はてなキーワード: ストーリとは
・ずっと迷ってた。
わたしも日々ちゃんと普通に生きてるよ。
あの時のことは、今でも毎日思い出すけれど。
そのたびに、辛い思いをするけれど。
それでも、朝起きて、ご飯食べてる。
もしわたしを見つけたら、声をかけてくれるかな?
・あ…
雪…
…
……
そっか…
そっかぁぁ…
じゃあ、春希くんがこれからどうすべきか、
わたしに聞かなくてもわかるんじゃない?
こんなところで、わたしにかまってる暇なんか…
・春希くん、わたしの昔のこと、知ってるでしょ?
今の彼女の気持ち、わたしがどう感じてるかわかってるでしょ?
なら、今のわたしが求めてるものもわかるでしょう?
・ねぇ、春希くん。
今…あなたが一番守ってあげたいのは、誰?
うん…
うん……
やっと、言えた、ね?
いろいろ、意地悪なこといってごめんね?
彼女を、守ってあげてね?
昔のわたし、救ってあげてね?
あなたは、治せる人を治してあげてね。
彼女を貸してくれませんか?
もう関係ないはずのわたしがこんな事言うなんて、
お門違いも甚だしいってわかってます
それでも、一度だけ話をしたい。
彼女の悩みを聞いてあげたい。
彼女のこと、知りたい。
絶対に、春希くんには迷惑をかけません。
・杉浦小春さん。
そこまで頑張って…
あと、そうやって自分ばかり責めないで。
ほんと、春希くんに聞いたとおり。
…そんなところまで、彼そっくりなんだから。
・・春希くんが選んんだんだよ。
わたしは、いられない。
それでも、どうしても会いたかった。
…ながいこと付き合わせて悪かったね?
けれど、もう帰る時間だよ。…もちろん、春希くんのところにね
・危なかったなぁ。
思わず、途中でやっちゃうところだった
でも、もういいよね…
ノルマ、果たしたよね。
姉として。そして元カノとして…
二週間も我慢したんだから…もう、いいんだよね?
ちょっと外見や声がロリすぎてそこは趣味じゃないにせよ性格は最高に好み。
でもストーリはかなり不満。
いや、春希に取ってはそのほうがキツイってのはよくわかる、わかるけど、
やっぱり、大ダメージを負っているのは、
決定的な責任を負ったり決断を強いられているのは小春と雪菜であって、
そこに対して主人公がいまひとつカラを破れなかった印象。
主人公の決断も、状況による強制、それによる周囲の後押しって感じが強い。
こんだけスペックが高い主人公なら、もっとできるはずって期待してしまう
というか、そう想ってしまうのは、なんか饒舌すぎて余力あるように感じてしまうから。
自分に厳しいって言うよりは、Mな状況に対する自己陶酔やらうぬぼれが強すぎて
お前そんなこと考えてるヒマがあったらもうちょっと動けよ、って思う。
まあ、このもどかしさというか、主人公の腰が引けてる感じが、
読んだ。
後述するように、この巻はあまり内容がないようなので、読感について書く。
すごく・・・つまらないです・・・(ほめてます。読みやすいと同意)。
まったくつまるところがない。スルスル読める。読み終わるまで20分かからなかった。
今まで20分以内に読めたラノベは「俺と彼女が魔王と勇者で生徒会長」だけだがそれと並ぶ記録だ。
ちなみに私はめちゃくちゃ読むの遅い。みーまーなんて1冊読むのに4時間とかかかるんだぜ。それでもこれは20分で読めた。
10分読み捨てが基本の齋藤孝の本でもここまで読みやすくはない。これはすごい。
20分で読みきれた理由として、まずまず文章の絶対量が少ないことをあげておく。
まずページ数が少ない。たった255ページしかない。
ただでさえページ数が少ないのに、1つの文ごとに改行する。
さらにときどき文字がでかくなってさらにスペースを使う。
この時点で、おそらくほかのラノベだったら180ページくらいの分量しかない。
ただ、全体の文章量はそれほど重要ではない。重要なのは本当につまらず読めたことだ。
つまらずに読めることと全体の文章量は関係がない。
どちらかというと、1ページあたりの文章量および情報量が少ないことが大事なのだと思う。
(冲方丁みたく、短い文章でもやたら情報量多い記述を取ればそれだけ読むのに時間かかるしな)
文章量以外にも1ページの情報量を減らすための工夫がすごい。さらによみ飛ばしても問題ないように工夫されている。
まず地の文。
主人公の主観なのだが、主人公の精神が今ひとつ働いてないと言うか、ゆきてる日記みたいな感じで淡々と記述に徹している箇所が多い。。
そのため地の文で重要な要素が語られることは殆ど無く、重要なところは傍点をふってくれているのでそこ以外は読まなくてもほとんど困らない。
というかもともと場面移動がすくなく(ずっと部室)、登場人物による会話が主体で話が進むので、本当に会話だけ読んでればいい。
地の文の「刺身のツマ」っぷりは凄まじく、主人公が喋ると「あ、こいつ何か考えてたんだ」と感じるレベル。
で、肝心の会話だが、キャラクターの性格をそのまんま表したお約束的な発言が多く、繰り返しが多用されるため、
慣れると誰と誰が何について会話しているかさえ把握できれば良いということになる。
たとえば小鳩とマリアの会話は、この二人が会話しているということさえ把握すればやり取り自体を読む必要がない。
1ページ1秒で読み飛ばせるページがちらほら。
なんというか、読んでる時の感触がマンガだ。ライトノベルと言うか、文章で書いたマンガ、という印象。
デカ文字による強調とかも、コマ割と考えれば分かりやすい。
そういえば、ちょっと長文読むと、すぐに「長い、三行で」とか書く厨房みたいなのを最近ネットでもよく見かけるけど、
本読み慣れていない人からすると、一度に処理できる情報量って、本当にマンガと同じくらいじゃないとダメなのかもしれない。
それをちょっとでも超えると、全く別の読み方を強いられるのでストレスになるとかあるのかも。
とにかく、この作品は、マンガしか読んだこと無い奴でも読めると断言する。
読んだこと無いやつでも、すぐ読みおわれる、お勧めしやすい。
テレビほどではないにせよ、話題として共有するのにもってこい。
いや、テレビだって30分とか1時間かけてみないといけないことを考えたら、
こっちのほうがより軽い。流通させやすいくらいだと言える。
これは強いで。
ただまぁ、7巻だけでこの本を評価するのはアンフェアだと思う。
読みやすいこととその理由は分かったが内容についてはなんとも評価できない。
というのもこの巻は多分、全体の中では閑話休題的な位置づけになっているためだ。
外伝ではなくまぎれもなく本編ではあるが、ストーリはほとんど進行しない。
骨休め&次巻以降に出てくる登場人物の顔見せ&最後にちょこっとだけ予告。そんな感じ。
他の作品で言えば、みーまーの「8巻 日常の価値は非凡」と近いと思う。
本筋だけを理解するのが目的であればみーまーの8巻は
「本筋を離れて旅行に行きました。帰ってきたら○○が殺されていました。続く」で終わりであり、この巻もそんな感じ。
この巻も、本筋だけを追うなら、245ページ以降以外はパラ読みで構わない程度である。
他の巻だと多分もうちょっと色々気を使いながら読む必要があるんだろう。
ちなみに、読むのに手間がかからないのと、続きはそれなりに楽しみなので、多分8巻は読む。
6巻以前は、なんとなくわかるので多分読まないと思う。
一応気になったページ。このページは10秒以上かけて読んだ。他のページは3秒以内で読める。最初の70ページのドライブ感は爽快だった。
72、87、95、99、109,112、114、128、132、137、145、156、169、177、190
215、221、232、235、245ページ以降。
あと、ブリキ絵について。わたしブリキ絵今まであんまりスキじゃなかったんだけれど、ちょっと好きになったかも。
塗りがきらいなだけだった。白黒で見るといい感じ。圧迫感ないし。
このコメント感動した
切込隊長の言ってることは
「なでしこジャパンの人達には空気を読まないで発言する自由があった、そしてなでしこが自分で空気を読むと決めた以上部外者があれこれ言っても仕方ない」という話で、
それはたぶん日本以外の国で言うならまっとうな意見だと思うが、この国でそれを言うのは果たしてどうなのか。
世界の常識は日本の非常識。空気を読まなきゃ発言もできないこんな国じゃ。
結局は「空気」同士の争いなんだな。
それぞれの陣営に明確な構造とか軸を持った物語どおしの戦いじゃない。腰が入ってない。
そのばその場で発生する空気同士の戦いなんだ。
一つ一つは歴史もなければ、裏付けも弱いけど、
いろんな空気が発生するネタとしての現実への不満とか、妬み恨みやっかみとかはたくさんある。
何かあるごとにいちいち差別論に結びつけて勝利宣言したり聖戦を気取ってみたりするバカがたくさん。
お前ら自分が満たされてないだけだろうがこのピザ、みたいなやつが説く正義って
一時的な鬱憤晴らしみたいなもので、腰が入ってない。だからtwitterでつぶやく止まり。
議論するにも、その場の勢いだけで喋ってるだけで、歴史や地域や組織の背景についての知識がないから長続きしない。
(本読んでる奴は、虱潰しに差別論者でご自慢の知識披露して自尊心満たしてる暇があったら少しは啓蒙活動ガンバレよ。何のために本読んでるの。腰痛大丈夫?)
たまたま誰かが空気を読んで誰かに圧力かけたから、かけられたから。そんな詰まらない理由で
今日も今日とてくだらぬ差別議論ごっこがはじまり、儲かるのはtogetterだけ、と。
あとどうでもいいけど、一回隊長のこういう姿見たからってすぐ「がっかりしました」「幻滅しました」って書いちゃう人ってなんなの?
キレイな隊長見てはころっと騙されて負の側面みたらすぐそれか。
どうせエガちゃんみても同じような反応してんだろう。あまりにも腰というか尻が軽すぎるでしょう。
わたし腰フェチなので腰がしっかりしてない人って生理的に駄目です。それは文章でも同じ。
へっぴり腰なコメントするくらいなら、言ってること頓珍漢でもいいから、陰謀論なみに腰が入った一本気のあるストーリを紡いでみせてほしい。
1 キャラクターがどういう声でしゃべるのかということ。またはそれがもたらすインパクト。
2 ゲーム中の春香さんはキャラも存在感も本気で薄いということ。あずささんと春香だけやたらと薄い気がする。
3 日常会話でもキャラが動くということのありがたさ。乳の格差酷いな。
4 アイドルはこっちをしょっちゅう半目で見たりしないということ・・・じゃなくて表情豊富なこと。ノベマスには泣き顔や恥じらい顔が足りない。
5 やよいはかわいいなあに込められたプレイヤーの実感。とかち組もかわいいなあ。
6 プロデューサーはガチで有能じゃないとつとまらないこと。あるいはノベル系におけるP居ない動画でりっちゃんと涼君、あと小鳥さんがやたらと目立つ理由
7 服装ってアレ買うんだね・・・うん。MMDって営業妨害じゃないのか?
8 ニコマスで描かれるほど各アイドルは一致団結という雰囲気ではないこと。
9 毎日が面白おかしいイベントって感じではなくて結構淡々と作業プレイする必要があること。
アリスソフトのゲームと似通った感じを受ける。アリスでわからない人はKOEIでもいいですがキャラ重視なのでやはりアリスソフト。
全体的な印象としては「自分次第でやろうと思えばいくらでも楽しめそう」だということ。
まだクリアしてないキャラもいるしこれからどんどん楽しむよー。
togetterでコメントしてたけど長くなったから増田にする。
本当はブログ作るべきなんでしょうけど面倒くさいので。すみません。
とても面白かった。 このamamakoという御仁が良いと賞賛できるアニメ作品、およびその作品をどうやって賞賛するかを見てみたい。嫌いしかない人がいくらある作品をけなしてもそれだけでは奥行きがなくてつまらないからね。 爆笑問題の太田は芸として村上春樹をけなしたりKAGEROUを褒めたりしている。この人が本気出せばもっと面白い芸ができるはず。 2011-04-23 20:07:58
追加された分についての感想。2011-04-24 09:58:38
結論としては「まどマギの世界の大人は情けない。俺があの世界にいたら・・・」とか「まどマギのストーリーはディケイドみたくもうちょっと成長した大人たちによって演じられるべきだった。そうしたら変わっていた」とかかな。 与えられた設定を受け入れられないという点で、現実から目を逸らし続けるまどか役がやりたいんだろうか。 魔法少女にならず安全なところから世界は間違ってるよっていってればなにか解決するんだろうか。 違うというなら「まどかは仲間を見捨てて逃げるべきだった」という所から論じるべきだったけどそうしてない。
そりゃあストーリの設定無視して「良きこと」を語るのは簡単だろうし、自分がその場にいないという前提で「正しさを主張して皆で仲良くほろびるべきだった」というのも簡単だろう。そしてそういう妄想も二次創作では否定されるべきではないとは思う。でもそれは作品批判とは違う。 まして他人をキモオタとかいって罵倒できる理由になるんかね。終わった後で幻想ぶちころすって・・・。結果だけは受容するのか。ひどいな。
私がこの人から読みたいのはこんなチャチなオチじゃない。「救われた世界に立って、救われるべきではなかった」なんてのは駄目です。ちゃんと自分が地獄に立って、そこからこれでいいんだって言ってほしい。自分だったらまどマギをどう作る、とか。俺の理想を最も体現しているのはコレだ。とかいってフラクタルを絶賛したり、自分でSSを作ってみたりする。そういう芸をやって欲しかった。
よき作品の例がオマツリ男爵て・・・。別にオマツリ男爵という作品を否定するわけじゃないが、その解釈はオマツリ男爵という作品の内容に沿って正しいのか? それで開き直って自分一人でいきていけるのかい男爵は? この人「自分に何かを強制する・命令する」ように感じさせる何もかもが気にいらんだけと違うんかね。秩序なるものが嫌いなだけと違うんかね。 もはやルサンチですらない。ただの我侭じゃん。まだルサンチの方が努力する姿があるので好感持てる。 要するに、ただのつまらない人だったか。
だから、全力でまどマギに立ち向かうぜ、的な姿勢を示していたこの人の意見をとても興味深く読ませていただいたのだけれど、
批判の理由がまどマギの作品論理によったものではなく、単なる彼の政治信条みたいなものであることを徐々に露呈していき
<作品の中ではなく作品の外><作品と視聴者の関係ではなく、視聴者である彼自身の内面へ>
と話が二極化していき、作品そのものへの語りが少なくなるに連れ私のテンションがダダ下がりしていった。
これでは勝谷誠彦とかと同程度の、極めて低俗な芸と同じだ。それは面白くないんだ。面白くないんだよ。
あれをやりたいなら、もっと短くコンパクトにやらなきゃダメだ。
異常に読みにくいのでやむを得ず購入して自宅で読むことに。
作品の舞台は高校野球。プロ選手を目指していた教師が監督として乗り込んでくる話。それなんてルーキーズ?
とここまではいいのだが、頑張って最初の30ページまで読んだところだけど、とにかく疲れる。
・登場人物の間のやりとりが全くないため単調な印象
単調なイメージで住めばいいのだけれど、もしドラの時と同じように
主人公である監督が何か働きかけると、特に抵抗もなく物事が進んでいく様子が
・文章の流れを遮る唐突な引用がすごい多く、非常にテンポが悪い。
地の文でうんちくを聞かされていたと思ったら実は監督の言葉だったとか、監督の言葉だと思ったら実は地の文だったとか。いろいろと切り替えがおかしい。
・なにか変化があるたびにいちいち
「そうしてこの習慣は、迷径学園野球部同好会が部と昇格した以降も、変わらずに受け継がれる伝統の一つとなった。」
って表現が入るのがうざい。
と私がいっても伝わらないと思うから実物を見てもらおう。
P12~P13
二週間の合宿期間中、続(監督の名前)は、夜のミーティング時間を利用してくり返し整備の大切さを生徒たちに説いて聞かせた。すなわち、用具を大切に出来ないものは、野球に限らず、その道での上達を望めない。用具の中でも、まず大切なのがグラウンドだ。練習をするうえで、すべての土台となるグラウンドが荒れたままでは、技術の進歩はないし、何より野球をしていて楽しくない。グラウンドを粗末にすると痛い目に遭うとか、罰が当たるとか、そういうオカルト的なことを言うつもりはないが、荒れたまま練習をしたのでは、全くの時間の無駄となってしまうのだと、続は説いた。
ここで続は、平成元年のプロ野球ペナントレースにおける、あるエピソードを持ち出した。その年のパ・リーグは、近鉄、西武、オリックスが、終盤まで激しい優勝争いを繰り広げていた。その最後の決着をつける西武対近鉄のダブルヘッダーで、近鉄は、ブライアントの奇跡的な連続ホームランで連勝を遂げ、優勝をほぼ手中に収めた。このダブルヘッダーの第二試合、近鉄に負け、優勝の望みをほぼ絶たれた西武ナインは、大きな落胆と共に、自らのホームグラウンドである西武球場を引き揚げていった。その際、当時西武の主砲であった清原和博は、帽子を取ると、グラウンドに深々と一例をしてからベンチを後にした。目の前で優勝を持ち去られるという大きなショックを受けていたにもかかわらず、例を忘れなかった清原のこの行いは、テレビ中継でも放映されたから、ちょっとした話題となった。その年のオフ、テレビ番組「プロ野球ニュース」の企画で、落合博満が清原と対談した。その席で落合は、「どうしてあの場面、グラウンドに礼をしたの?」と、清原に尋ねた。落合の目には、清原の行為は奇異に映り、それを一種のスタンドプレーか、あるいは何らかの意図を持った行動と勘ぐったのだ。しかし清原は、そんな落合の邪推とは裏腹に、こともなげな顔をして「いえ、あれはいつもやってることなんで、あの日もそうしたまでです」と答えた。つまり清原にとって、グラウンドに感謝の礼をすることは、単なる日常的な行為であった。いつも行っている、当たり前の習慣だったのだ。そうして清原は、かつてないほど大きなショックを受けたこの時も、そのことを忘れなかった。それほど、肝の据わった男であった。
「つまりおれの言いたいのはそういう事だ」と、続は言った。このエピソードから、何を感じるかは皆次第だが、俺は何かを感じた。端的に言えば、そんな清原を格好良いと思った。だから、おれはそんな姿勢を見習いたいし、皆にも勧める。続は、生徒たちにそんなことを話して聞かせた。するとこの話は、生徒たちにそれなりの影響を与えた。次の日から彼らは、グラウンド入出時の礼を欠かさないようになった。そうしてこの習慣は、迷径学園野球部同好会が部と昇格した以降も、変わらずに受け継がれる伝統の一つとなった。
ずっとこんな調子で
「監督が問題発見→監督の説教→監督の主張を補強するやたら長い引用→作者による引用の解説→問題がすぐに解決」の繰り返し。
エースを描くはずが、監督しか描いてねー。しかもこの監督の視点がどうみても部外者のスポーツライター。
うざい文章で有名な初期の禁書目録でさえ、説教が始まったら自分の言葉で語るというのに・・・。
これ小説じゃなくてコラムだろ、といいたいが著者曰くれっきとした小説だそうだ。
引用元のコンテンツが主体のもしドラは別に良かったんだけれど、文章が主体の小説で同じことをやるとは思わなかった。
この人はこの作品で、何を描きたいのだろうか。
引用部分に込められた熱量や主張と比べると、選手たちのトレーニング光景も、成長も、苦悩も、試合も、すべてが軽く扱われているように見える。
私はこの引用部分を語るために形ばかりにストーリが添えられているようにしか今のところ感じられない。恐ろしくバランスが悪い。
と、文章にはかなりネガティブな印象があるが、内容は良くもないが悪くもないと思う。まだ判断下すには早いかもしれないが。
目次を見るに、ちばあきおの名作「キャプテン」を下地にして、そこに監督を放りこんで、監督主導でストーリーを再構成するつもりなのでは、と思う。
しかし、それをどうしてハックルブログの文体そのままの文章を編集なしで本にしようとおもったのだろうか。
別に天呉くんレベルとは言わずとも、もう少しましなライターさんが文章を担当して、岩崎さんは原案で良かったんじゃないのか?
コミカライズの予定らしいが、その際には上のような引用はバッサリ刈り取られるのだろうか。ぜひそうしてほしい。
それとも「球場ラバーズ」のように引用部分の選手たちのエピソードを削ることなく、それでいてキャラを活す、そんな演出が出来るだろうか。
下手したら殺害予告とかされそうだから増田にしとく。
割と今回の発表はどーでもいいと思ってたり。
もともと使えそうな設定をつまみ食いするだけだから。
そういう世界もあるという話で、私が邪道であることは百も承知だよ。
もちろんジュピターの男が使えそうなら使うし使えなさそうなら無視するだけ。
今のところ、あんまりこいつらとはかまらせくないな、というイメージだけど。
憎まれ役とか言っておきながらどう見ても和姦向きキャラだしなぁ。
(アイマス発表で唯一「ん?」とおもったとすればここ。
どうせいいやつってわかったらそれこそツンデレNTRという最悪なパターンになりそうだ)
でも、激怒してる人たちの気持ちはわかる。
「プロデュース不可」そのものよりも「固定化された設定」が困るんだろう。
有志の力とMMDの力を借りてプロデュース可能にしてしまうような人たちだ。
「許される」なら足りない分は自分で補うことなどなんでもないことなのだろう。
ただ、彼らは妙に礼儀正しいというか、
公式設定というか設定からイメージされる空気を壊すようなことをやろうとはそもそも思わないのだろう。
「なんでもあり」ではアイマスとして意味がないと考えるというか。
私も同人なんかやっていながら某アニメについて同様の考えを持っているものがあって
それだけは聖域のように守ってるものがあるからわかる。
だから、「一時的にプロデュース不可」のほうがよかったような気はするけどな。
一回手を付けちゃったらもう撤回不可能だと思うし。
まぁストーリが1年後とかの設定だからしょうがないか。
そのあたりはストーリ能力ゼロの私ごときが何かいえるような簡単な話ではないのだろう。
とにかくご愁傷様です。どっちも。
ですが、願うなら、アイマス2においても多くの人が盛り上がってくださいますように。
そうしないとこちらとしてもおまんま食えないので。
かねてからニコニコ御三家のタブー感覚というのが昔からよくわからない。
バーチャで鷹嵐以外のキャラが削除になるとユーザがマジ切れして
鉄拳ではキャラが変わってもどうせ同じような技使うコンパチブルキャラいるから問題ない
という認識でいいのだろうか。
実際AKBはキャラいなくなるよね。
ああでも、あれは人気投票の結果で負けた奴が消えるからいいのか?
応援してそれでもダメだったらあきらめつく?
タニマチ次第では返り咲きとかあるんだっけか。しすてむがよくわからん。
あるいは
・ストリートファイターでは3rdで全面新キャラ路線に走ったが
結局4のメンツに戻った。
・一方KOFは12でキャラ減りまくったけど
すでにヘビーユーザ以外で過疎になってて問題なかった
数年以内にキャラが増える次回作の期待があったから持ちこたえた。
・ギルティギアシリーズはキャラを削れなくてストーリがまったく進まない。
という認識でもいいのかもしれないね。
実際、スト3→4になって再度狭いカルト的人気から、
ワールドワイドに広範なプレイヤー人口を取り戻したカプコン様の偉い人は
あと、にこにこ御三家のほかの2つのうち、東方も執拗に男避けしてるけれど
ボカロは男キャラが出てくるし、その結果同人でミクと男ボーカロイドのSexシーンが描かれたりするよね。
でも、そんなに大きな問題が起こっているとも思わないんだ。これについてはどう理解したらいいんだろうか。
映画の感想を書くから、これから鑑賞する人は読まないでね。「宇宙ショーへようこそ」と言う作品を観てきた。田舎で暮らす小学生が宇宙人と一緒に宇宙へ行ってトラブルで地球に帰れなくなるけど紆余曲折へて無事帰還するといったストーリーだった。なんとなく、某WEBラジオで話題に出ていたから見に行ったので、特別まえから注目していたというわけではない。事前情報として、監督のやりたいことは全部詰め込んだようなことを聞いていたからそのフィルターがかかって観ていたかもしれないけど、それ以外は予備知識無しでいってきた。
感想。よかった。わるくなかった。絵が綺麗。でもテーマがいくつもあって、絞りきれなかった感がある。どこが焦点になっているのか見ていてつかみづらかったというか。監督は理屈抜きに見れるものを作ったといっていたけど、かといってボケーっと観ていると分からないしつまらないんじゃないかと思う。もうちょっと各テーマを掘り下げてほしかったし、絞ってほしかった。感動がこま切れになってしまった。
今思い出す限りで、テーマとして
があったけど、例えば友情とも淡い恋心ともつかぬ感情が地球側の男の子(康二)と宇宙側の女の子(インク)に芽生えるテーマなんか、私はもっと見たかったな。掘り下げても良かった思う。たまたま宇宙人のポチに連れて行ってもらえたからその二人は出会えたわけで、でもポチは自由に地球に出入りできないので、要するに二人は分かれたら最後二度と会えない。切ないじゃないか。インクかわいいし。
面白かった。その上で、この本をキッカケに、
今後はマネジメントという言葉について「まずマーケティングから始めよ」が定着してくれると欲しい。
この本は、実にストーリがスムーズに流れる。それは、最初にゴールがわかりやすい形で設定され、
それが受け入れられやすい弱小野球部が舞台であったところにポイントがあると思うのだ。
「V字回復の経営」では、この本の最初の30ページが実現する時点までに、およそ9割のページが割かれており、
最初の30ページの部分こそが、越えなければいけない死の谷であり、マネジメントの本丸であると描かれている。
この「死の谷」の部分を思い切って他の本に丸投げしてしまい、最も難しいポイントさえ越えてしまえば、
後は「マネジメント」があれば何とでもなるよ、と教えてくれているのがこの本の良いところだろう。
これは、ラノベという、リアリティを無視した話だからこそ出来る良い話だと思う。
作者は放送作家さんだというが、まさにドラマとはかくあるべし、だと思う。
私は営業やってるが、よく「わかりにくい」と言われる。
私もお客様のことを考えれば、わかりやすくしたいし、わかりやすくするだけなら簡単だ。
だが、そのわかりやすさにあわせて製品を変える権限が私にはない。
わかりやすく言うと、その後に沢山の「補足」をつけることになってかえってわかりにくくなるのだ。
これは、マーケティングや営業が、一番最後に来るからだと思う。
会社があって、部署割があって、予算取りがあって、スケジュールがあって、
ようやくマーケティング部がその内容を知り、製品の説明やらマニュアルを作り出す。
営業は新製品のことを知るのはさらにその後である。
このように、マーケティングや営業は、会社の内側、製品開発の現場からは弾かれた場所にある。
それもコレも、ご立派なITシステムのおかげである。
お客様の声は、クソ忙しい中やたら細かい項目に入力させられるITシステムを通して
開発部に届けられるが、そこから上に言っているとは思えない。
私らの声が活用されたという声を聴かないからだ。
期初にある方針説明会で事業部長が使用しているのは、あくまで売り上げデータである。
要するに、1対1なら聞く耳持つ上司は一杯いるのだが、
私達の声の使い方の集まりの使い方をわかっている人などいないのだ。
この間、1年に1回のタウンミーティングとかいうので、
初めて私の所属する事業部の統括部長が、出荷時から半年間さんざん上がっていたバグのクレームを認識したのをみて、
ああ、私の会社でも、不祥事があったら雪印の社長と一緒になるんだろうな、と苦笑せざるを得なかった。
私達営業は、よく「お客様からの無理難題」をそのまま開発元に押し付けるので
会社は営業をひいきしている、とか陰口を叩かれているのをよく知っている。
だが、私達からしたら、会社は開発中心に動いていると感じる。
営業としてこちらから自主的に提案できることが少ないため、仕方なく
御用聞きに徹すること以外どうしようもない、と言うのが私の認識である。
こういう状態で、お客様に向けてわかりやすい何かを提供するにはどうしたらいいのか。
それを考えるのがマネジメントなのだとしたら、
マネジメントのスタートラインは、トップが、自らの活動の中心をお客様に持っていくこと、
つまり、マーケティングの観点から組織のあり方を考え直す、ことだと思う。
他力本願乙といわれればソレまでだが、
できることがあるなら、自分の給料の為にも努力を惜しむ積もりはない。
だから、もっと私達が努力できるような環境をトップに作っていってもらいたい。
「もしドラ」は、あくまで入門書で、この本だけではマネジメント入門にすらなっていないが、
「マネジメント入門の入門」としては実に素晴らしい本だった。
http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10478426944.html
こういうのを見てると
「あと5年もしたら
今後は、マスコミががんばってスクープし、ストーリでっち上げても
報道されている本人が事情を説明して透明性が高まってしまうので、
芸能界の事情通コメンテーターというこの世でもっとも不要な職業は消滅して
スポンサーや芸能事務所からの情報発信の中抜きをするだけの寄生虫になるのではないか」
とか
「公の場での失言などを必要以上にこき下ろすつまらない報道が増えるのではないか
ささいなハプニングを集めて喜ぶような、年に一度け十分なハプニング大賞を
毎日うすめて流すような虫の目報道局になるのではないか」
などという気になるのだが、実際にはないだろうなぁとも思う。
そして、携帯での利用の仕方は、テレビほど一方的ではないにせよ、受動的であることが多い。
たかが芸能情報なんざのために、わざわざ検索したり、本人のサイトに行ったりしない。
そんなものは芸能ポータルの情報で十分だ。真相(笑)など興味はない。
もちろん芸能やニュースポータルにはフィルタリングが何重にもかかっている。
ファンでもない限り、正しい情報を知ることはない。
もちろん本人達にとっては、一番恐ろしい「ファン」の誤解は避けられるがそれだけのこと。
今までどおり、報道の変化はないだろう。
あくまで報道の内容が変わるとしたら「もっと儲かるやり方」が見つかったときだけだ。世の中ゼニやで。
父はそもそも興味がない。
体制には何の影響もないのだろう。
ネット住人の方が強かろうけれど、マスコミは変わんないと思うよ。規模が小さくなるだけで。
ネットからテレビへ情報をフィードバックさせる番組がない限りは
もちろんネットの動きが大きくなり、押さえ切れなくなってテレビが屈した場合は
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51654318.html
なぜか「中学受験に成功した奴は高確率で堕落する」というストーリを信じたがって、
「中学受験を生き残った優秀な子供を活かす環境がない日本はやっぱりおかしい」という主張も
取りうるということを考えもしないはてな民のルサンチっぷりに絶望する。
個人的な感想では、難関中学受験合格者のうち4割程度は本当に優秀。(天才じゃないのがミソ)
中学受験は天才を発掘するのには全く役にたたないが、優秀な人間は確実に確保できる。
ぶっちゃけ中学に受かることと比べたら大学入試や司法試験など圧倒的に簡単。
中学一年の段階で中学のカリキュラムは速攻終了し、中学三年の段階で高校のカリキュラムも終了する。
後はひたすらブラッシュアップと言う名の退屈な授業が続くだけ。
私は落ちこぼれ組だったが、7割の人間は高校に入ったらもう受験に関してはやることが殆どない状態になる。
中一でセンター試験受けて700台取ってる奴もいたことを考えると
6年間というのはあまりにも時間に猶予がありすぎる。まして浪人もできるとかどんだけゆるゆるなのか、と。
少なくとも大学受験を受験戦争とか言ってるマスコミはちょっと頭おかしいと思ってる。
ただ惜しむらくは、日本の場合、中学合格すると殆どの学生にとってこれといった目標がなくなってしまうこと。
何でも「やらせれば」できるけど、「何をやるかを考える」力だけはない奴が多かった。
将来親の後を継ぐか、親の希望通り国家公務員、検事、弁護士、大学教授みたいな形で
行く方向性はもう親によって決められてるから、その支障にならない範囲でしか考えられなかったのだと思われる。
天才はいたのかもしれんが、おそらく親とか受験の環境がイマイチなのでスポイルされるんだろうな。
何度も言うが「やれば一定水準以上までは出来る」奴が殆ど。
目だった方向でいうと
数学オリンピックでメダル取ったり、囲碁や将棋の大会で全国優勝してみたり、音楽コンクールで準優勝してみたり
囲碁部の奴とは知り合いだったが、いわゆる「一度見ただけで完全に記憶してしまう」キモイ能力の持ち主だった。
世界史の教科書を本当に一字一句全て覚えて試験に出てきたが、彼のおかげで記憶するだけでは満点取れないということもわかった。
他にもはよから司法試験の勉強始めるカツマーみたいな奴もいた。
変り種だとバーチャファイター2の全国大会のベスト4とか、ストゼロ2の全国大会ベスト8みたいな奴もいた。
その他大勢は、得意でもないスポーツに遅ればせながら取り組むか、
読書を趣味とするなどして並の人間になってったのかもしれない。
と言っても、素質がないだけで、スポーツもこれまた結構出来てしまうんだがね。
ちなみに小学生の時はいわゆる神童扱いだった俺は、入学してからすっかり自信なくして挫折しましたとさ。めでたしめでたし。
私みたいについていけない人間もいることから、今の環境が必ずしもぬるいとは言い切れないが、
まぁ優秀な奴を無駄にしてるな、とは思う。
大学への飛び級は必須だと思うし、そうでなくとも、いろんな学習機会が提供されるべきだとは思うのだが何でダメなんだろうねぇ。
本当は自分のブログを立ち上げてそこで書けばいい話なんでしょうけど、どうしても書かずにいれられなかったので。
今回は直接的にこの記事に触発されて書いたものです。
さて、少なくともニコニコ動画御三家(古い表現だが)の中でニコマスはCGCなんて新しいムーブメントではない。
まずはvocaloid、vocaloidこそCGMの代表的コンテンツである。
vocaloidはツールであり、作り手の思い通りにコンテンツをつむぐことができる。
下敷きにする一次創作なんてものも存在しない。パッケージにかかれたキャラクターも、キャラクター展開も無視することも当然可能だ。
オリジナル曲を歌わせれば著作権の問題も完全にクリアすることも可能。
そして、二次創作のコミュニティを突き破って自己実現のツールとすらなる。supercellがそのいい例だ。
東方プロジェクト、これも二次創作とはいえCGMの形の一つだと思う。
zun氏が二次創作について明快かつ寛大なガイドラインを設け手いるのが大きい、そのガイドラインの範囲でなら著作権問題もほぼクリア
できるし、二次創作が更なる創作を爆発的に誘発する呼び水になっている。
キャラクターの設定が良い意味で薄い上、作品世界がが「閉じた」形式になっていないのも自由な発想での創作を可能とするのだろう。
さて、ニコマスはどうか。
ニコマスはどうしても二次創作という形から離れることはできない。一次創作のパッケージ化され閉じたストーリ展開に束縛される。
キャラクターには時間軸に沿った詳細な設定が施され、そこからも逃れることはできない。
さらに、著作権関連の問題は限りなくグレーである。バンナム含め様々な関係者からの黙認のうえにニコマスは成り立っている。
そうなると、ニコマスの進む道は、必然的に旧来の同人世界と同様「ファンアート」の範疇を進まざるを得ない。
一次創作の設定・キャラクター・ストーリーを最大限に尊重しつつ、それを自分の解釈で再構成し形にしていく方法である。
で本題はここからである
この記事を読み、さらにここで言及されている動画とSSに思いをめぐらしたとき、
Tomさんの態度について非常に共感するとともに、ニコマスへの接し方について改めて思いをめぐらさざるを得なかった。
「πタッチ」「とかち」という、アイドルマスターのゲーム内容からみれば全く関係のない部分から火のついたニコマスは、
ステージPV動画で驚異的な表現力を手に入れ、ノベマスや架空戦記ものでストーリーの語り方を手に入れた。
そして今、「im@sストーリー系PV」タグの隆盛を見るように、「ゲーム本編のストーリーやキャラクターの設定を再構成・再構築して映像化する」
という流れが中心になろうとしている。
この記事で触れられているtlopの作品は、ゲーム内での「オーディションの厳しさ」と「トップアイドルへ向かうことの厳しさ」を再構成・再構築して
映像化したものだし、一連のwhoPの作品は「アイマスゲーム内での美希と自分(whoP自身)のかかわり」を前面に押し出して作成されている。
そう、「製作者の設定・キャラクター・ストーリーを最大限に尊重しつつ、それを自分の解釈で再構成」という、ファンアートとしての作品が
高いレベルで輩出されるようになって来たのであり、これはニコマスとしては正常進化と言えるものだ。
しかしである。
この記事のコメント欄でグレゴールさんが言うところの「ニコマス作品は(特にPVは)“賛歌である”という側面がとても強くて、私にはそれが心地よい」と感じている
と感じている私のような人間は・・・。
今からゲーム本編を全クリアし、一次創作の設定・キャラクター・ストーリーを最大限に尊重できる態度を身につけたうえで、Pの数だけある「解釈」を
読み取れ共感できるようになればそれにこしたことはない。
だが、それが自分にできるだろうか。
「ニコマスに関わる人たちはそれぞれどのように振舞っても構わないし、自由です。
ニコマスPは彼女達に何をさせてもいいし、世界をどのようにしても自由なのです。」
Tomさんが呟いた当たり前の自由を、今の自分が許容できるのかとても心許ない。
ニコマスはこれからも進化していくでしょう。しかも、ファンアートとして正常進化していくでしょう。
私としてはその行く末を見て行きたいけれど、私のような存在は「進化していく上での遺物」と化していくでしょう。
それでもいいのです。
「ニコマスに関わる人たちはそれぞれどのように振舞っても構わないし、自由です。
正直門外漢だから、適当なこと言うけど、昔みたいに書けなくなったんだったら、昔のやり方とは違うやり方で書いたらどうか。
日記になるようなネタが沢山あるんなら、それをネタにして脚色して主人公に仕立て上げて空想世界に放り込んでしまったらどうか。
まぁ、なんでこんな事を書いたかというと、1行目の森博嗣を思い出したからなんだけどね。あの小説は大学教官時代のネタがもりもり入ってるんだろうなぁとか思った。
ずっと小説家になりたかった。
幼い頃から本が好きで、物心ついた時には小説家になりたいと思っていた。
「みのり伝説」というマンガを読んで、ルポライターもいいなぁと思ったこともあったけれども、基本的には小説家になりたかった
学校でよく空想に耽り、小説を書いていた。ストーリィはいくらでも思いついたし、どんどん膨らんでいった。
大学3年のときにようやく気がついた。自分には才能はないのだと。
諦めて今の会社に勤めてもうすぐ3年になる。
最近自分を見つめなおす機会が多くなってきた。そして小説が書けない自分がいることに気がついた。
昔はあんなに書けたのに。思いついたのに。考えるのは自分の仕事やプライベートのことばかりなのである。
mixiの日記ならすぐ書ける。どこに行った、何を食べた、楽しかった。
でも私はそういう日記を書く大人になりたかったわけじゃないのだ。
何で小説が書けなくなったのだろう。
答えは考えても出ないのだけれど、まず言えるのは私が小説を書くことを捨てたことが起因だと思う。
人生において小説を書く時間を不要なものとして、切り捨てたのだ。
私から捨てたのに、今こうして喪失感と寂寥感にとらわれているのはエゴの塊だということは理解している。
その程度で切り捨てられて、小説をまったく書かなくなる時点で小説家になる才能がないことも理解している。
けど、私は小説家になりたかったのだ。
ペ・ドゥナが心を持ったダッチワイフ(はいはい、空気人形ですね)を演じる映画。
事前の予想・期待を裏切られた点が二つあったので、それについて書きたくなったのだが、他にかけるところがないのでここで書く。
でも、別になにかちゃんとしたまとまりがあることを書くわけではないく、ただ感じたことをだらだらと書くだけ。
なので別に面白いものでもなんでもない。そんなものでも書ける増田って便利だな。
また、ストーリの解説をやるつもりはないが、ネタばれは盛大にしていくので、映画をこれから観るつもりの人は読まないでください。読んでも面白いことは書かないしね。
まず第一点。この映画、予告編を見た時点で即、観に行く事に決めていた。予告編に映し出された、ペ・ドゥナ、オダギリ、あるいは是枝監督のゆえ、ではなく、板尾創路の演じるダッチワイフ所有者の悲哀のゆえ。
あまりに悲しい...だって、自分のダッチワイフに別の男へ走られて、捨てられるんだぜ!
「サマーウォーズ」とか「時をかける少女」を観て落ち込む男が色々といるようだけど、そういう人達にも観てもらいたいな。
俺は「サマーウォーズ」を観ても特に何も思わなかったんだけど、あれで落ち込む人達にはこれに何か感じたりするのだろうか?
予告編の中でペ・ドゥナはARATAとデートをし、自分の作り主であるオダギリ・ジョーに出会う。はいはい、やっぱ男前の方がいいよねと(まあARATAはそんなに男前ではないが)。
なので映画的にそこら辺は当然だろうと思ったのだが、同時に俺としてはこの綺麗で幻想的なように見える作品のなかで、板尾の役にはどういう結末が用意されているのだろう?という点に関心を持った。
予告のなかでも板尾はペ・ドゥナに元に戻ってくれ、と頼むシーンがあるのだが、俺はそこに行くまでにペ・ドゥナに精神的に裏切られていた事がわかって傷つくシーンがあるのだと勝手に思っていたのだよね。
劇中、心を持って動くようになったペ・ドゥナのダッチワイフは板尾以外の人間からは人間として認識されるが、板尾からはダッチワイフとして認識され続ける。なので板尾はペ・ドゥナと一緒に風呂に入ったり、膝枕をしてもらったりする。この膝枕のシーンで、俺は恥ずかしながらまじうらやましさを感じたのだが、でもその裏でペ・ドゥナはARATAの事が好きになり、板尾からのキスを避けようとしたり、板尾が眠った後、シャワーを浴びたりする。板尾はペ・ドゥナは完全に自分のものだという幻想の中にいるわけだが(だってダッチワイフだからね)、ペ・ドゥナの心は完全に裏切っていた。
だから板尾に一体どういう決着をつけてやるのかと思っていたら、何のことはない、板尾は完全に女の形をした自分の鏡がほしかっただけ、という設定なのだ。ペ・ドゥナに心があることが分かった後でも、板尾は精神的に裏切られていたことを知る事はないまま、心をなくしてくれと頼む。俺が興味のあった点は、まるでペ・ドゥナの方が被害者である、かわいそうな存在というポジションを取ることで解決されてしまっていた。板尾が「ダッチワイフ」のペ・ドゥナとラブラブ一人芝居をしている裏で、ペ・ドゥナはARATAに恋して、そして悔しいかな正直、非常にかわいいデートをしていたりして、はっきり言って板尾の方が滑稽な哀れなピエロであったというのに。
で、第二点。そういう勝手な期待をしていたものだから映画の中盤くらいでなんか肩透かしを食らわされた様に感じたのだけど、実はその後、この映画はこっちがまったく予想していなかった素晴らしい方向で予想を裏切ってくれる!救いの神はなくとも、悪意の悪魔はいるというか。なんとこの映画の後半には、モダンホラーのイメージがあるのだ!モダンホラーは日常生活の中に紛れ込んだ恐怖を描くものと定義されているとおもう。この映画は半分過ぎまでファンタシーの要素がありつつも、基本日常生活を描写していく。そこからオダギリジョーの人形制作所へ...あのシーンで、「悪魔のいけにえ」の地下室を思い出したのは俺だけではあるまい!
そしてペ・ドゥナとARATAの最後のからみ、さらにその後のシーン。すばらしい!善きことを意図しながら、意図していた事とは全然違う結果になるという、経済学で言うところの Unintentional Consequence!って、ちょっと違うけど、でもあの意図のすれ違いはすばらしい。そしてそのシーンのペ・ドゥナが美しい。正直あそこで終れ!とすら思ったよ。ま、こんな事を思っているような人間だから、俺は板尾の役に共感を感じたりする事になるんだろうがな。
賀東招二と新城カズマ、二人のライトノベル作家が、「ストーリーはいらなくなるのではないか」ということをおっしゃったわけですが。
・実用書『物語工学論』でカットされた賀東×新城特別対談の中盤盛り上がり、どーんと一挙無料公開! - 散歩男爵 Baron de Flaneur (Art Plod版) http://d.hatena.ne.jp/sinjowkazma/20090905/1252143285
・賀「最近のアニメとか受けてるものととか売れてるものとか見てて、否定する訳じゃないんですけど、もうそれが受けてるんだったら、ストーリーとかいらないじゃんて。俺らが頑張る必要があんまりないというか。かわいい女の子が出てきて、よく動いてればいいんだったら出る幕ないなあ、というか」
・賀「実はストーリーって必要ない?」
・新「うん、あんまり必要じゃないのかもしれない。少なくとも、いわゆる古典的な構造というやつは」
・賀「今そこでかなり悩んでまして……」
・新「もちろん、それを必要とする人はいるんだけど、本質的に必要か?というと」
・賀「そうじゃないかもしれない」
なんのことはない、杉良太郎とか、野口五郎とか、草刈正雄とかのミーハーファンとおんなじ酔い方なのよ。そう、ミーハーなのよ。
ここ数年、そういうファンが劇場アニメの半分以上を占めているといえるね。そういうファン向きに、観客動員を計算してつくるとね、一般にアニメといわれているものの内容とは、ちょっとちがってくるわけだ。べつに動かなくってもいいんですよ。“口パク”といって、ただ人物が立っていて、口をパクパクさせているだけの動きでも、かっこよく美形で、声優がごひいきのタレントだと、「ムフフ、キャーッ」なんですよ。こういうお客を相手に、当分はアニメの企画をたてなきゃならんとなると、こりゃあ困るねえ。
もちろん、それ以外のアニメもありますよ……(引用者略)……そういうのに、ミーハーのドマニア達を呼びよせる方法はないものかねえ、ないだろうねえ、まず相手になんかしないだろうね。
似たような内容ですよね。自分が力を入れてやってきたことはもう流行らないんじゃないか、みたいな。
・賀東・新城「がんばってストーリーテリングをしても無駄。かわいい女の子が動いてればそれでウケるんだから」
・手塚「がんばってアニメを動かしても無駄。美形のキャラに人気声優が声をあてていればそれでウケるんだから」
作家がキャリアを積むとこういう不満がたまってくるのでしょう。
※ ※ ※
で、ハルヒなんですが。
・賀「ストーリーは必要なくなる。最近の系統ですよね。おなじみのキャラクターが出てきて、なんか話してるシーンがあるだけで。別に何か起きなくたってかまいやしないんですよ」
・新「最近のラノベの中興の祖みたいに言われてるブギーポップやキノって、実はむしろ昔ながらのタイプの小説なんだよね。ストーリーテリングの比重がでかくて。ハルヒや生徒会や、らきすた、けいおん!みたいな流れとは、間に分水嶺があるんじゃないかな。ハルヒも、1巻と2巻の間に分水嶺がある。1巻て実に古典的でよくできてる小説なんですよ。我々が言うところのストーリテリング」
私も、2巻を読んでこの小説はストーリーテリングを放棄したなと思いました。具体的には2巻冒頭の、キョンが真相を明かしてもハルヒは信じなかった、というシーンで。
そのため2巻以降はストーリーがまったく進んでいません。様々なエピソードを積み重ねてはいますが、どのエピソードも最後には1巻で提示された初期設定に戻るようになっています。
あとはもう、初期設定をイジってどれだけ面白いエピソードをひねり出せるか、ということでしかないわけです。
したがって、ハルヒ小説にストーリーが無いというのは同意するところなのですが、それが新しい潮流か、といわれると、違うのではないかと思います。
ストーリーが無い作品というは、マンガでは昔からあるおなじみのものです。「サザエさん」「ドラえもん」「うる星やつら」「忍たま乱太郎」などなど。(また、小説でも「フルメタル・パニック!」や「スレイヤーズ」の短編って、そういうものだったんじゃないでしょうか。「スレイヤーズ」は、長編が終わっても短編は終わらず、長編よりも短編の方が多い状態です。)(それと、テレビドラマなら「水戸黄門」があります。)
ストーリーが無い作品は昔からあるわけですし、また人気を博した作品も少なからずあるわけです。一部のストーリーが不要な作品が目に付いたからといって、ストーリーが“本質的に”不要であると考えるのは早計でありましょう。
ハルヒが本格的にブレイクしたきっかけは2006年のアニメですが、ハルヒアニメはTV放送時には時系列シャッフルをしており、小説1巻『涼宮ハルヒの憂鬱』の最後がアニメの最終回になるようになっていました。
“古典的”で“ストーリテリング”がなされている長編が、TVアニメシリーズの軸になっていたのです。(長編の間に短編が挿入されるという構成は、富士見ファンタジア文庫の長編と短編の同時展開を彷彿とさせます。)
時系列シャッフルにより、視聴者は時系列順にみていくよりも謎が多いように感じました。アニメは原作よりも歯ごたえのあるストーリーを展開をしていた、といえるでしょう。
ハルヒシリーズがブレイクしたきっかけはアニメであり、そのアニメは原作のストーリーを最大限に活かすような構成になっていたのですから、ハルヒシリーズにストーリー要素は不要であると考えるのも早計でありましょう。
それと、結局のところ、ハルヒ小説にもストーリーが必要だったのではないかと思います。
「あのね、キョン。この団を設立してそろそろ二周年目なのよ。期限は迫ってんの。一年活動やってて結果ゼロじゃあ示しがつかないでしょ?」(『涼宮ハルヒの分裂』 第一章 p.118)
とのたまうハメになったわけですからね。成果ゼロですよ。ゼロ。
ハルヒが高校1年生のときに事態はなにひとつ進展しなかったわけですから、そのまま2年生になっても、なんにも進展しないでしょう。進展させようと思ったら、やはり“ストーリーテリング”をするしかない、“古典的”なことをやるしかない。
今からでもストーリーを進めることは可能ですが、小説2巻以降ずっとやってこなかったのを今更やりだしたって大惨事になるでしょう。
もともとハルヒ小説はストーリーがあきらめきれてないところがありました。回を重ねるごとに謎が増えたりしていますから。作中で時間が進んでいるので、今後の展開で謎が明かされていくといった進展があるのだろうと期待させてはいるのですが、実のところストーリーは進んで無いのですから、どうにもならないでしょう。謎をいつまでもひっぱってグダグダになるか、あっけなく解明されて肩透かしを食うことになるか、のどちらかになる可能性が高い。過去にもそうやって破綻していった作品があります。
ストーリーが無い作品は、ふつう、時間の流れを止めることにより破綻を回避するものです。さきほど挙げた作品、「サザエさん」「ドラえもん」「うる星やつら」「忍たま乱太郎」では、キャラクターが進級することはありませんよね。しかしハルヒは進級してしまった。進級したせいでハルヒ小説は、破綻するかストーリーを進めるかのどちらかを選択しなければならなくなったといえるでしょう。どちらも困難な道です。
ハルヒ小説は『涼宮ハルヒの分裂』以降、刊行がストップしています。どういう理由があるのかは知りませんが、行き詰まっちゃったんじゃないかなあと私は思っています。
※ ※ ※
ちなみに、「けいおん!」についてはストーリーがあると思います。メンバーが出会ってバンド結成して練習してライブして、という時間の流れがちゃんとあるわけですし。学年が進んで後輩が入部してきたりしています。SOS団の団員がまったく増えてないハルヒシリーズと違って進展していますよ、これ。
「ストーリー4コマ」という言葉もありますしね。もともとストーリーの存在しない4コマ漫画にストーリーを求める人がいたのでそいういうジャンルが生まれたのでしょう。
本当にストーリーが不要だったら、「ストーリー4コマ」なんてものは存在しないでしょう。
※ ※ ※
作品にストーリーがあっても、それが無視されてキャラクターだけが消費されていくのならば、やっぱりストーリーは不要なのかもしれませんが、ストーリーが無視されているという証拠はまだ出揃っていません。
まあ、その、ぶっちゃけ、賀東・新城のお二方には「受けてるものとか売れてるもの」のストーリーが見えてないだけなのでは? と思わないでもないです。
本当は作品にストーリーはあるし消費者も必要としているのだけれど、それが感じられないために、ストーリーが必要ないことを“発見”してしまったのではないかな、と。
興味を持ってその当時読んでみたんだけど、
死のにおい(と閉塞感)がぷんぷんして
最初のほうを読んだきり読むのを途中で投げた思い出がある。
死のにおいがぷんぷんしてだめだった(こっちは最後まで読んだけど)
ノルウェイの森も自殺ものだと聞いて読んでない(元になった短編の作品は読んだ。ダメだった)。
どうしても読めない(「100歳のおばあちゃん先生」はノンフィクションだけれどもきつかった)。
要はガキなのか、死の恐怖に耐えられないのか、
ナディア(『ふしぎの海のナディア』アニメ)は最初はショックだったけど、
何度も見れた。ほたるの墓は無理。
死を描いた作品でも
いっぺん最後まで我慢して読んで感動すると、何回も読んだり見たくなるもんなのかな。
まぁ内容によるのだろうけど(自殺ものと仇討ちものは全然違うから)、
内容が読む前はわからないから取捨選択はできないよな。
この前バラエティ番組を見ていたら、田中義剛の花畑牧場で生キャラメルが作られている様子が映っていた。牛乳を銅鍋で煮詰めるところがポイントだそうで、工場には多くの銅鍋があり、大勢の人が付きっ切りでヘラを使ってかき混ぜていた。で、商品の売りは『手造り』だという。
生キャラメルは品薄だと聞いていた私は、その生産の効率の悪さに驚いた。人力で牛乳を加熱するところにどれくらいノウハウがあるか正確には分からないが、現代の自動化の技術を持ってすればある程度の省力化が図れると考えたからだ。その分、生キャラメルの値段を下げたり、もっと多くの人に届けることも出来るだろう。
と、ここまで考えたところで、嗜好品=みやげ物、でそういう努力をする必要はないのかも、とも思った。『良い材料で手造りで作られた』というストーリを売り物にしている限り、資本主義の論理は成り立たない。ここで、『良い材料』というのは『十勝の厳選された牛乳』なので、他の地域の牛乳が成分が同じで安価であっても、使うことはできない。
続けて中国の工場の話を思い出した。日本では精緻な自動化ラインを構成して量産しているが、中国では人件費が安いので自動化のところを人の手でまかなうことが出来る。例えば自動化の中でも搬送系は大掛かりで、後からのカスタマイズが難しく、かつ故障も多いところだが、人力ならばそんな心配はない。
田中義剛は実業家だという。だとすれば生キャラメルのブームがいつか終焉することに気付いているだろう。もし省力化のために設備投資をする場合、生産量の予測がつかないブームはリスクでもある。一方『手造り』ならば、需要に応じて人手を調節すればよい。資本主義で感情を抜きにすれば、人間は機械もずっと安くつく、ということになるだろう。
同情というものは理解を妨げる。
そういう人間は、最初から相手を理解するつもりがない。
関わりを考慮せずに、外側からコンテンツとして遊んで消費してしまおうとしている。
あるいは、自分を投影して勝手にストーリを捻じ曲げてしまおうとする。
悲しんで見せるのも、行動が伴わなければ「遊んでいる」だけ。
当事者としては、同情するだけの人は(少なくともはじめの頃は)迷惑なだけだ。
なぜなら、他人の感情を受け止める余裕がないから。
感情はいらないから、そんなことより「はやく何とかしてほしい」のだ。
もう少し要求を落とすとしても「理解した上で協力してほしい」のだ。
「理解しようとする」だけでもいい。
そういう点からしても、同情する人間というのは何の役にも立たない。
むしろ上記のような誤解や欲望のせいで、問題解決の妨げになるだけである。
同情するくらいなら、己の曇った眼を何とかして現実をまず把握してほしい。
耳と目を閉じ口をつぐんで静かに暮らしておいてほしい。
困ってる人間としては相手が自分を見ようとしているのか、それとも
相手自身の欲望(同情したい欲など)を満たそうとしているだけなのかは、すぐにわかるのだから。
最初ははてなクエスチョンでやろうと思ったけど「弁解」部分が長くなったので、はてな匿名で。
一応こういうのはあった。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3099985.html
今年に入って5作品くらいラノベ読んだが、自分より年下の年代の物語とは言え
登場人物のふるまい、特に主人公の物わかりの悪さというか幼さにイライラさせられることが多かった。
いや違うな。その主人公たちについて、説教臭い作者の主張みたいなのがにじみ出ているのが耐えがたかった。
(ちなみに、エロゲも今年2本くらいやってみたんだが・・・エロゲはもう諦めた。ガキを通り越してキモい)
もちろん若い読者を対象にしているのは理解しているし
登場人物が成長していったり、若さゆえに、躓きながらも大人にはできないことを成し遂げるなど
そういう部分を楽しむのがラノベなんだろう、とは思ってる。
だから、そういうものを否定するつもりは全くない。
私が言いたいのはただ、
そういう切り口で誰か作品を紹介してくれないかなーというだけ、です。
あらかじめ突っ込まれると思うのでセルフツッコミをしておくと、
「そういうのが読みたいなら歴史小説とか社会人小説とかSFとか読め」って言われても仕方ないとは思う。
もちろん読んでるけれど、ラノベにちょっと興味があってそういうの読んでみたいという話です。