や、多分、ここで文句言ってる大多数は、
そんなこと書いた所で全く意味ないっしょ。
そもそも、一般ユーザーはそんなこと気にしないし、それ、知らされた所でへー、で?と思うだけだし。
弟を青春時代に失ったことが全ての基点だった。
なぜこんなに無力なんだ。
皆頑張っていて刺激を受ける。
同期に元気をもらう今日この頃。
苦しんでいる人,悲しんでいる人
もしつらくて寝れないことがあれば
あなたの抱えている悩みは解決可能かもしれない。
第三者の視点だと、あなたが友達だと思っている女友達には、友達でもなんでもないただの会社の同僚としか思われていない可能性が高い
きれいな女の子が渡した直後に、「あ、あたしも!」と言って渡す。
「君ってセント・ヴァレンティヌスに似てるって言われない?あ、これチョコ」意味不明なことを言った直後に渡す。
「今日はバレンタインだよね」「君はたくさんチョコもらったよね」「わたしのこと凄くキライではないよね」「なら、わたしのチョコ食べるよね」
「今日のお仕事は楽ちんそうだね」「君って生まれた時からモテモテだったんだろうなあ」「今日の晩御飯チョコだけでいいんじゃない?」「君ってカカオ0%のチョコでも喜んで食べそう」「じゃあわたしがチョコあげても食べないんだ」
「男としてじゃなくて、友だちとして、わたしのチョコもらって欲しいの」
まずここでま自分の考えについて知らない誰かが言及(具現化)してくださることに、素直に感動しました。インターネットすごい。
東京から遠くはなれた所でボチボチと所謂ベンチャーを経営してます。
学生さんなどから「海外のベンチャ−で働いてみたいので」といったメールを良く頂くのですが、なんか違うような気がしています。
若い人が熱意を持って探しているので水を注すようなことは無粋だと思うのですが、気になったので。
若い零細企業がベンチャーなのでしょうが、何年以内、何人以内といった取り決めがあるわけでもなく、小さくても官僚的な会社も大きくても所謂ベンチャー的な会社もあるわけで、そもそも会社の規模や年齢で仕事を選ぶのは危険なような気がする。自分のやりたいこと、一緒にやりたい人、あるいは住んでみたい場所で仕事を探した結果、大きかったり小さかったり、若かったり若くなかったりというのが自然なように思う。
まあ、つまりアレだ。
AKBの音楽大好きだったのに、なんとかちゃんに彼氏がいたー!騙されたー!って言ってる被害者と、
佐村河内の音楽大好きだったのに、ゴーストだったー!耳が聞こえてたー!って言ってる被害者は、
同じレベルということだ。
生きていくと定番のフレーズの意味を言葉じゃなくて心で理解する瞬間が来るわけだけど、
最近自分は「夢も希望もない」の意味をいやというほど噛み締めてる。
むしろ逆に子供の頃って本当にある程度年齢重ねた人間から見ると「夢も希望もある」なんだなって感じてる。
どうせアノニマスダイアリーだし少しダラダラと話させてもらうね。
「夢も希望もない」の主成分は3つ
②希望ー将来への期待。「俺はそれなりのことができる」って根拠のいらない自信
③ないー虚無。「どうしてこうなったんだろう」って言葉だけが響く
まず①夢、これが気づいたら無くなってる。
というか可能性が失われて行ってることに漠然と眺めていたのにふと我に返ってそのヤバさに気づく。
失われた可能性は一見すると量は少ない、どもそれを取り戻す手間を考えると余りにも大きい
次に②希望、これも気づくと底を尽きてる。
こっちは無くなってるってはっきり感じ取れるし身を切られるような痛みと共に失っていく。
でも減っていってる間は大抵現実と頑張って戦ってるからあまりその量には気にも留めない。
だけどある日ふと「あれ?ダメだ……俺にはできる気がしない。どうしても……」ってなる。
漠然とした「自分には無理だ」って気持ちに纏わりつかれて色々な物から逃げるようになる。
川の石がゆっくり丸くなるみたいに、社会の荒波の中で少しずつ自分の自信が削られていくって感じかな。
そして③夢も希望もないに辿り着く。
気づいたら将来も怖ければ明日も怖くなってる。
幼い頃は「とりあえず寝て起きるを繰り返せばそのうち幸せになれる」とでも考えてるんじゃないかって程に楽天的だったのに、
今は「何をしてももう素晴らしい人生には辿りつけない」って悲壮感だけが次々溢れてくる。
子供の頃は「夢も希望もない」って言葉を聞いても「まだきっと何とかなるさ」みたいな事を思ったものだけど、
ああ、なるほど。オレは「日本の音楽聴取者の低レベルさを嘆く」文章を読んでいないので話が繋がらなかった。
そんなものはいまに始まったことではないので、嘆いたところでどうしようもない。
クラシックに関してはもともとの聴いている人が少ないんだから低レベルもなにもない。
多くの人のニーズはAKBとかエグザイルで十分に賄われている。
日本のクラシカルミュージックの状況を改善しようとするならば、
2、フィードバックを受け取る仕組みを作る
とかそんなことでしか解決しないだろう。
あんな糞なのを「AKB」の名前使わないでどこぞの地方アイドルが出した体で宣伝もせずに売り出したら誰も聞かんだろ。
中身を実際AKBが歌ってたとしても。
おまえ馬鹿すぎるだろ。
泣いてないだろ。さらっと嘘つくな。
世の中には「恋人欲しいなー」とか「結婚したいなー」と言ってる人たちが沢山いるけど、実際そう言ってる人って本当にそれを必要としてるんだろうかって思う。
だってほんとうに欲しいならそこそこの相手とそこそこの関係になったりするもんでしょ?
でもそれだとその人たちは納得しないわけじゃん?ずっとずっと高望みするわけでしょ?
でも実際の所男も女も皆それなりに思いやり持ってたりチンコやマンコが付いてるわけじゃん。それなら高望みなんて必要ないんじゃないかなって思うわけよ。
そうなると彼ら彼女らはやっぱり「素敵な恋人がいる自分→俺TUEEEEEE」って部分に大きな価値を見出してるんだろうなって思うんだ。
でもそれってはっきりいってダサイよね。
だって自分の凄さをアピールするのに他人なんて必要ないじゃん。
自分がすごい人間になって結果を出したり自己満足したり、無理に他人と比べずに昨日よりも一歩前進した自分を凄いって思えばいいだけじゃん。
どんな聴き方をしようがいいさ。
でも、どっちかというと作品単体ではなく、作者込みで評価するほうがマニアの考え方だよね。
たとえば、AKBの恋するフォーチュンクッキー。
ヒットして、youtubeにいろんなバージョンの動画がアップされたりしたけど、作曲者は誰か、一般の人は知ってるか?
たぶん知ってるのは、マニアだけだ。
楽しい曲だから、誰が作ろうが好きな曲は好き。楽しい曲は楽しい。カラオケで歌う。踊る。CDを買う。
そういう楽しみ方が本来の音楽の楽しみ方だと思うのだが。
俺、AKBは興味ないけど、あの曲だけは好きだ。CD買った。PVつきのやつ。楽しくて、とても好きだ。
でも、そこに作曲した人間を持ち出してきて、たとえば「この曲を作ったとき作者は両親をちょうと亡くしたときで…」とか
「ちょうど離婚したときで…」とか「どんぞこの気分だったにもかかわらずこんなメロディーを…」とか考察するのはマニアだ。
一般人はそんなことどうでもいいし、それに作曲者もプロならプライベートがどうあれ関係なく、注文通りの素晴らしい曲を作るべきだし。
耳が聞こえない作者、という今回のケースは特殊だったけど、それでもやはり音楽は音楽として楽しむのが一般的だと思うのだけど。
やめればいいじゃん?
田母神氏は都知事選を終えて会見を開いた。田母神氏は「保守運動をこれからも盛り上げていきたいと思っている」と締めくくっていた。それを承けて、記者から「それはどのような保守政党になるのですか」と問われて、次のように答えている。
「日本の政治家はね親中派、中国派の政治家がいっぱいいますよね。それに対して保守派と言われる政治家がいる。でも、この保守派の大半というのはアメリカ派なんですね。アメリカの言う通りにしなきゃいかん、と。だから日本の政治状況は中国派とアメリカ派が喧嘩しているような政治状況なんですよね。で、日本には日本派の政治家なんてほとんどいないんですよ。で、よその国を見ればね、アメリカの政治家ってみんなアメリカ派なんですよ。イギリスはイギリス派、フランスはフランス派です。つまり、日本だけ日本派の政治家が大変少ない、という状況だと私は思うんですね。だから、日本派のたくさん集まった政党が出来ないと、日本を取り戻すことは出来ないと私は思いますね。」(http://www.youtube.com/watch?v=LwEMM349-SQ 45:00付近の発言)
もちろんこの記者会見の場は、「日本派」とは具体的にどのようなものであるのか、を打ち出す場所ではないので、こんな大雑把な説明になっているのは致し方ないとして、それでもなお「日本派」が一体何を指し示すのかサッパリ分からなかった。いや、感覚的に言わんとしていることは分かるんですよ。でもでもね、右翼にせよ左翼にせよ、「日本という国がよくなってほしい、日本国民が幸せになってほしい」という動機から行動しているんじゃないのか、って思うんですよ。そういう意味では政治家には基本的に日本派しかいないし、その日本派がどのようなものであるのかを解釈する点において異なっているんじゃないの、ってね。「あいつは親中派で日本のことを考えていない」なんて意見を聞くことは往々にしてあるけど「おまえが考える"日本"のことはかんがえてねーよ」っていう話に過ぎない。例えばですけど、アメリカと融和的である政治家はたしかにいますけど、それって段階論でしょ? つまり、究極的な理念においては肯定できなくとも、現時点においては仕方ない、と容認するような、ね。米軍基地を保守派が認めているのもそうじゃないか! もし田母神が親米じゃなくて「日本派」であるならば、米軍基地を日本から全て追い払わなければならない。「普天間基地移設問題」について石破がよくやるような偽善的態度、つまり「沖縄の皆様には本当に申し訳ないと思っているけれど…」なんていう、気色悪い芝居は一切やめて米軍基地を一掃してほしいね。三島由紀夫だって自決する際の檄文で「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう」と言ってるよ。もし原理主義的な日本派が存在するならば、喫緊の課題である米軍基地問題を対処せよ、と私は声を大にして言いたい。(http://www.youtube.com/watch?v=ZgyRYLkGFVU こういう"親米派"と独善的人間がいる限りはね。この動画で話している人物は、「戦後レジームの脱却」をあらわすどころか、沖縄返還前への逆戻りを進んでいるぞ、と怒りを込めて言おう。 http://www.youtube.com/watch?v=7bi5ZZrG62g こっちの動画では「選挙に民意が反映されていない」等と言っている。投票率77%だよ、なに言ってんの、こいつ。沖縄を馬鹿にするんじゃない。 http://www.youtube.com/watch?v=4lwpRSMvL6Y ここでは水島氏が一人の漁師から話を聞いて、彼にあたかも名護市民の”ホンネ”を代表させようと、プロパガンダを企んでいるけれども、実際の選挙結果を見ると、いかに”偏向報道”であるのかがうかがえる。「日本派」はこういう不逞な輩を一掃するところから始めなければならない)
☆
それからもう一つ。「戦後レジーム」を脱却して、「真の日本」を取り戻そうという試みはじつによろしい。じゃあ、「真の日本」って何? そもそも「日本」が「真の日本」であった時代ってあるの? 具体的に何時代? あのね、そういったことを言うためにはやっぱり歴史を勉強しなければいけない。竹田ナントカみたいなトンデモはやめてくれよ。神武天皇が実在したかどうかなんていうバカみたいなハナシは聞きたくないんだよ。それは純粋に歴史的学問としては興味深いが(竹田が興味深いわけじゃないよ。念のため。)、今の日本を考える上では少なくとも参考になるものは少ないね。歴史を論じるならば、むしろ江戸時代とは何であったのか、明治と江戸の間にいかなる断絶/連続があったのか、っていうのを「日本派」の人びとには考えていただきたい。「日本派」の人びとは、日中戦争や第二次世界大戦を(陰謀論的に)語ることは大好きだ。で、それを説明するために、だいたい明治以降の歴史を考察するのはだいたい常道といってもよかろう(http://www.ganbare-nippon.net/official.html 例えば、この綱領を見ても明らかである)。でも、「明治」っていう時世自体そもそも薩長という田舎者にでっち上げられた「捏造品」だったことを忘れはいまいか? それに、江戸生まれの知識人達の身につけていた教養のたいていは、和文よりも、唐山仕立ての「漢籍」なわけですよ。ようは、きみたちの嫌いなシナこそが絶対的だったわけ。田母神氏がフランスの話を引き合いにだしていたから、ちょっとフランス語の事情から言ってみると、「歴史histoire」という言葉は同時に「物語histoire」でもある。お察しの通り、「ストーリーstory」という言葉も歴史historyからきている。「真の日本」っていう歴史的問題は、つまりストーリーの問題でもあるわけ。「天皇」だってストーリーの問題でしょ? で、ストーリーっていうのは、小説家や歴史家なら当然知っているように、始点と終点がすごく重要なんですよ。例えばフランス革命だってロベルピエール処刑を終点とした一定のストーリーをもとに語られることが多いけど、ナポレオンの時世までをフランス革命の物語として考えたら、少なくとも、ロベスピエールの立ち位置っていうのは少ならず変化する。「真のフランス革命」を探究しようとしたって、じつはそう簡単に出てくるものじゃないし、歴史をストーリー抜きに語ることの困難さっていうことは歴史家が身に染みて分かっていることだ。私は「真の日本」にも同じ問題を感じるよ。もしね、もしだよ? 「日本派」の人びとが、自分たちの語るストーリーだけが真実だって言い出したら? うん、それはカルトと呼ばれるもののはじまりです。だからね、私はカルトになんてなってほしくないわけですよ。「真の日本」なんてそう簡単に見つかるものではないんですよ。それは江戸時代の複雑な歴史をちょっと知っていれば分かるはずなんですよ。だから、戦後レジームとか、そういうカルト的言動は慎んで、とりあえず江戸時代に沈静して、マトモな日本人になってほしいな、と思うわけです。
☆
追記。ちなみに、「日本派」の原理性をここでは言いたかったのだけれども、そうした右派原理主義をおしすすめると結局左派原理主義ともつながってくる、ということを確認しておく必要がある。どっちも現実を見ずに理想に邁進してしまうから当然だよね。だから、アナーキズムとファシズムには融和性もあるのだし、石原莞爾みたいな人を一人考えてもそれは分かるでしょう。あるいは、三島だってそう。でもこの話は長くなるのでまた今度。
追記その2。「中国派とアメリカ派」っていうのは、行動原理の奥底に、「中国に利するように」等の陰謀をその人が持っている、と田母神氏は考えている、ということだろう。いわゆる「田母神論文」もそうだったけれども、思考法が基本的に「陰謀」に帰着するという単細胞ぶりには、思想が右であれ左であれ、注意しなければいけないと思う。「陰謀」で全て片づけてしまうと事象の繊細なニュアンスを捉え損ねるからだ。「チャンネル桜」では、サヨクという言葉で全ての悪を表象しているわけだけれども、こういうマニ教的二元論によって自らが思考停止しているということに気がつかなくては、ネトウヨ=新右翼のコミュニティを脱して「民意」を掴むまでにはほど遠いと言わざるを得ない。これは戦術上そうなのだ。