はてなキーワード: 摂食とは
今日は何を見ても楽しくない日です。
ホッテントリ一覧を見ても何もかもくだらないと感じるしつまらない。
Twitter見てても自己主張の強い人ばかりが視界に入ってきてイライラする。
ごはん食べても美味しくない。
つい数日前までは目に入る全てのものが面白くて興味深いものに感じられたのに。
耳に入る音楽も、今日みたいに耳障りなものではなく、キラキラして心が躍るものだったのに。
今日はそういう日なんだろう。無駄な抵抗はやめて大人しく時が過ぎるのを待とう。
ここ一週間お腹を壊してまた痩せた。
38kg台にまではなってないと思う。
体力つけたいから42kgまでは許容したいけど、たくさん食べるとお腹を壊す。
服によって痩せすぎに見えたりもするし、ただの痩せ気味な人に見えたりもするみたいだ。
人生最高のモテ期だったころは54〜56kgだったころだけど、あんな豚みたいな体型でモテても嬉しくない。
今はウエスト56cmのデニムでもゆるい。体が軽くて動きやすい。顎の下に肉がついてない。
アバラがくっきり浮き出てるから首まわりのあいた服は着れないが、46kgあったときもアバラは浮き出てたからもともとおかしな体型なんだろう。
何もかもどうでもいいと感じながらも、太りたくないということと、体重のことと、カロリーのことだけは常に頭から離れない。
過食排出型の人は私よりずっと苦しそうだ。
まったく食べないでいられる期間は意外と短い。無理に摂食制限をすればするほど、あとで反動がやってくる。人間の本能はけっこうすさまじい。
ジプレキサで太って悩んでいることは主治医の先生に伝えてある?
エビリファイなど、太りにくい(とされる)抗精神病薬に代替可能であれば、変えてもらうのもいいかもしれないね。
今は治療優先で薬は変えられないといった場合は、ゆるーい食事制限と運動から始めてみて、まずは体重増加を食い止めるところからスタートしてみるのはどうだろう?
食事でも運動でも、極端なことをしてしまうと肝心の精神状態にもよろしくないと思われるので、焦る気持ちはぐっとこらえて、主治医の先生と相談しながら少しずつ改善していくのがいいかと思う。
自分は太宰かぶれではないのだけど、どうしてもそう考えてしまう。
自殺未遂歴なし、ODもしたことなし、リスカアムカなどの自傷歴なし、タバコ酒ギャンブルもやらない、性的逸脱行為なども一切ないので、ボダではないと思う。
ボダではないと思うのだけど、どうしても希死念慮(自殺念慮)が消えない。
16〜22歳ころにかけて摂食障害(神経性やせ症/摂食制限型)を患っていて、一時期BMI12台にまで落ちたことがあるので、脳の発達に異常をきたしてしまったんだろうか。
ただ、27歳のときに難病を発症して検査入院をしたときに受けた脳MRIでは特に異常は見られなかったらしい。
脳の異常で希死念慮が消えないのではなく、一生通院と服薬が必要な持病があることや、自分の社会的状況がそう思わせるんだろうか。
口に食べ物を入れるのが面倒くさい。面倒くさいのに食べないとお腹は減るし指先は冷たくなるしで本当にほとほと面倒くさい。何もしなくても腹は減るし楽して物を食べるには余計にお金が要るし食事をするとゴミが出るのでゴミ捨てに行かなければならないのが心の底から面倒くさい。白米だけかきこんで食べると幾分ラクだけど胃もたれるしサカムケが悪化するし顔に吹き出物も出るし唇はガサガサになるし風邪をひくときた。どろっとした粘性の液体の完全栄養食品(摂食を司る中枢に作用して擬似的に満腹感を感じさせる作用がある)が欲しい。一食200円くらいで欲しい。面倒くさい。ああくそ面倒くさい。お腹がすいて力が出ない。
私は摂食障害。
はたからみると摂食障害なのかどうかはわからない(摂食障害→拒食症、という認識はまだまだ多いように感じる)
食べては吐いて、吐いては寝て、起きては食べて、食べては寝てを繰り返したらこうなった。
ついこの間まで着ていた服が着れない。
ついこの間まできれいだった部屋が汚い。
ついこの間まですんなりできたことができない。
便器には流されずに固まってしまった吐瀉物がこびりついている。
部屋の中にはコンビニやスーパーの袋、菓子パンや惣菜のパックやジュースの空きパックが無造作に転がっている
床は食べカスでベトベト、ザラザラとしている。
ついこの間、病気と向き合うことに決めた。
しかし、どこからどうみても奇人の行動としか思えない病気でもある。
自分がかわいい私はこの病気をカミングアウトすることができない。
あああどうしたものか。
過食が止まらず通院を休んでしまったりとうまくいかない日々が続いている。
どうしようもなく、叫ぶ場所もなく(ツイッターでは過食嘔吐アカウントを作ってつぶやいている)
自己顕示欲が強い私はここにこのように綴らせてもらった
平気で1日1万円の食料出費を数日間続けてしまうこの病気は非常に恐ろしい。
もうすぐ25歳になるというのになんて悲惨な状況だろうか。
バケモノに取り憑かれてるような、この病気。さっさと治したい。
以上
残念ながら人間という喩えのそれは現象でありモーターのそれは機構だ。
人間という機構で喩えれば食べ物を取得する代わりに排泄物を廃棄する。排泄物を取得しようとすれば食べ物を廃棄するという機能構造になる。
モーターという現象を逆転させれば運動エネルギーを電気に変えるのを逆転させれば電気で運動をするが
運動させて電気エネルギーを発生させその電気エネルギーを使って運動させる、という事もその現象に含まれる。
モーターという現象での可逆性でいうならば、人間の場合排泄物に含まれる摂食可能な要素を抽出して人間に与えその人間によって食物を作成させる労働をさせることができるということになる。
モーターが生み出した電力を、モーターに供給するのはモーターの機構ではなくモーターを動作させるために構築された現象という事例になるからだ。
モーターを動かす電力はモーターのために供給された電力でありそれがあればモーターは動くが、モーターが動いた動力はモーターが動いたという事実だけのためであり捻出したモーター自体に再利用が可能な結果物ではない。
またモーターに与えられた動力は電気を生むがその電力はそのモーターを動かすための電力ではない。
お金といえばお金でありどこでもだれでも使えるように思えるが、あなたのお金はわたしのものではない。わたしのお金もあなたのものではない。表現が同じだからそれ自体が可逆性を含んでいるように錯覚するだけ。
それ自体を自身への動力に変えても永久機関は製造できない。成果物のなかから自身の摂取可能・利用可能なものを抽出すると消費量より下回るからだ。
転じて、他人に親切にすると親切が帰ってくる、他人にとっては排泄廃棄したい事象を変わって担当する(親切)と、自分にとって摂取したい事象(親切)を得る事が可能ということを知れれば良いが
他人がゴミと思っている物を共通意識としてゴミだと共感している人が、そのゴミを利用して自分たちへの有益なものへ変化させよう、またはゴミ要素から再生可能な抽出分を探そうというのであれば、あまりに不毛であろう。
私の乳歯は虫歯だらけだった。摂食障害の一つなのかもしれないが、食べ物を口に入れたら噛まない、含んだまま吸う、というのを長時間していたためだ。親には何度も注意されたが、噛んでいる、と反論した。なぜ、ちゃんと噛んでるのに怒るのだろうと思った。しかし現実、噛んでいなかった。それはいつか、小学生になったあたりのころ、「あ、最近私噛んでるな」と思った瞬間があったからだ。それまでは、本当に気付いていなかった。無自覚だった。
それまでは、ガリガリに痩せていた。一口だけ含んで飲み込まないのだから、当然ではある。親は、私に直させようとする手段として、痩せている私がどんなに醜いかを言って聞かせてきた。尻が婆さんのようにシワシワだとか、骸骨みたいだとか、栄養失調で死ぬとか。
小学生で治った私は、摂食が正常になり、当たり前だが太り始めた。昨日の増田にも書いたが、今度は太る私を醜いとか肥満で死ぬとか親は言って聞かせてきた。どちらにせよ怒るのである。
治ったきっかけは分からないが、その時期夏休みが始まるタイミングで、父の転勤に伴って、遠くへ引っ越した。それまで、運動神経が良く、外で友達と元気に遊ぶ私だったが、友達がいないので家で夏休みを過ごした。新学期には小太りで、消極的で周りに馴染めない性格になっていた。
人類の歴史はアートの歴史である。われわれは、身体性を表現するためにさまざまな器材を使用するが、その一分野としてピス・ペインティングなどの排泄物を使う手法が注目されている[1]。しかし、排泄物の色彩的バリエーションが非常に限定的であるために表現の幅が限られるという問題が指摘されている[2]。一方、うんこは、通常、胆汁の色である黄土色であるが、赤ワインを飲むと緑色、牛乳をを飲むと白っぽいうんこが出ることが過去の経験から明らかにされている。そこで本研究では、適切な摂食活動によってこれら三色が層状に重なったうんこ三色旗の排泄を試みた。
【実験】午後六時にに農協牛乳(賞味期限14.11.12)をコップ一杯とり、30分経過後カップ焼きそばとポテトサラダの夕食をとった。午後七時より1時間かけて赤ワイン(ランブルスコ・ドルチェ)1本720mlをつまみなしで摂取した。翌日午前中に排泄された便を視認により確認した。
【結果】排泄された便は均一な暗緑色で、液体状であり、白色部分および黄土色部分は見当たらなかった。
【考察】消化器管内部の便の流れを押し出し流れと仮定すると、摂食した順番に白→黄土色→緑色の便が排出されるはずであるがそうならなかった。このことは、もっとも直径が大きい部分である胃臓において各色成分の混合が起こったためと考えられる。また、固形便を排泄することができなかったのも問題である。これは、牛乳の賞味期限が切れていたこと、および、ワインの量が多すぎたため下痢を起こしてしまったのが理由と考えられる。第二報では、各色成分の摂食間隔を十分開け、また牛乳および赤ワインの摂取量を調節することで、これらの問題点を抑制することを検討する。
その人の一部を削り取って食卓に上っているのだったらその人にむかって「ありがとう」と言うのでいいと思いますよ。でも実際食べるのはだれかが収穫してきた別の命なわけでしょ?
ありがとう言う気があるのは充分いいことなので言うなら食卓に上がるまでに関わった全員訪問してから食べないとね。
「頂に登ります。」というヒエラルキー下位のものを自分の足元に得て
吸収し土台と成して上に立ちますという宣言で
自分の一部とすることで死や犠牲も自分の一部と扱い無駄にはしないという宣言です。
食べるために殺し奪いはするけれども、それは自分自身であり自分自身の為でもあるという自然と一体になる、また自然の一部で一体であることを意味していて
摂食される動物や植物が死んでその役割を果たす意味を唱えるとともに自分に委託された共生環境における相互利益と全体の豊穣を祈るものです。
現代風に言うと、
今日もご飯が食べられるのは日本国政府が貨幣管理し外交を行い法整備によって食料の安全と供給を一律のものに安定させその政策化でさまざまな産業が食料供給を行いその供給された食料を取得することができる努力をされた方々が自分のために調理してくださり今まさに食べる事ができます。今より関係者と食材の名前を順不同で申し上げます。Aさん、Bさん、・・・。
というのをまとめて「いただきます」と宣言して、では何の頂にあるのか、魚、野菜、それらの産地、農家、その自治体、法整備、知事、政府、自然、それらによって供給をされている一部を金銭などによって獲得したその小さな積み重ねの頂に登りますよ、という儀式なのです。
金銭は労働力という自分の一部を支払いその交換として得た食事であり食事は自分の労働であり労働は自分自身であるという循環する自然への信仰です。
あなたがいただきますをしたその食事は、供給の流れ全てと自分自身へのありがとうが同梱されています。
いただきますをした食事は、全部きれいに食べないと「自分の交換条件に適さない交換をすることになる」という独特の風土も持ち合わせます。
汚く食べる事が礼儀とか、一部を残して祈りとするという文化とは異なるところでもありますね。
でも、テーブルの上のあなたのそのシチューに作ってくれた彼女さんの血や髪の毛が入っているのだったら、顔みながらありがとうでいいと思いますよ。
あと関係ない話を付け足してしまいますが、おあがりなさい、召し上がれ、というのはまさにその上段に上りなさいという進言を返答としたものです。
また食べ終わった後の「馳走になった」はその四方八方の命を得たということで「それらの地と繋がりました(いろんな意味でいろんなものが駆け巡りました)」食べました、得ましたということです。
いまの訳では取得関係者への労いであるようですが、それであればまず最初に掛けるべき言葉なので、招かれる段階で「馳走になる」というのも習慣による変化ではないかと思います。
仏教が起源という話もあるようですが文化吸収は柔軟に広がりを持つ教義によくある形で、外国語に「いただきます」が無いところから宗教の関連性についてはお察しください。
ただ、今ある「お粗末様」の由縁はわかりません。