ダメ」の感触が胸の中に入っている日がある時やって来た。
もっと、動けないとかずっと泣くとか何かが出来なくなったことを以て「ダメ」に『なる』なのだと思っていたけど、そうではなかった。何がどうダメなのかなんてわからないのだけど、相対的な話ではない、とにかく「ダメ」が去来する朝が来た。突発の休暇をとった。休んだ罪悪感を原動力にその週は出勤する、というサイクルをいくらか続けた。
この頃に、「ダメ」になる階段を一歩降りたような気がしていたが、同時に睡眠も食欲も自分の思う「大丈夫」の基準のままだったのだから、二元論で考えることが間違っていたと思う。
この「ダメ」は、「不安」の名前に片付けるものらしい。抗不安薬の頓服の処方を受けた。「頓服」だから、常用してないからまだ大丈夫。大丈夫の数をまだ数えていた。
そんなわけないのにいつもの道が歪んで見える日
物音が大きく聞こえる日
そんなものをちょっとずつずれながら積み上げてきて、綺麗に縛れない新聞の束のような、歪みが溜まっていくような感じがあった
退職願を書いた。
できるだけ綺麗な文字でしかるべき封書に綴じた正しいフォーマットで、すぐに出せる完璧な一筆を仕上げようと思った。
遺書ではないけど、でも心持ちは少し近いかもしれない。白くて郵便番号欄のない封筒が望ましいとネットに書いてあったがコンビニにも百均にもなかった。緊急で必要になる人もいるだろうに。
下書きをして、それを見ながら丁寧に文字を書いた。書いている間は無心になれた。書いただけで、結局出せはしなかった。
退職願も、診断書も、私にとっての「勝訴」の紙にならなかった。結局私は、自分にバツを付けて逃げるのが怖いまましばらく日々を過ごした。
同僚が出勤してくる
涙が止まらない
10時半過ぎ、何も変わらない
ここにいたらもう駄目なんだ、そういう日がついに来たのだと言われた気がした
そのあとは、とにかく手続きを滞りなく進めなければと、社会人として角の立たないように休職の手配をするために自分の感情はどこか棚の上にでも置いたような感覚で、再診の予約をとり会社と連絡を取り、自分を社会と切り離すことに成功した
今、会社に向かう朝も遊びながら帰る夜も無くした私は、子供の頃からの地続きの自分をあの夜の帰路に置いてきてしまって、残りかすの体だけがここにあるような気持ちで布団に横たわっている。じゃああの夜に私は何を思っていたのか、書き出してみようと思いメモ帳に書きつけるが、結局そこにも何もなかったとわかってしまった。今の私の回想だからそうなのか、本当に何も思うことはなかったのか、もうわからない。
あ…ありのまま今起こった事を話すのだけど、タイトル通りのことが起こった。というか今起こっていたことに気がついた。10年前って今では一周回って聖人扱いされてるヒカキンが音の出るゴミとして毎日殺害予告されていて、この前逮捕されたマホトが軍団でセミ食ってて、マックスむらいのところの社員がパズドラの経験値でチート使ってたりモンストの運営がオーブ一個でガチャ回すチート使ってたり、まだ歌い手が生きてて女子高生食ってて、誰もインターネットに本名晒すなんて馬鹿げたことしていなかったし出会い厨は馬鹿にされてたしそれに(ryって使ってた。
このごろはだんだん自分も子供の心を失っていって、歳だけは過ぎていくのに特に面白いこともないまんま時間の流れもわからず、まだ今年が2022年くらいだと思っているような生活を送っている。インターネットの流れも早くなって典型的老害みたいに昔を懐古することしかできなくなっていて、そんな時に昔を懐かしんで見ていたのが「たまねぎおとこ」というパズドラ実況をしていたゲーム実況者の数少ない残存する動画だった。いずれは初期ギリシア哲学みたいに私がたまねぎおとこの断片をまとめる必要があるのかと少し思わなくもなかったけど、今日久々に見てみようとYouTubeで調べたら、いた。恐る恐る動画を開いたら当時とそのまんま、特徴的なズシンと響く重低音が変わっていなかった。知らない人は後で聞いてみて欲しいけど、昔はよく逃走中のナレーションのモノマネとかしていた。
「はーいおとこですー」「昔のポケモンなんでね」「破壊していきましょう」「レベル109876と続いていて」「こんなかんじ〜」「おだのぶなり〜」「ボックスパンパンお前ら邪魔」「ハーデスの母でし」「完璧の完に完璧の璧と書いて」等々巧みな話術と印象的な語録。それに偶のゴッドフェスで見せてくれる画力とドラえもんとのび太の小劇場。あなたはまさしく私の青春でした。
コンサータ飲むと自己コントロール力が上がって感情がそのまま表出するのを抑制出来るようになるので関係はあると思われる。しかし、増田が好きだった彼女にそのまま戻るわけではないのはその通りだ。なぜならコンサータを飲んで得た経験によって成長しているからだ。言うなれば増田の抱いている感情は、「子どものあどけなさが好きだったので、成長して無邪気な顔を見れなくなるのは寂しい」って言っているようなものだ。子供を甘やかしたり自立を妨害してスポイルする親感を感じしちゃうちゃうんだろうな。でもな残念なことに障害は甘えじゃねーんだわ。そしてコンサータは心身に負担あって耐性がついていくから飲み続けるのは正解とは限らない、まあこの辺は繰り返しになるから止めるけど、俺が声を大にして言いたいのは増田が障害を受容する事というメッセージ自体が彼女を勇気づけて救ってくれるだろうことだ。障害があってはならぬ克服しなくてはならないものから、ただ不便だから状況に応じてコントロールすべきものになる。それが俺が言ってる本当の自己決定権だ。(大前提として投薬するかとか仕事を続けるかを決めるのは彼女自身だという事は、念のために確認しておくぞ。)
だから実際に休薬日をやってみて増田の思ってたのと違ったとか、やっぱりコンサータ飲むことにしたとかでも構わんのだ。休薬日をやらなくなったとしても、もし肝臓の数値がやばかったり、ゆっくり体を休めたいときは休んでいいという選択肢がある方で心が楽になるはずだ。
人間、ありのままの自分愛してもらおうというのは贅沢な願望と言われるもしれない。だが増田がそうしたいというのなら素晴らしいことじゃないか。なぜ止める必要があろうか。
増田から愛されるのはコンサータをのんで頑張っているからじゃない、ただありのままのも好きなんだと伝える事がなぜ悪いのだろうか。俺は素敵なことだと思うよ
俺もコンサータ飲んでる。
俺はそう思ってくれたらとしたら幸せだと感じると思うよ。障害を受容してもらってるんだからな。
ただコンサータやめてほしいというのは違和感ある。心配せんでもコンサータは飲んだ日しか効かない薬だから、いらないときは飲まなきゃいいだけだ。
だから仕事を頑張らなくていい休日は飲まなくていいって言ってみたらどうだ。休薬日というやつだ。
コンサータは心身が疲れるし、耐性もつくから、休薬日をつくるのはいいことだ。ただコンサータを飲まなくて大きな失敗したら本人もこまる。だからコンサータを飲まなくても大丈夫な安全な環境をつくれ。お前も介助者としてサポートするんだ。そうすれば彼女は休日をありのままの自分でリラックスして過ごす事ができるだろう。
お前のことを自己決定権を侵害してるなんて言うやつもいるがおれはそうは思わない。俺達がコンサータを飲まざるを得ない社会に生きているのに何が自己決定権だ。お前は飲まなくてもいい環境を用意してくれると言うなら用意しろ。その上で彼女自身に今日は飲む日か飲まない日か決めてもらえ。それが本当の自己決定権だ。
いろいろ言うやつがいるが、彼女がお前にコンサータを飲まなくていいと思ってもらえる事は、俺は幸せなことだと俺は思う。障害への理解者は貴重だ。一番必要な存在といっていいかもしれない。お前が安全地帯を用意できるならぜひそうしろ。それを口に出すことは悪い事じゃない。ただし仕事を諦めろってのはお前のエゴだから本人に決めさせろ。お前は安全地帯を作って休みたいときに休める選択肢を用意するだけでいい。安全地帯があることは仕事を続けるとしてもプラスに働くはずだ。悪いことではない。お前は彼女の可能性を潰すんじゃい。むしろ広げてやれる
まあ薬のことだから医者を挟んで話し合ってもいいな。医者を巻き込んでコンサータとの付き合い方を教えてもらえ。コンサータはあくまで道具だ。使い方学べ。コンサータという選択肢があることは彼女にとってもお前にとっても悪いことはない。だから捨てる必要はない。必要なときに使えばいい。だがお前といるときは必要でないというならそれは幸せなことだと改めて伝えておく。
俺もコンサータ飲んでる。
俺はそう思ってくれたらとしたら幸せだと感じると思うよ。障害を受容してもらってるんだからな。
ただコンサータやめてほしいというのは違和感ある。心配せんでもコンサータは飲んだ日しか効かない薬だから、いらないときは飲まなきゃいいだけだ。
だから仕事を頑張らなくていい休日は飲まなくていいって言ってみたらどうだ。休薬日というやつだ。
コンサータは心身が疲れるし、耐性もつくから、休薬日をつくるのはいいことだ。ただコンサータを飲まなくて大きな失敗したら本人もこまる。だからコンサータを飲まなくても大丈夫な安全な環境をつくれ。お前も介助者としてサポートするんだ。そうすれば彼女は休日をありのままの自分でリラックスして過ごす事ができるだろう。
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いろいろ言うやつがいるが、彼女がお前にコンサータを飲まなくていいと思ってもらえる事は、俺は幸せなことだと俺は思う。障害への理解者は貴重だ。一番必要な存在といっていいかもしれない。お前が安全地帯を用意できるならぜひそうしろ。それを口に出すことは悪い事じゃない。ただし仕事を諦めろってのはお前のエゴだから本人に決めさせろ。お前は安全地帯を作って休みたいときに休める選択肢を用意するだけでいい。安全地帯があることは仕事を続けるとしてもプラスに働くはずだ。悪いことではない。お前は彼女の可能性を潰すんじゃい。むしろ広げてやれる
まあ薬のことだから医者を挟んで話し合ってもいいな。医者を巻き込んでコンサータとの付き合い方を教えてもらえ。コンサータはあくまで道具だ。使い方学べ。コンサータという選択肢があることは彼女にとってもお前にとっても悪いことはない。だから捨てる必要はない。必要なときに使えばいい。だがお前といるときは必要でないというならそれは幸せなことだと改めて伝えておく。
俺もコンサータ飲んでる。
俺はそう思ってくれたらとしたら幸せだと感じると思うよ。障害を受容してもらってるんだからな。
ただコンサータやめてほしいというのは違和感ある。心配せんでもコンサータは飲んだ日しか効かない薬だから、いらないときは飲まなきゃいいだけだ。
だから仕事を頑張らなくていい休日は飲まなくていいって言ってみたらどうだ。休薬日というやつだ。
コンサータは心身が疲れるし、耐性もつくから、休薬日をつくるのはいいことだ。ただコンサータを飲まなくて大きな失敗したら本人もこまる。だからコンサータを飲まなくても大丈夫な安全な環境をつくれ。お前も介助者としてサポートするんだ。そうすれば彼女は休日をありのままの自分でリラックスして過ごす事ができるだろう。
お前のことを自己決定権を侵害してるなんて言うやつもいるがおれはそうは思わない。俺達がコンサータを飲まざるを得ない社会に生きているのに何が自己決定権だ。お前は飲まなくてもいい環境を用意してくれると言うなら用意しろ。その上で彼女自身に今日は飲む日か飲まない日か決めてもらえ。それが本当の自己決定権だ。
いろいろ言うやつがいるが、彼女がお前にコンサータを飲まなくていいと思ってもらえる事は、俺は幸せなことだと俺は思う。障害への理解者は貴重だ。一番必要な存在といっていいかもしれない。お前が安全地帯を用意できるならぜひそうしろ。それを口に出すことは悪い事じゃない。ただし仕事を諦めろってのはお前のエゴだから本人に決めさせろ。お前は安全地帯を作って休みたいときに休める選択肢を用意するだけでいい。安全地帯があることは仕事を続けるとしてもプラスに働くはずだ。悪いことではない。お前は彼女の可能性を潰すんじゃい。むしろ広げてやれる
まあ薬のことだから医者を挟んで話し合ってもいいな。医者を巻き込んでコンサータとの付き合い方を教えてもらえ。コンサータはあくまで道具だ。コンサータのんだからって人が変わるわけではないぎゃくにやめたからって使い方を学べ。
何言ってもありのままの自分ってやっぱり受け入れて貰えないんやなって。今までずっと言わないように我慢してた自分でも醜いと思うし自分でも気持ちが悪いと思う側面を覗かせた瞬間、私が悪くなるんですね。そうだね。そもそもその話を愚痴みたいにしたのは私が悪いもんね。ごめんね。そんなに問い詰めるように聞かれるの、忘れてたんだよね。それもまた事前にわかってたつもりになってた、回避しようと舵を切らなかった私が悪いよね。
私何も自分に自信ないんだよね。いつも怒られてばっかりで、責められてばっかりで、誰に対しても都合のいいサンドバッグになるのが1番お似合いないつ死んでも誰も悲しまないちっぽけなポジションの人間なんだよね。そうだよね。見せてなかったもんね。私が普通に嫉妬するとこ。人以上に人に執着して妬んでるとこ。実は心のどこかで人を見下した態度をとってたとこ。
そりゃ今までの私に戻って欲しいから強い言葉を使って、ストレートな言葉を使ってでも私をいつも見てた私に戻したいからインターネット休んだ方がいい、疲れてるって言うんだよね。でもごめんね、この側面ってどんだけ休んでもどんだけ寝ても直んないんだよね。何年人に嫉妬や妬みを持ってきてそれらを醜いものとしてふたしてきたと思ってんの?
私に持ってないもの持ってる人間は全て憎いし私よりワガママに生きてる人間も憎たらしくて仕方ないんだわ。頭の中ならどんなこと考えても怒られないからどれだけ酷いことを考えてきたことか。なんにも知らないくせに、やっぱり誰も信用出来ないや。こんな話にならなければこの側面も出さないで好きな話だけで盛り上がれるのにね。それもまた私のせいだよね。ごめんね。もう何も言わない方がいいよね笑
黙るね
→ 増えたか減った
→ 考えが頭に浮かんでしまう?
→ 楽しめない? 重要なネームが書けていない状況ではそりゃエンタメは楽しめなくなるのでは?
散歩や外出はできる。
月一通院だったが、再発したので薬の調節のために2週に一回の通院になった……という補足があれば理解できるのだが。
この人にとって漫画を描くというのはどういう意味を持つんだろう。
社会との繋がり? 食い扶持? 自己肯定感を高めるためのもの?
赤の他人からすると、もう描かなきゃいいのにとか、あの内容を載せるくらいなら最終回の掲載を伸ばしてもらうほうが良かったんじゃないかとか、寛解してから単行本で最終回だけ差し替えるつもりなのかなとか考えてしまうけど。
肖像権を侵害する行為となるのは、写真撮影、ビデオ撮影等個人の容貌ないし姿態をありのまま記録する行為及びこれらの方法で記録された情報を公表する行為であると解すべきである。絵画は、写真及びビデオ録画のように被写体を機械的に記録するものとは異なり、作者の主観的、技術的作用が介在するものであるから、肖像画のように写真と同程度に対象者の容貌ないし姿態を写実的に正確に描写する場合は格別として、作者の技術により主観的に特徴を捉えて描く似顔絵については、少なくとも本件のように似顔絵自体により特定の人物を指すと容易に判別できるときに当たらないときは、似顔絵によってその人物の容貌ないし姿態の情報を取得させ、公表したとは言い難く、別途名誉権、プライバシー権等他の人格的利益の侵害による不法行為が成立することはあり得るとしても、肖像権侵害には当たらないと解すべきである。
雨模様よ。
昨日使った折り畳み傘を濡れたままだとと思って干していたけれど、
これが傘の役目と知っておきながら、
なるだけ傘は使いたくないから私は手ぶらで楽チンなスタイルが好みなので、
長い傘をできるだけ持つ日以外は持たないようにしているのよ。
天気予報と雨雲レーダーとにらめっこしまくりまくりまくりすてぃーで、
えいや!今日は傘持って行く!って気合いとか入れたくないそこにエネルギーを使いたくないのよね。
なので、
何も考えずに鞄の中にしまっておける折り畳み傘は
雨が降ろうと降らまいとプラスマイナスで余計なこと考えなくて良いから気持ちが楽よ。
晴れ空みたいに!
でも今日は雨が降ってるけどね!
それの欠点は使ったら塗れたままの傘をまた畳んで鞄の中に入れられないよ絶対に!って槇原敬之さんの歌詞回しの節で言いたいぐらいそんなこと言わないよ絶対になんだけど、
なので、
しっかり傘は明日雨が降ろうが降らまいが考える余地もなく干すの。
折り畳み傘は乾かしてからカバンに入れることをお忘れなく!が私のテーマ。
そして雨の日は靴もちょっと違うので、
いつもとヒールの高さが違っていたりするので、
これで車なんか乗ると
あ!今日この靴だったんだ!って気付いて若干の運転のし易さし難さってのがあるけど、
あとさー
雨のことで思い出したんだけど、
そしたら浄水器の裏っかわ、
浄水と源水が出てくるそれぞれのシャワーの部分がドロドロでこれ定期的に洗わなくっちゃー!って思ってドン引きしてしまったわ。
終わったら窓から投げ捨てたらいいんだけど、
本体の方の源水が出る方はなかなか浄水器の本体を交換するべく機会というかチャンスというか
チャンスは前髪で掴めって言うけど、
チャンスも前髪もなく
ペシンと手のひらでおでこを叩いてあちゃー!ってジェスチャーともいうポーズを取ったの。
あれってやっぱり
浄水器の本体も定期的に何年か一度に買い替える方がいいのかしら?って思うけど、
1回取り外して洗ってみるわ。
雨の日と言えども油断はできないわっ!
たまに浄水器の裏っかわを覗いて見てみることをオススメするわ。
傘をさして風に吹かれて飛びそうになったら
そのぐらい子どもの時に気付かなかったこと大人になって気付くことがたくさんある、
そうよ、
この浄水器の裏側の謎を知ったように、
でも大丈夫!
そう言う時には
見なかったことにして蓋をしちゃえばいいのよ!
その水を使うんかーい!ってずっと心の奥底に澱んだ文字通り澱んだ水のように思ってしまうのよ。
だから
浄水器を取り外して洗うことは
たまには浄水器のことも考える気持ちも昨日より今日今日より明日!っていう具合に強めた方がいいと思ったわ。
プラシーボ効果かも知れないけれど、
面倒くさいから浄水器のモードを切り替えずにどーでもいーわ!って思って源水のままありのままの水で飲んだとき、
なんとなく比べたら浄水した方のお水の方が美味しいと思える気持ちを私が失っていなかったから、
逆に言うと、
水で心がみずみずしいって気持ちを持ち合わせている証にもなるかも知れないし
とにかく凄い自信なの!
そのぐらい今日はえいや!って浄水器を取り外して洗ってみることにチャレンジする私の新しいステージに突入よ!
うふふ。
お腹がぐーっと空いていい音が鳴ったので、
美味しく朝ご飯を食べられるからボリュームのあるものにと思ってチキンサンドにしたのよ。
美味しい!
朝もこれでご機嫌さんよ。
珍しく前に書いたっけ?
黒大豆茶ってのを大豆なのにお茶って言ってるぐらいだからどんなものかと試してみたけど、
うーん、
香ばし大豆の炒った風味の香ばしさ
ってところかしら。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!