はてなキーワード: 恥の文化とは
本当に日本「だけ」かは知らないけど。
今回の事件だけでなく過去の類似案件でも自己責任論でのバッシングがありまして、同様の帰還者を「英雄」として迎えた国との温度差で海外メディアがびびったとか。
そもそも日本はアメリカみたいに多民族が入り乱れる社会じゃないので「地域唯一のコミュニティに入れない=死」みたいなところがありました。出る杭は叩かれたら終わり、必死に叩かれないように生きてきた。
そんな所謂「恥の文化」の中で、最も重い罰はコミュニティからの追放です。「村八分」といいます。
そんな価値観があるため、わざわざ忠告も無視すらして捕まりに行った安田さん、「自分からコミュニティを抜けた奴とか知るか」、「自己責任だ」ってのはわりと自然な感情だと思います。
国の機能としてはもちろんそうやって無視するわけにはいかないので、救う方向で動き、そこで感情的な価値観と現実に差が生まれるわけです。
唯一の例外として国の機能が感情的な価値観に基づいているのが死刑肯定論です。国際的には死刑廃止の方向に動いている中、「コミュニティからの逸脱者には人権が適用されなくなる(死刑が許される)」のは今も日本的な価値観に基づいているのではないでしょうか。外患誘致には死刑しかないってのがわかりやすい。
何が言いたいかってこの案件を第一印象として「自己責任だ」と思うのはわりと自然なことだって話です。感情としてそう思う、ということ自体はなかったことにするべきではない。
カルチャーじゃねえんだよ。サブでしかねえんだよ。何年経ったって恥の文化だってのを考えろ
サブカルチャーのミックスカルチャー?笑われてるだけなの気づけよ。保育園でマクロス見るか?エヴァ見るか?見ねえし見させれねえだろ
一部のバカが楽しむ、それを楽しむのを継続する為に狂って楽しむ、それがサブカルチャーでしょ
大衆に媚びたり、大体的に言うもんじゃないの。受け入れられない文化、それを楽しむ高二病でないとサブカルがどんどんクソになる
一般人が知ってる知ってるなんてのはサブカルじゃねえし。ただの商売成功させただけなのよ
ドン引きされて、何がいいの?で口ごもってこそサブ。クラスの端っこが端っこのままで楽しむもの
ほんとにサブってんならもがいてろ。最上を見ろ、アレがサブだ
死刑賛成派が基本的に感情論ってのは間違ってないけど、『論理的に考えれば、死刑制度は肯定できるものではない。』これはおかしい。なぜ「論理的」の絶対的な基準が「人を殺してはいけない」なのか。
反対派も感情論でしかないってのを抜いて語っちゃだめでしょ。冤罪云々に関しては触れられてる通りだが(ロジックとして甘すぎると思う)、「人を殺してはいけない」「無力化された人間は、いかなる理由があろうと殺してはいけない」はそれはそれで感情論じゃないか
宗教観、正義感で、人を殺すのが根源的に悪いことだと認識しているのが死刑反対派。日本人はこの感覚が欠如しているので感覚に合わない。内面的な良さ悪さじゃなくて全体が成立するか、周りに迷惑をかけていないかという基準で動く。「和を乱した者は出ていけ」くらいにしか思えないので、死刑賛成派になる。これを「罪の文化」「恥の文化」といいます。「人を殺してはいけない」と「社会が成立しなくてはいけない」という二つの感情論が基準にあって、どちらも論理的に考えた結果死刑反対派と賛成派が成立するわけです。
問題は、ほんとうに変えようとしている人とそういうイベント大好きな人との区別はつきにくいのが問題。
いや、イベント大好き人間も変えようと始めは思っていたのかもしれない。でも、軌道修正ができなくて、イベントでちやほやされること自身が麻薬で囚われて、
起業して商売で本当に世の中を変えようと思えば、資金を集めて、何かを売らないとならない。
ある程度本来狙っていたところとずれていても商売が回せていれば、また本来の夢をおえるかもしれないということを認識しないとならない。
とすると、そういうイベントにでないとならないという面もある。
一方、なにかなそうとしても、自分がこれでいいのだ、わかってくれる人はそのうちいるんだと内側に篭もって試さない人間も多い。
そうして市場を全く見ない。
そういう内籠もり技術者が本当は世の中を変えるのに。着目してあげればいいのにという感じがする。だが、やはりそいつらも世界をかえれないよ。
自分の技術を、そのままそっくり受け止めてくれる王子様が現れるんだっていう情けない夢見るお嬢様と同じ。
えてして、その内籠もり技術者は、その技術者が思う通りにやってくれないと反発するからね。だが、内籠もり技術者の思うどおりにすぐ売れるとは言えない。
市場を見ないというのは内側籠もり技術者も、イベント大好き人間もどっちもどっちだがね。
体当たりで色々試して売れるところを探さないとならないが、自己顕示欲が暴走してると、
むしろ失敗が怖くなって体当たりでの試行錯誤ができなくなるというジレンマがある。
とくに日本人は恥の文化というが、逆に言えば恥をかくのを嫌うから、恥かくの覚悟の試行錯誤ができない。
本音と建前で、上キレイ事言ってても裏でどう考えてるの?というえげつなさもある。
まあ、イノベーションを起こそうというやつの大きな仕事としては、恥かくの覚悟で体当たりで色々試してみるというのもある。
誰かあんたの作ったものサービスに金を払うと言ってから、変革は始まるんだ。
ここ直したら言うのというのを言えて、かつ、直せればいいんだが難しいねぇ。
これは私の主観から来る見解にすぎないのだが、日本人の誇る「恥の文化」なるものは、日本人を苦しめる害悪に他ならないのではないだろうか。
人の善意に頼る文化ならばそこに人を信じる気持ちが生まれ清々しい。
人の道徳に頼る文化ならばそこに礼を重んじる思いが篭り恭しい。
だが、人の羞恥心、体面への執着に依存する文化というのは、どうにも陰湿で収まりが悪いものとして、私は感じてしまう。
何故ならば、羞恥心を感じずにすむように生きろというのは、何も語っていないからである。
命じる側は一切のリスク、責任を負う事なく、朝三暮四を平気で行えるような指針を示している。
言ってしまえば、後知恵で幾らでも文句をつけつつ、自分の立場はいくらでも守ることが出来るよう命じる、下衆の類である。
恥の文化においては、誰もがこの、「高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変な対応を命じる下衆」に成り下がっていく。
本来の理想は誰もが「己に恥じない高貴な人間」となるはずだったのが、方針の組み立てを誤りその場しのぎを繰り返した結果、正反対の所へとたどり着いたのだ。
もはや、「恥の文化」そのものが、日本にとっての「恥」でしかない。