「やりたいことが見つかっている」という表現は、「『本当に』やりたいことが実はなく、自分が楽しいと思える事を『これは自分がやりたい事なんだ』と自分を騙し欺し生きている」人から出てくる表現
『本当にやりたい事』そんなに生やさしい物では無い
本当にやりたい事は自分で見つける物では無いんだよ
いつの間にか自分に寄り添っていて、あるいは唐突にそれにぶつかり、それを自覚したら最後、例えたまに死ぬほど嫌気がさしてもそれをやらずにはいられないんだよ
129手目、黒 12M。この一手。
https://youtu.be/fbFruBDt0us?t=3m24s
この時点では、解説のプロ2人に「筋が悪い」と言われたソフトの手が
https://youtu.be/fbFruBDt0us?t=37m39s
まさにこの局の勝着(勝利手)であったという
ソフトにもまだ穴はあるが、すでに人は超えたと言ってよいだろう。
それ以上に、AlphaGoとは全く別に開発されたソフトがプロに勝つ。再現性がある、と言う衝撃。
そしてそれ以上に、日本のソフトもGoogleに勝てるのかもしれないということ。
この国はまだやれる
まずは、一緒にやるところから始めたらどうだろうか。
理不尽な大人はどこにでも必ずいるものなのは確かにそうですが昔よりだいぶ減ったと思いませんかそしてこれからもっと減っていくような気がしませんか?何事も経験だって思うかもしれませんが経験しない方がいいことってあると思いますよ
前職がメーカー(のSIやってる部門)で今はネットの会社で働いてる。
たまに前の部署の人たちと飲みに誘われることがあり、先週飲み会に参加してきた。
そこで改めて気づいたけど、メーカーの人って愚痴がめっちゃ多い。
あれができない、これができない、誰がやってくれない、これだから会社はだめだ、って話ばかりしてる。
今の会社はネット系の会社だけど、愚痴ってほとんど聞いたことがない。
違いがなにかなと考えてみたら、今の会社には理不尽なルールがないんだなと気づいた。
それはきっと会社の階層構造が浅いので、大きな声で文句をいうと、それが改善されるからだと思う。
できないとしても、なぜそれが今できないのか説明してもらえる。
前職のメーカーではそれがなかった。
マネージャーでも現場の意思決定以外には参加できないので、マネージャーに文句を言ってもなにも変わらない。
事業部長に文句をいっても、現場のことはかわるけど、人事に関わることなどは一切かわらず、ひとごと。権限がないんだと思う。
まぁ数百人の事業部なんて、数万人規模の会社からみたらなにをいっても変わらない気がする。
ルールが存在しても、なぜやってるのか誰も理解できてないので、全てのルールが形式美になっていた。
例えば目標設定のシートも適当だったし、研修も事業部長からですら休憩と呼ばれていた。
労働組合のストの対象外リストも部長クラスが勝手に提出していた。(組合なんてなんもしてくれないし別に誰も気にしてなかったけど。組合の存在すら形式美。)
普通ならそんなはずないだろ、どこまで無関心で無感動なんだよ、って思う
それでもどうしてもやりたいことがない、って人は、俺が思うに主には3つの理由があると思う
カレーとカツ丼、どっち食べたい?なら答えられるけど、カスエラとエンパナーダどっちが食べたい?と聞かれてもほとんどの日本人は答えられない
レストランで、メニューに牛丼とカスエラとエンパナーダしかなかったとして、牛丼あんまり好きじゃないのに、牛丼しか頼まない人、こういう人が、やりたいことがない!って言っている人だと思う
怖くて頼まないだけならまだしも、そもそも食べ物と認識してないというケース
メニューに書いてあっても、え、食べ物って牛丼だけじゃないの?って平然と言うような人ね
メニューに何か書いてあったら、普通ならカスエラって何かググってみるとか、わからんなりにチャレンジしてみるでしょ
カスエラまずかったとしても、今度はエンパナーダにチャレンジしてみるでしょ
その先に、やりたいことってのが出てくるものだと思う
2つ目は、育った環境
親や先生に、お前は努力しても無駄だとか、お前が成功するわけないとか、否定され続けて育った人はやりたいことなくて当然だと思う
3つ目は、単純に努力が嫌いなだけ、あと失敗したくないだけ
頑張るって苦しい
いやいや、チャレンジしようよ、少なくとも牛丼好きじゃないならチャレンジしろよ
その代わり、牛丼で不満ないなら、俺の食べたいものは牛丼だ!ってちゃんと認識してよ、つまり、したいことは毎日ちゃんとあったって思ってくれよ
努力してチャレンジするのは苦しいけど、世界が広がって刺激的だよ
やりたいことないって言ってるやつには、守らなきゃいけないほどのプライドなんてあるはずないし、失敗してもいいからやってみようよ
そりゃお前さん、1のうえに3もこじらせてるよ
残念
早くに結婚して子供もいてバリバリ働いているが、学歴がないことと離婚してるのと、モテ偏差値が53くらいなのがコンプレックスらしく、
私の顔を見るとひたすら自分がどれだけすごいのかを語ってくる。
しかし大してすごくない。
言うなれば「そんなこと普通にあるよね」程度のことを大げさに伝えてくる。しかも大半が自分の武勇伝。
最初はすごいすごい褒めていたものの、あまりに毎日になってくるので冷静で客観的な意見を述べるようにしてみた。
「あ、こいつは自分のこと褒めてくれないな」と一瞬気づいてくれるけど、次の日には忘れている。
気性が激しく、世の中の若い女全てに嫉妬しているのか芸能ニュース見ては「意外とこの女優ってブス」だの日常会話は主に嫉妬にまみれている。
結婚失敗して、子供の母親でしかない自分に疲れてるのはわかるけど、私はあなたの部下であって都合のよい友達ではない。
「ごめんなさい、それ大してすごくないですよ世間的に」って言うわけにはいかない。
でも心の中では毎日思っている。自分を客観視できない女上司が可哀想で。
自分をハイスペック(だった)と勘違いしちゃう中年女性は、ぜひデリバリーホストとかで男買ったりしてストレス発散したほうがいいと思う。
最近の若者は、舌つづみの鳴らし方も知らないらしくて、おじさんびっくりだよ。
失敗作が多ければ「この人は駄目だな」と見限られてしまうだけ。
そうは思わないな。
俺も前はそう思ってたけど、そんなことはないと気づいた。
結局のところ、どれだけ失敗しようが、最終的に成功すれば認められるし、成功しない限り評価はされない。
みんなはそんなに人の成功にも失敗にも興味はない。
失敗の発表は、それによって名前が売れたりポジションが明確になったり、
もう終わったことは変えられないので。
と思うけど、どうでしょうか?
本国で働くより日本で働いたほうが儲かるんだからやらない理由がないと思うけど。
この世界の片隅にを見たけれどあんまりピンと来なかったというか
途中から戦争中は世界中でこういう風景が起こっていたんだなと思うと
それが戦争の日常風景なんだと感じ、人が死んでも悲しくもなくなってしまった
日本人だけが特別じゃないしねまあ原爆落とされたって意味では特別なのかもしれないけど
泣いてる人は日本人が特別の被害者で悲劇の主人公化出来るから泣いてるのかもしれないが
シンゴジラでも思ったけど現代の戦争は外敵というわかりやすいものじゃなくて
ヒラリー対トランプみたいなわかりづらい対立から発生してるように感じる
逆に帰ってきたヒトラーは国際問題合わせて戦争へ突き進んでしまう恐ろしさを感じたんだけど
まあ多分作品的に合ってなかったということで
終わり
http://livedoor.4.blogimg.jp/akb48matomemory/imgs/a/b/aba4545f.png
テレビでも取り上げられているのかwww
https://note.mu/yoshitakagi/n/nb9851ec652d0
この人や、今となってはすっかり忘れられている大学を中退して起業を目指してた人。
こういう「起業」が目的になってる人たちが「僕は頑張ってます!」をWebでアピールしている姿を見ると
なんとも言い表せない、ぞわぞわ感が湧き出てしまう。
こんなことを言うと「お前は頑張っている若者に嫉妬しているだけだ」と突っ込まれることが多々あるので
一応断っておくと僕は大学在学中に起業に成功して卒業と同時に社長業にシフトを変えて現在も
順調に収益を上げ続けている。今は新しい事業も展開している最中なので、ある意味件の人たちと
なぜ、頑張っている姿を周りにアピールするのだろう?なぜ、関係のない人たちにまで進退を発表するのだろう?
そしてこの人たちの特徴は必ず自分の写真をプロフィールにして顔を斜めにむけているところだ。
起業目的の人たちは共通点が多いので多くを語らずともすぐにわかる。
そして、それを見るたびに、ぞわぞわが止まらない。
「起業家」って言葉は社会人から見ると「起業ごっこが大好きです」と自己紹介しているようにしか見えないよ。
英語の勉強のために参考書や勉強法を調べて満足し、また思い立ったように参考書を買い漁るような
手段と目的がごちゃごちゃになってる人と同じになっちゃってる。
起業の相談を年間、数十人ほど受けている僕がはっきりと言えるのは
・周りにアピールしちゃ駄目
・「起業家」を名乗らない
・「投資」「出会い」「感謝」「経験」「海外」その他もろもろの言葉を使わない
ここ数年の相談後に起業が成功したといえる人たちの共通点は「稼ぎたい」「サービスで人の喜ぶ顔が見たい」といった
明確な原動力があって、そのためにやるべきことを粛々とやった人たちだけだった。
その人たちは決して頑張ってるアピールなんてしなかったけど、その周りの人たちから頑張っているという評価が聞こえてきた。
そして頑張った結果が少しずつかたちになり「起業に成功しました」と発表することになるわけだ。
件の人たちは成功する前や失敗したあとにアピールして「頑張ってる俺(私)!」を発表してしまうので
挑戦することに意義はあるけど失敗を堂々と「良い経験になった」と発表するのはやめたほうがいい。
自分の糧として育てることはできても、他人には「ただの失敗」にしか見えないし
失敗作が多ければ「この人は駄目だな」と見限られてしまうだけ。
すするのが、マナーよくないってのは知ってるけど、
それが”国際的な”問題になっているなんて話、聞いたことないわ。
英語で検索しても全然ひっかからないし、まじどこソースなのよ。
花言葉の起源は不明な点も多いけれど、それなりに考えて作ってると思うよ。
西欧の文化史的伝統を知らないと適当につけたものと思われてしまうのかもしれん。
1819年頃に出版されたシャルロット・ド・ラトゥール『花言葉』 (Le Langage des Fleurs)は、最初期の花言葉辞典である。
ラトゥールは独自の花言葉を270超のリストにまとめているが、その命名手法の特徴は、大きく2つに分けられる。
第一は、その植物の外形や香り・色・生態といった植物の性質・特徴を言葉で表現しようとする観察重視の姿勢。たとえばブラックベリーについて、自らの観察をもとに「人目を避けるように生え、ひとたび口に含むと苦さだけが残る」とまとめた上で、花言葉を「嫉妬」と名付けるような手法がその例である。
第二は、西欧社会で草花が積み重ねてきた文化史的伝統を、一つの単語に凝縮して形容しようとする文化史重視の姿勢である。例えば古代ギリシアの伝統を参照しながら月桂樹に「栄光」の花言葉をあてたり、聖書の記述をひいて「オリーヴの花言葉は平和」などとする。
ラトゥールの著作においては、花の中でもバラに重要な位置が与えられているが、これも文化史的伝統を重視した結果とみなされている。バラは「花の中の花」と称されるほど西欧文化において重視されてきた花の一つで、伝承や神話がとりわけ豊富だからである。