はてなキーワード: 愛犬家とは
http://anond.hatelabo.jp/20151002003234
の著者が
http://blogs.yahoo.co.jp/ut_kankyo/42274104.html
「当会が問題と考える点」(東大 キャンパス環境の改善を求める有志)を読んだ。
匿名ブログでくだをまくことしかできない私と違い、実際に駒場の学生支援課と駒場図書館と交渉されているそうで、その実行力に敬意を表したい。
その上で、「東大 キャンパス環境の改善を求める有志」の会の方々は、主に駒場キャンパスでの問題に取り組まれているようなので、本郷キャンパスへの「学外者」立ち入りに関する所感を以下で述べてみたい。
というものだ。
本郷キャンパスへはじつに様々な人たちが出入りしている。センター試験と2次試験以外の日に、もっともよく見かける人たちをあげてみるだけでも、これだけいる。
これだけの人たちの立ち入りを制限して、正門でいちいち入構手続きを求めるのはさぞかし大変だろう。
とはいえ、本郷キャンパスが観光地化しているという指摘はあたっている。
毎日のように大型バスが何台も大学前にやってきて、中高生や観光客の団体が列をなしてキャンパス内に入ってくる。日本国内からだけでなく、中国、韓国、台湾といったアジア諸国からやってきたらしい団体もよく見かける。
これらの人々が固まって道を塞いだり、騒ぎながらセルフィー棒で写真をとっているのを見かけて、眉をひそめる東大生がいたとしても全然おかしくないと思う。
しかし、「学外者」の立ち入りを完全にシャットアウトすることは難しいのではないかと思う。本郷へやってくる人たちのなかにはきっと、東大に漠然としたあこがれを持ってやってくる人もいるのだろうし、そうした人たちに対して大学も悪い顔はできないだろう。
キャンパス内を物珍しそうな顔で歩いている中高生が、10年から20年後には、彼らを迷惑そうに見つめる東大生をはるかにしのぐ立派な研究を東大でやり、場合によってはノーベル賞も取ることだってありうるのではないだろうか。
先日話題になった世界大学ランキングでトップ10に入っている大学で、私が訪れたところはいずれも、東大よりはるかに観光地化が進んでおり、観光客でごったがえしていた。大学の主要な建物の周りには土産物屋が立ち並び、大学のロゴが入ったパーカーやTシャツを売っている。その周辺にはカフェやレストランがあり、一つの経済圏を形成している。
大学の方もまたしっかりしたもので、歴史的な建物やカレッジは入場料をとり、一日のうち限定した時間帯に立ち入りを許している。立派な美術館やカテドラルを持っている大学(カレッジ)は、これらの入場料から収入を得ている。
こうした大学で観光客と学生とのあつれきが問題になりにくいとしたら、先のエントリでも述べたように、もともと大学と周辺の街との境界線があいまいだからだろう。
東大の場合、キャンパスの内と外の区別がかなりはっきりとしており、キャンパス内が手狭なので、そこに多数の人が一挙にやってくると、学生はストレスを感じやすいように思う。
本郷キャンパスでは現状で、研究棟に「学外者」が団体で入ってくることはないので、研究室にこもっているかぎりでは、「学外者」との間で問題が生じることはない。
「学外者」が大声で話すことがあったとしても、現状では、研究棟の造成工事や、総合図書館の新設・改築工事の騒音のほうが、はるかにうるさい。
問題が生じるのは、学生と「学外者」が共有するアメニティスペースや、「学外者」の団体立ち入りを許している施設だろう。
まず、キャンパスに立ち入る「学外者」のうち、もっとも人数が多いのは修学旅行の団体であるが、彼らは門の前にしゃがんで集合したり、狭い道で立ち止まったりして完全に通行を遮断することがあり、引率の教員もそのことに気づいていない場合がある。
また、修学旅行生やウオーキングツアーの団体が昼時に中央食堂へいっせいにやってくると、数十分間の間、学生にとっては食堂の機能が完全にフリーズしてしまう。このため、12時から13時までのあいだ、「学外者」の利用は遠慮してもらうよう依頼する貼り紙が入り口にある。しかしこの制限がかかる時間帯の直前にやってくる団体は結局制限時間帯になってもいる場合があり、あきらかに貼り紙を無視している人々も制限時間帯に複数いる。授業の合間や、実験や論文執筆の合間をぬって食堂を利用したい学生にとっては、食堂が一体誰のために、何のために存在しているのかわからないと憤慨する時があっても無理はないように思う。
総合図書館は、現在は工事中で「学外者」の見学を受け入れていないが、それ以前はキャンパス内ツアーの経路に入っていた。中に入る「学外者」は、大きな声で話すということはないものの、多数の人達がドカドカと足音を立てて閲覧室に入ってくる。彼らは勉強中の学生の姿やノートを、好奇心いっぱいで覗きこんでから、無言で立ち去っていく。このようなことを毎日のように繰り返されて、いい気持ちがする人はいないだろう。
医学部前の広場は、日暮れ時は、愛犬家の交流スペースとなっている。犬と人が遊んでいるのを見るのは心和むひとときであるが、一部の人は、人通りが最も多い昼休み時に犬を連れて狭い道を歩きまわっており、さすがに周囲への配慮が足りないのではないかと思われることがある。
キャンパス内でただくつろいだり歩きまわったりしたい人を追い出してしまったら、そこは学生にとってもさぞかし息苦しい場所だろう。
とはいえ、学費を払って真剣に勉強している学生が、配慮が足りない一部の人々の行為に対して黙っている必要はないのではないだろうか。
キャンパスにやってくるさまざまな人が快適にひとときを過ごすことができるように、お互いの存在に気づくことができるように、声を上げることは、全然おかしいことではないと思う。
たとえば、
大学の教職員は、学生が集中して学習できるように、もちろん日々配慮しているだろうが、かれらは幾分年をとっているため、細かいことには気づかない場合がある。
年を取ってくると、10代後半から20代前半の学生は、教職員にとって、生理的に、まったく別の生き物に感じられるようなので、学生の細かい要望に応ずる善意があったとしても、そもそも相手が何を望んでどのように感じているのかわからないのではないか。
また、任期がない教職員は基本的に国家公務員のメンタリティを持ち続けている(彼らは文部科学省の社会保険に加入している)ので、自分がクビになるリスクがない限り、何らかの業務改善をしても得られるインセンティブはそれほど大きくないという認識を持っている。なので、文句をいわれないかぎり、学生の要望を察知して自分から動くということは、あまりない。
はてブを使い始めてどれくらい経つか分からない(でもべつに古参なわけでもない)けど、
ふと一番印象に残っているものはと考えてみたら、先の震災後に書かれたひとつの記事を思い出した。
それは自宅が被害を受けて避難所に移ることになったある家族の話についてふれたものだった。
一家には家族同然に可愛がっている飼い犬がいたが、避難所に連れていくことはできないため、
まだ小さな娘は、「どうして一緒にいけないの!モモ(仮)は家族なんでしょ!?」と
離ればなれになることにどうしても納得できない。
そんな娘に対して父は、「モモ(仮)はたしかに家族だ。でも家族でも一緒に暮らせないこともある」といった感じで(曖昧)、
「娘を思う父親の気持ちは分かるが、それは欺瞞ではないか。一家にとってその飼い犬はたしかに家族に限りなく近い存在だったが、でも家族ではなかったのではないか」
と指摘する。
なんともすっきりしない話だけど、もしかしたら要旨は別に(本当に娘のことを思うならうんぬんとか)あったのかもしれない。でも覚えてない。
当時この記事を読んだ私は、そんなこと言ったってなあ…とモヤモヤした気持ちだけが残った記憶があるのだけど、
3年あまり経って、気づいたら他のどんな記事より印象に残るものになっていた。
私はとくべつ愛犬家ではないし、彼らと同じように震災で家を追われたわけでもないのに、
どうしてこの記事が一番記憶に残っているのか自分でもよく分からない。
分からないけど気になるから、もう一度読み直しみようと思って自分のブックマークを検索してみたら、
震災のタグで追っても、キーワードで全文検索しても見つけられなかった。
「そこで犬のうんち踏んじゃうかね?」
タイトルでなんじゃそりゃ、ってなっちゃうけど、この歌詞を要約すると
初デートで迎えに来てくれたけど犬の糞踏むとかありえない。
なんでウンコ踏むわけ?台無しじゃんありえない忘れられないんですけど。
こんなかんじ。
転載は趣味ではないので歌詞をご覧になりたい方はこちらなどどうぞ →http://www.kasi-time.com/item-65497.html
っていうのはどうでもよく。
この歌の主人公の彼は、彼女を迎えにオープンカーで颯爽と現れるのです。
家の前でクラクションを鳴らし、彼女のためにドアをあけるために車を降りるんですが、そこで
踏むんですよね。
って歌なのは前述したとおりなんだけど個人的には
「なんでそこに犬の糞が落ちてるんだよ」
彼女がマンションに住んでるのか、一軒家に住んでいるのかはわかりませんが、
どちらにせよ、家の前に犬のクソが落ちているなんて結構ショッキングですよね。
片付けろよ。
片づけてるよ、って犬の飼い主さんは言うかもしれません。
そんなの一部のマナーの悪いやつらの仕業で、みんなが悪いわけじゃない。
袋かティッシュかトングか知りませんが持ってるよって言うかもしれません。
話が変わります。
私は犬が大嫌いです。
犬を散歩してる人を見れば無意識で睨んでるレベルで嫌い。大嫌い。
家の近くを散歩してる人を見つけたら、家の前を通り過ぎるまで監視する。
ウンコしないように?
いいえ、ションベン垂れないように。
ぽろぽろこぼれるウンコは拾っても、小便垂れたらそのまんま。
電柱、看板の脚、すみっこ、公共の場所だったらいいって考えかもしれないけど
それにウチの近所に、私の家の前で小便させる奴が居て本当に困っている。
花壇の端や自転車置いてるところの低い壁が気に入ってるようでよくやられる。
どうして人の家の前にさせるのか…本当に理解に苦しむし不快すぎてたまらない。
「私は人の家の前ではさせないよ」って、そこじゃねぇよなこと言われて。
じゃあ小便垂れたときどーしてんの?って聞いたら
「水かけてるよ」って。
ほぅ・・・
水持ってるよ、って言う人は大概、350mlサイズの小さなペットボトルを持って
小便垂れたとこにピッピって撒いてるだけ。
もう少し考えてほしい。てゆうかオムツさせて散歩しろよマジで。
気持ち悪くてしかたがない。
生物として形態が違う上行動が違うからそれを制限する。そこまでは良いとしてさ、
例えば、このまえはてなのマスコットとされてた犬が死んだとき、
その死に顔をブログにアップしてたことがあった。
死んだ以上、その犬の行動などは全く関係ないわけだ。後は、それをどれだけ尊重してるかどうか。
一見、人間の様に布団みたいなのに寝かせてることは人間と同じように扱ってるように見える。
だがしかし、それをブログなんて言う糞みたいなメディアで発表、顔も載せる。
それ、自分の子供でもしますか?自分の子供の死に顔をブログなんていう不特定多数が見る様なところに乗せて広く皆に見せたいと思いますか?
愛犬家とか愛猫家とかを自称していて、実際かなり写真を撮ったり口を開けば自慢したりして、可愛がって、なのに死なせてしまった人ってのはどのくらいいるのかな。
自慢するようなことではない。むしろ恥で、だからあんまり「そういう人がいる」と認識できないのだと思うし、本当に可愛がっていたと感じるようであれば、それは不慮の事故とか何かしらの仕方ない理由なんだろうと納得して印象に残らなかったのかも。
3ヶ月くらい前に愛犬が死んだ。
仕事を終えて、新しいドッグフードと賞味期限間近の割引された寿司を買って、晩酌しようと思って帰ったら、もう生きていなかった。寿命にしては早すぎる死だった。
5年は一緒にいたと思う。
学生時代の私の欝がひどいときに家に来て、3年前に独り暮らしをはじめたときも連れて実家を出て、ずっとずっと一緒だった。そして、私の心の支えだった。
世話をあまり見られないほど精神的に弱い時期もじっと、ほとんど黒目の瞳で寄り添っていてくれたのに
仕事がうまくいきはじめて多忙になり、やっと一つ大きな躍進を得た、と考えて帰ったその日にもう手遅れだったことを考えると、もっと何かしてやれたはずではないかとずっと考えてしまう。
依存するばかりの時はそれなりに見ていたのに、驕ったばかりに苦しませて独りで逝かせてしまうことになったのではないか?
だけどその、私の後悔を誰も責めない。
本当は私だってよく知らない人に「お前が仕事仕事でろくに面倒を見なかったから・・・」「ふれあいを含む世話を放棄したのなら、それは既に虐待で・・・」と言われたくは無い。
私には私なりの事情や考えがあったので、それを前提として知っているくらいの親しい人には叱って欲しい。
しかし、ある程度私と親しい人は、私を責めたりしない。
私のバックグラウンドを知っている人は「大変だったね」とか「突然でショックだろうけど」とか、言葉をまず選び、
そしてともすれば、「きっと没頭できる仕事を見つけたから、天国で待っててくれるように先に行ったんだよ」などとのたまう。
私が欲しいのはやはりそういう言葉でもなくて、なぐさめや例えや、擬人化した勝手な代弁ではなくて、
事実を事実として同じ過ちを繰り返さないようにとかいう建設的でシンプルな答えなのだけど、
どういうわけかそれにすら触れてくれる人は少ない。というか、いなかった。
(もっとも「できるならば時を戻したいが、それをするのは不可能である」と分かっているのが一番のジレンマではあるのだけど・・・)
火葬した日のうちかその次の日に近くの医者に行った。昨日犬が死んだ、眠れない、不安だ、と言うとデパスとレンドルミンを処方された。
人間でもないのに急なことで1日職場から休みをもらったから(夏の暑い日だったから、腐敗するのも早いだろうとすぐ火葬を手配した)あんまりのんびりせずに復帰しなければならないと思った。それに、じっと自室にいるのも嫌だった。
死体があったからではなくて、静かすぎて、色々考える余地ができてしまうから。
眠剤を飲むのも久しぶりだったが、案の定おねしょをした。金縛りにあったように眠るので、それ自体はあまりショックではなかったが、
困ったのは現実感が薄れていることで、ふと餌をやろうとしてしまったりする。
それ自体はよく聞く話でもある。
ただ薬のせいなのか、しばらく夢に生きた飼い犬が出てきて
、実感としては朝じゃれたり舐められたり餌をやったりして、風呂に入り仕事に行き、帰ってきて骨壷に100均で買ってきた線香を上げるような毎日。
よくわからないままに1ヶ月・・・2ヶ月・・・と過ぎてしまった。
眠剤を処方されなくなってしばらく、とてつもなく恐ろしい気持ちがこみ上げてくる。
一目見ただけではわからないような、生きたような死体に触れて「死んでいる」を目の当たりにした時もわんわん泣いた。しかし、その直後から「死」の実感は消え去っていた。
それが、最近やっと「死」を実感しつつある。
じっくりと薬なしで向き合ってたくさん泣くべきなのかもしれないし、そんなことをしていたらいつまでも終わらないのかもしれない。
思いつくままに書いておそらく時系列めちゃくちゃだし推敲もしてない。明日も仕事なので寝るけど、腰を据えて考えながら、起きて落ち着いたら見直そうと思う。