はてなキーワード: 人生の目的とは
これまではずっと目的のある、意味のある時間を過ごさなければいけないという切迫感に駆られていた。本を読んで、映画を観て、少しでもそこから吸収して、肥やしにしなければならないのだと。おばあちゃんは言っていた。「自分の学んだことは誰にも取られやしない」と。
しかしそこにどうしても向かえないのがここ数日。そもそも別に人生の目的なんて大層なものはなかったんだけど、「目的がないこと」を明確に意識しなければならなくなったように感じる。人生や、今後の時間の先に明るい未来が思い描けなくなっている。いくつかの暗いシナリオが「そんなばかな」から「なくはない」に変わっている。
結局は人の役に立っていると感じられないことが問題なんだろうか。
人間、自分で向かっていきたい方向性がないとそれを他人に求めようとする。人の役に立つことで自分の存在価値を確認しようとする。しかしこの環境下で他人との関わりが薄くなった今、これがなかなか難しい。
おまけに、頭では人の役に立ちたいとか思っていても、いざ日々の活動の中で立ち振る舞おうとしても、どうしても自分可愛さが出てしまう。本気で人の役に立とうと思うなら、人の目、評価なんてものはどうでもいいし、恥ずかしさも嫉妬もいらないはずなのに捨て切れない。
どうすればこのがんじがらめから逃れられるのか。陸上トラックを走っていたつもりがいつの間にか濁流に流されていてこのままでは溺れてしまいそうだ。自分の足で立って、歩く方向を決めないといけないのに、ただ身を流れに委ねようとしてしまっている。
これを表面的にみてみると、主人公の父親であるパパスの願いが主人公とその子どもたちにしっかりと受け継がれていく話だ。
だが同時に、パパスの願いがまるで呪いのように主人公と子どもたちに降りかかる話でもある。
ドラクエは基本的にプレイヤーの視点と主人公の視点がズレないように作られている。つまり、プレイヤーは物語を主観として受け入れることになる。
ゲーム自体は主人公が子どもの頃から始まるが、青年期に入るところで家族を亡くし故郷を失くし、彼の手元に何も残らなくなったところで亡き父パパスの手紙がみつかり、その妻であり主人公の母であるマーサを魔物の手から助け出してくれ、そのために天空の勇者を探してくれ、という目的が与えられる。
この時点で冒険の目的をなくしているプレイヤー、つまり人生の目的を失っている主人公にこれはガツンとくるのだ。そして父の願いを叶えるために動き出す。
これはパパスにその意図がなかったとしても洗脳以外の何物でもない。
けれども、主観でみるとこの手紙は人生の目的を作る救いである訳だ。
前述の通りドラクエは主観の物語なのでプレイヤー=主人公はこの呪いを呪いと感じることはない。むしろそれを自分自身の願いとして主体的に取り込むことすらする。
そうして天空の勇者を探しているうちに、主人公も結婚し子どもが生まれ、その子どもこそが天空の勇者だったと分かった時に体験する複雑な感情は主観の物語だからこその体験だ。
そしてパパスの呪いは主人公の子どもにこそ深く絡みつく。しかしながら主観でこの物語に接している主人公はその呪いに気がつかない。主人公の子どもも素直に主人公の願いを体現してしまっている。そこがまたエグい。
彼らにはマーサを探す以外の人生もあり得たのだ。しかし、1通の手紙とそれが読まれたタイミングにより、他の可能性が閉ざされてしまった。これを呪いと呼ばずになんと呼べばいいのだ。
まぁ、こうしてドラクエ5の物語への批判めいた文章を書いてきたが、私自身がプレイヤーとして主観的にこの物語を体験してしまったため、それから何年も経ってこうして呪いの構造に気がついてもなお、結果的に呪いになってしまったパパスの願いを悪いものだとは思えないのである。
恋愛脳で、いい年して噂話と女子会好きで話題貧困で低能、論理よりも感情優先見栄え優先で、そこそこ外見よくても腹黒さがみえかくれする、多分教室でいじめがあったらプークスクスして端っこの方でいじめ側に加担してるような、今は適当な腰掛仕事をこなしつつ、婚活と称して規制相手を探すのが当面の人生の目的であるような、Twitterとインスタを四つか五つぐらい使い分けてる『女子』」
「こんな『女子』」って書いたやで? 「こんな」にもカッコがついとるで?
もう少し丁寧に言えば
「元の書き手が<語り手>として想定してるような、恋愛脳で、いい年して噂話と女子会好きで話題貧困で低能、論理よりも感情優先見栄え優先で、そこそこ外見よくても腹黒さがみえかくれする、多分教室でいじめがあったらプークスクスして端っこの方でいじめ側に加担してるような、今は適当な腰掛仕事をこなしつつ、婚活と称して寄生相手を探すのが当面の人生の目的であるような、Twitterとインスタを四つか五つぐらい使い分けてる『女子』」
という意味やが。
こんな奴が「増田」みたいなサッパリして見栄えのしないいかにも理系ギーク好みの、そんで自分になんの見返りもない日記サイトに常駐してるとは思えないんやが?
自分が気持ちよくなったり嫌なこと忘れることが人生の目的とかさ、そんなの動物と何も変わらないじゃん。
他人のために何かをして、それによって返ってくるありがとうを糧に生きられないのかな。
辛いことがあった時に酒に溺れて愚痴を吐いても、結局は後でむなしくなるだけ。
でも、自分がした苦労の結果として誰かが幸せに暮らせているのを見に行けば、辛さだって吹き飛ぶだろ。
こういう話しても、当の本人たちには届かないんだろうね。
マズローの欲求段階説だっけ、あれのまだまだずーっと下の方でウロウロしてるだけの人達だろうから仕方ないよね。
そうねーまずはー自分のことで一杯に満たされて、それでようやく人のためになにかしようって気持ちに目覚めるものね。
普通の人は小学校の頃にはたどり着ける場所に、おとなになった今でも辿り着いてないんだからしょうがないよね。
可愛そう……ちゃんとした親御さんや同級生と一緒に人生を送れなかったんだね……。
憐れだ。
すまない。
30過ぎたおっさんが言うことじゃないが、いつか自分には運命の相手が現れるのではないかと思っている。そして、その人に出会うまで、自分はずっと一人ぼっちなのだと。
意味がわからないかもしれないが、そんなことを考えながらも俺は結婚している。なんなら不倫もしている。でもいつか運命の人に会えると思っている。本当の自分の居場所はここじゃないのだと、今でも自分は一人ぼっちなのだと思っている。
運命の人がどんな人なのか、自分でもわからない。自分と全く同じ哲学を持つ人か?それともただひたすら美しい人か?あるいは自分に全てを捧げてくれる人?どれもそうであるようで違う気がする。
多分俺はただ救われたいのだ。一目見たその時に運命だと思えるような人に出会って、その人と居ることだけを人生の目的にして、自動的に生きたいのだ。すべてを捧げて、すべてを捧げられて、ただ盲目的に生きたいのだ。人生は何かを考えながら生きるには長すぎる。ただ一つの大切なもののために生きられたらどんなに良いだろう。どうして色々と考えながら生きなければならないのだろう。物語のようにハッピーエンドがあればいいのに。
きっとこの子供じみた夢を見ながら、俺は年老いて死んでいくのだろう。何も得られないまま、何も得ようとしないまま、無為に死んでいくのだろう。生きていると思えないまま、死んだように生きて、そのまま灰になる。
もっと正直な人生を生きれば良かった。単純で、やりたいことをやって、やりたいことをして死ぬのだ。人生は何かを考えながら生きるには長すぎる。
まぁそうなんだよね。
でも一方で、家庭内の労働を効率と合理性オンリーで回すこと自体に、かなり無理が出るという気もするんだよ。
例えば「超ホワイト企業夫×激務&収入少ない妻の共働き世帯with Kids」を仮定した場合、効率の良い家事分担プランは50/50~夫の家事負担多目になると思うんだけど、それが”本当に最効率の分担”だったとしても、夫に不満がたまってくることは十分ありうる。「自分は若い頃から努力してホワイト企業の座をゲットしたというのに、妻のキリギリス・リスクを背負わされている」みたいな寝言を言うやつはざらにいるご時世だし、この寝言がまんざら間違ってないケースも存在したりする。そもそも単純に、家庭内もろもろ負担力に傾斜がかかり続けるのは、合理性や効率性では解決できない。
こういう理不尽な家庭内不満を昇華するためには、効率とかライフハックだけじゃなくて、もう1周ぐるっと回って回帰して、愛情とか人生の目標が同じところにあるとか、そういう抽象的でクサい理念なんじゃないかなーとか、最近思っていて。双方が一蓮托生感を実感できなきゃいっそ結婚しないままのほうがいいんじゃないかとかね。離婚のハードルもすごく下がってるし。子供がいたとしても離婚しても全然、社会的に白い眼で見られるみたいなことよほどじゃないと無くなってるしね。
だからこそ元増田と元増田夫のような、恐らく二人の人生の目的が異なってそうな、そして夫がこの結婚に消極的だったような、そういう二人の間でこういうなまぬる~い齟齬が起きてるのかなーとか2周回って今時だなーというか。