小泉改革のせいでプログラマの質が下がったというよりITが普及する時期(=よく知らない人も参入する時期)と政権の時期が重なってただけなのでは?
ザ・インタビューズは 単なる自己承認欲求充足装置だという批判 が多い。
あきらかに自己承認欲求が強くて「インタビュー募集してます!」「質問ください!」「~に答えました!」という人が大量にいる。それにのっかって「朝ご飯は何を食べましたか」なんてたわいもない質問してる人もいる。そのしょーもない自己承認で舐めあうサイクルが不快で近寄りたくもない人がいるのは理解に難くない。
専門家が気軽にインタビューに答えているケースでは読む価値のある文章もあるのだが、どうでもいい一般人の自己承認欲求充足やりとりなんて面白くもないし、目にもしたくないって人は多いだろう。酒の席の自己語りが面白くない奴の集まりみたいなもんだ。Twitterの140文字でさえ面白い事を言えない奴が面白い長文を書けるわけもなく、意味のある情報を求めている人にとってはどうしょうもないサービスでしかない。殆どの人にとってはインタビューズは有意義な回答や文章を読める場所ではなく、文章は単なる副産物で、自己承認欲求充足やりとりが主目的だ。下らない文章書いたり読ませたりすることに時間とリソースを使うなら、tweetにfav一発してた方がよほどスタイリッシュだ。 (というのがインタビューズ批判論者の大体の考えだろう)
TLにいる人をかたっぱしからインタビューズのリストに登録してみたらあることに気付いた。リストに入れると回答数と回答率がずらーっと出るので、各人がインタビューされている回数が大体わかる。
すると、「インタビュー募集してます!」「質問ください!」「~に答えました!」という人が必ずしも被インタビュー回数が多いわけではない。むしろ自己主張が少ないのに被インタビュー回数が多い人がいる。
なのに、やたら被インタビュー回数が多い人がいるのだ。考えられる理由は、
あたりだと思う。
もしそうだったら面白いよな。こんな目立たない奴がそんなことしてるって、ばれたら恥ずかしいだろう。でも確かめる方法がないから想像してもどうしょうもないのがつまらん。しっかし複アカウントで30も50も自分に質問してシコシコ文章書いて、それが誰も読んでないってどうなんだろうね。やめるにやめられないんだろうな。個人的にはこの可能性は低いかな、と思っているけど。
完全匿名でしか聞けないなんて、この先進展しないと思うがね。妄想できればいいってタイプにはいいおもちゃかもしれない。
質問されたい自己承認欲求グループとは別に、質問したい自己承認欲求グループがいるってことだ。
質問したい自己承認欲求グループにとって、この手の特徴もなく、自己主張が少なくおちついていて、つついても特にトラブルになりそうもない人間ってのは格好のひまつぶし対象だ。
しかしこれはそんなに馬鹿にしたわけでもないと思う。どんな集団でも空気な人間というのは空気なだけに緩衝材になっている可能性がある。Twitterや酒の席のようなリアルタイムで会話や情報が流れる場では、引出しが多く言葉の回転が速い人間が目立つために空気でペースのゆっくりした人間の影響が全く見えなくなってしまうが、インタビューズのような場だと空気タイプの影響がわかりやすくなるのだろう。
ここに、インタビューズが成功した理由の一端が見えていると気付いた。
インタビューズが批判されるとき、「リア充同士の馴れ合いサービス」という視点が使われがちだが、それは少し違う。
良く考えてほしい。インタビューズは一方通行な匿名だ。「質問ください!」と言うより、質問する方がはるかに行動コストが低い。つまり、インタビューズは「質問ください!」と言っている行動力ある人間ではなく、こっそり質問している非リアや弱気な人間によって回転しているサービスなんだ。
匿名で質問し、記名で回答が返って来る。その回答は必ずしも自分に向けたものではないが、質問したのは自分だと質問した人だけはわかっているので、コミュニケーションを充足した気分になれるわけだ。質問する側にとっては、ノーリスクハイリターンだ。目立たないが何故か被インタビュー回数が多い人がいる現象も、それをよく表している。できるだけ行動コストが低くて済む相手に質問がなんとなく行っているわけだ。
本当のリア充なら、インタビューに答えこそすれ質問なんかしていない。Twitterで@飛ばしたり電話したりメールしたり直接会って話した方が早い。
ザ・インタビューズはリア充の為のサービスなどではなく、リア充のように充足を得たい非リア、リア充との接点を得たい非リアの為のサービスだというのが自分の今の結論だ。だからこそ非リアが声に出来なかった需要を掘り起こして成功しているのだと思っている。
いわゆる躾の問題よね。親子、新人研修と同じ。
ついでにいうと、偏差値が高い、即ち躾が行き届いているという前提はかなり根強いから、
はてブでオンラインカジノがどうのこうのという業者くさいアカウントが大量のユーザを無差別に(お気に入りの数が500ぴったりとか)お気に入りに追加しているようだが、はてブをTwitterか何かと勘違いしているのかね。はてブユーザはいくら他人からお気に入られても興味のないユーザを「相互フォロー」なんてしないぞ。
しないよね?
せっかく散歩してきたのに帰ってから地図でどれくらい歩いたか、どこ歩いたか確認しようと思っても同定できない。
というか、右行ったり左行ったり複雑に歩きすぎて途中からどこ歩いてるかもわからなくなってたのは内緒。
とりあえず線路沿いに出れたから帰ってこれたけど、目的地から東に二駅ずれてたのがわかったときは絶望した。
そこまで方向音痴じゃないんだがなあ。
というか、山はまだ虫がすごいたくさんいるね。セミ鳴いてたし、ハグロトンボやクロアゲハやクマバチや・・・って、黒ばっかりだな。
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飲食店でアルバイトをしていると、たまに「ああ、このお客さんは俺のことを人間だとは意識せずに、店員だとしか思ってないな」と感じる瞬間がある。
別にそれで何かあるわけではなく、ちょっと不快な思いをして、こっちも店員とお客さんという型に合わせたコミュニケーションのスイッチが入るだけ。これはよくあること。
ただ、最近そういったお客さんが「店員さんに横暴な態度をとる人が信じられない。」と言っているのを耳にした。
理由を聞きたくてうずうずしたのは言うまでもない。
理由を聞けば、きっと「店員さん可哀想じゃん、店員さんも人間だよ、そもそも人としてどうなの」的な言葉が返ってくるんだろうなあと思う。
彼に理由は聞いていないので想像になるけど、もしそういう考えなのだったら、それは非常に手抜きしたコミュニケーションではないか。
つまり、店員と客という間でも根本に自分とあなたという考えがあれば、「生中」じゃなくて「生中下さい」、「どうも」じゃなくて「ありがとうございます」って言うんじゃないの。普段からそういう話し方の人じゃない限り。それをしないってことは無意識のうちに店員と客っていう型に合わせてコミュニケーションしてればいいやと思っているのでしょう。
「店員に横暴な態度とるのは良くない」という言葉は自分は相手を人間として捉えていますよというポーズであって、その根本は、その言葉自体がコミュニケーションの型に含まれているか、あるいは、自分が嫌われたくない、よく思われたいという感情を「店員さんが可哀想」という相手の為ですよという言葉に置き換えているかのどちらか。
余談だけど、大学生が飲食店で「ごちそうさま」をいう割合は80%以上。
そのうち80%が学生バイトに対しても丁寧に「ごちそうさまでした」「ありがとうございました」という。残りは「どーもー」「ごちそうさま」など。
対してコンビニのレジで「ありがとうございます」という割合は40%。レジに人がいない時に「お願いします」など言わないで無言で待つという人が70%以上。(数字は全部適当。自分の感覚)
お礼を言う言わないは今回の趣旨ではないが、居酒屋では「ごちそうさま」を言うけどコンビニでは「ありがとうございます」を言わない理由は何なのでしょう。
別に挨拶はしっかりとか、敬語で話そうとか、僕に優しくしてとか言っているわけではない。
例え、そうですかと「生中お願いします」とか言われても今までのコミュニケーションの型が置き換わるだけで何も変わっていない。
生まれつきなのか、環境なのか、自然にそういう意識を持てる人がいる。自分の周りにもたくさんいて、とても羨ましく感じる時がある。
というのも、僕自身がずっと手抜きしてきたと思うし、今でも「やばい、手抜きしてる」と気づく瞬間がある。自分の行動がちゃんと説明できない時がある。
何が心配かというと、自分がそんな手抜きのコミュニケーションにどっぷりつかってしまって、何かの基準なしには生きていけなくなること。
友達だからこうする。彼女にはこうする。先生と学生のコミュニケーションはこうで、親と子供だとこう、みたいに、自分と相手のコミュニケーションのはずなのに誰かが定義した友達、彼氏、先輩、後輩、彼女、親etcの枠組みに合わせなきゃコミュニケーションが取れないのは不幸なことだと思う。
よく言う、自分に役割が与えられていて、その役割を演じるっていうやつ。
「世界の中心で愛を叫ぶ」を読んで一通り感動した後に、舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる」を読んではっとする感覚。
あの感覚を忘れないようにしたいと思う。
「自分の軸足を自分の内側に置くことは大事だよ」「自分のものさしではかりなさい」などよく言われてきたけど、最近になって本当に大事なことなんだと感じることが多い。
以上、居酒屋のバイトしているときにぼんやり考えていたことを、ぼんやりまとめました。
(あらためて読むと、すげーひねくれてるなあ(笑))
自分たちが推薦を与えた学生に対してちゃんと教育しなかった可能性があるんだからね。
退学率の低いことが、その大学がきめ細かい教育や痒い所に手が届く指導を個別にしていると判断するための指標の一つなんだから。
http://anond.hatelabo.jp/20110924124133
日本人って搾取構造を作るのに関しては世界一なんじゃないかとこれを読んで思いました。
古くは徳川家康公の江戸幕府の武士による搾取構造から、維新後に、進歩して官僚制度による搾取構造に変わりました。
東大の元は、昌平坂学問所ですが、ヨーロッパのように学問を研究教育する場というよりは、エリート官僚育成所でした。
エリート、つまり、搾取する側が都合のよいように国の制度を変えていきました。
しかし、大学の数が多すぎて、エリート官僚育成所にはなりえず、社畜養成所になっています。
新卒の一括採用も、あれは、官僚の一括採用を真似て生まれました。
SI業界の多重下請けもそうです。下請け業者を使って儲ける搾取構造をエリートが作ったわけです。
日本でベンチャーを経営するのが難しいのも、既得権益を持った人達に搾取される構造が出来上がっているからです
アメリカの場合は、問題が起きたときに、批判精神が起こり、是正されますが、日本の場合は、搾取構造が強すぎて是正できません。東電の例を見れば明らかでしょう。
1970年からタイムスリップしてきた者ですが、私たちの世界では、債権者取消権がこれと密接に関わる債権者代位権の性格と関連して侃侃諤諤の論争が展開されています。
少々長くなりますのでご了承ください。
新たなる代用語として充てられている感はあるが、
それでも依然として、
同性愛・性同一性障害・ニューハーフ・トランスジェンダー/トランスセクシャル・インターセックス(両性具有者)
といったセクシャルマイノリティと混同している人が目立つ。
各々の定義は、とりあえず現在はwikipediaに記載された定義が最もベターだと思う。
(実態と異なる部分も少なからずあるが、うまく区分けされまとめられているように思う)
ニューハーフという定義だけは曖昧で、厳密にはLGBTのセクシャルマイノリティには当てはまらず、
性自認が男であろうと、恋愛対象が女性であろうと、性ホルモンを投与してなかろうと女性の恰好や仕草をして
それを売りにして"水商売・風俗産業"に従事する者達を指す言葉なのだが、
近年は「将来的に女性として生きる事を目指していて、性ホルモンを投与していて見た目も女性らしく見える人」を指す言葉でもあるようなので、
広義的にLGBTのセクシャルマイノリティに分類しても良いかと思っている。
仕事のためや趣味だけでニューハーフをやっている者もいるので、LGBTに含まれないニューハーフがいるのも事実だが。
ここで、その「LGBT」とは?
セクシャルマイノリティの区分けを大別して国際的に以下のように区分される。
T・・・トランスジェンダー/トランスセクシャル (性別変更者)
※セクシャルをセクシュアルと呼ぶ事もあるが、
さて、現実世界で男の娘と定義されるようになったかつての女装子達。
一般理念としては、「身体の性別が男性で、性同一性障害ではなく性ホルモンも投与しておらず、
ただのファションの一環としてや性的嗜好により女性の服装を纏ったり化粧をする者」という定義だと思う。
しかし中には性同一性障害の人で、女性化の一歩として女装から入る人もいる。
まだ性ホルモン等もやっていないので周りから見れば女装にしか見えない。
本人に性自認を聞かない限り判断はできない。
そういう人は外観から見れば女装者だが、正しくは「性同一性障害のトランスジェンダー」という区分けになる。
性同一性障害であろうとなかろうと、性ホルモン投与を始めたり、
身体の手術を行えば、「ニューハーフ」という区分になる。
(ここで、ニューハーフとは水商売・風俗産業に従事する者という定義に当てはめれば、
性ホルモン投与を開始しても、一般職だったり学生だったり無職であればニューハーフではなく
「トランスジェンダー」という区分になる。広義的な意味ではニューハーフという区分でもいいかもしれない)
トランスジェンダーは、まだ完全に工事が終わってなく女性化の途中段階の人で
トランスセクシャルは性転換手術も完全に終えた人を指す。法律と性器の外観以外にこの2者に大きな違いはない。
(同じトランスジェンダーの中でも性ホルモン投与が始めたてで身体の肉付きがまだ女性的になっていない場合は見た目の違いは顕著な事も多い)
同性愛とは周りからの判断で決まるものではなく、本人の性自認によって委ねられる。
本人が「自分は男だ」と自認していて、かつ同性を好きになる事が同性愛。
本人が性同一性障害などで「私は女だ」と認識していて男性を好きになる行為は
本人にとっては「異性愛」。これらは「性的指向」と呼ばれるもので、
見た目や仕草に決まりがあるというわけではない。
冒頭で書いたように、女装を嗜んだり、女言葉を使ったりしていても
当事者が「自分は男だ」と自認した上で男性を好きになる事は同性愛であるし、
まだ見た目は男のままでも、性同一性障害であるなら異性愛という認識になる。
「幼い頃から自身を女性だと思っていて、それまで男として暮らしてきてもいずれ女性の恰好をして性ホルモンや性転換などの治療を受け、
なおかつ24時間女性として暮らす事を望む者」という事が精神医学のガイドラインで決まっていて、恋愛対象が男か女かは特に問われない。
実状としては性同一性障害にも関わらず親との関係や環境上の理由により、男の姿のまま一生を全うする者もいるので
一概にどうと言えない。
しかしそういった者の中で男性が恋愛対象の性同一性障害者は、周りからは「同性愛者の男性」であると思われても仕方のない部分もある。
また、中には性同一性障害ではないのにも関わらず、自己判断で性ホルモンを投与したりいずれ手術に望む者もいる。
そういう者もトランスジェンダー/トランスセクシャルに分別されるが、精神医学上では「異性化願望症」と判断される。
ちなみに、性同一性障害の当事者からは、そういった異性化願望症の当事者を嫌悪/排他する傾向にある。
元々は、「普通の男性なのだが見た目が美少女にしか見えない少年」
といった意味であるようなのだが、創作世界から現実世界に派生し、
一部では、綺麗で女性らしい見た目であれば
性自認も恋愛対象も関係なく一律に男の娘と呼ぶとする者もいるが、
いったいどこまでを定義していいのか、当事者達にとっても悩ましい問題である。
そもそも、創作世界においての萌えに限定しては混同してもいいのかもしれないが、
現実世界においてのセクシャルマイノリティや性的嗜好を一括りするのは禁忌であると思う。
なぜならば現実世界においてセクシャルマイノリティの分野はデリケートな問題であるからだ。
当事者間においては、趣味で女装を嗜むだけの者にとってはニューハーフと同一視されたくない、
ニューハーフや性同一性障害のトランスジェンダー/トランスセクシャル者にとっては、
趣味で女装をしているだけの者と同一視されたくないというデリケートな思いがあるからである。
近年においては、ニューハーフ職に属していないトランスジェンダーやトランスセクシャルも大勢いる。
そういったニューハーフに属していないトランスジェンダー/トランスセクシャルと女装少年を同一視して男の娘と区分してしまっている傾向はある。
はたから見れば、どちらも同じく男性に生まれ女性の恰好をしたり生活をしている者と見えてしまうのだが、
それでも性同一性障害などで性ホルモン投与をしたり女性として暮らしている当事者と、ファッションや趣味だけで女装を楽しんでいる者とは大きく異なる。例えこの両者が、見た目がすごく綺麗な女性である前提としても。
または現実世界でも「セクシャルマイノリティではないし女装もしてないが女性のような顔つきをした者」だけに限定して使う事が望ましい。
1歩譲って、女装を嗜む者も含んでもいいと思うが、現在、現実世界でメディアに男の娘と区分されている者の中に、
性同一性障害者や、性ホルモン投与者などがいるなら、男の娘という区分からは外して分けて考えるべきなのだ。
そういう者はトランスジェンダーであり、いくら綺麗でも女装を嗜むだけの者とは異なる。
困った事に、セクシャルマイノリティの当事者の中でも、綺麗な女装男子といっしょになって「自分は男の娘」だと呼称している者もいるということ。
見た目が綺麗で女性的だという褒め言葉的な称号の名の元には同じなのかもしれないが、
見方を変えれば、あなた方が性同一性障害で苦労しようが、性ホルモンや外科手術によって頑張ろうが、
世間にとってはいつまで経っても、ノンケだけどただ女装を嗜んでいる者達と同一視されてもしょうがないという事。
逆に言えば、ただファッションとして女装を楽しんでいる者も、セクシャルマイノリティの当事者といっしょになって男の娘だなんて言ってるうちは、
あなた方も、「男が好きなの?」「女として生きてくの?」「手術するの?」「性同一性障害なの?」と言われてもしょうがないという事。