はてなキーワード: 母屋とは
蒲鉾は竹に巻いて蒲の穂を模したものだったから「かまぼこ」と呼ばれていたのに、いつの間にか亜流の「板蒲鉾」の方が「蒲鉾」を名乗っていて本来の蒲鉾が区別のために「竹輪蒲鉾」→「竹輪」と変遷してるの、完全に母屋を乗っ取られた感あるよね。もはや何が「蒲の穂」なのか分からん
同じことがいま京都銘菓の呼び名でも起きていて、八ツ橋はもともと琴の形状を模した堅焼き菓子に箏曲の八橋検校にあやかった名前を付けたのが始まりだったのに亜流の「生八ツ橋」に言葉を乗っ取られ、もはや「八ツ橋」でウェブ検索すると9割がた生八ツ橋で、本来の八ツ橋は区別のため「焼き八ツ橋」とか呼ばれる始末。検校さんも蒲の葉の陰で泣いているに違いない
竹輪蒲鉾が「竹輪」になったのをふまえると、焼き八ツ橋は何十年後かには「お焼き」と呼ばれるようになるだろう。すると、今の「お焼き」は区別のために(以下略
北側に2階までの高さぐらいの擁壁(直角)がある
家と壁の間は3m弱
全く日が当たらず、冷たい空気が溜まるので1階はめちゃくちゃ寒い。夏は涼しい。
家中隙間だらけ。
日本家屋で部屋と部屋の仕切りは基本襖。襖の上には20cmぐらいの欄間があり通気性は抜群
50年前のサッシとガラスで断熱効果に期待できないうえに、色々歪んでいるので掃き出し窓など閉まりきらず、ひどいところは5cmぐらいの隙間が空きっぱなし
6畳の部屋だからと6畳用のエアコンをつけるがよく考えたら7~8畳ぐらいある(さらに床の間のこと忘れたり)
無駄に広いベランダがあり、コンクリなので多分熱をめっちゃ吸う
西日が当たりまくる(増田の部屋のみ)
冬でも晴れた日の夕方は裸で過ごせるほどになる(秋はサウナ状態)
とにかく柱が太い
ひいじいちゃんだかひいひいじいちゃんだかがこだわったらしく、
すごく太い柱と梁で柱の少ない空間を作ったらしい
20畳? ぐらいのが二部屋つながったとことかがある(普段は、なんか微妙に幅の広い襖4枚で隔てられてる)
昔は4世帯とか住んでたし子沢山だった
改築や増築を繰り返していた
今は半分壊れた離れとキッチンやユニットバス、トイレを外付けして凸凹(凹はしてない)した母屋が渡り廊下で繋がっている状態
(最盛期には台所3、風呂3、トイレ5ぐらいあった。一番でかいトイレは男子小便器が2つ並んでる)
3回ほど増築したっぽい倉もある
10年ほど前までは、物置小屋だったり、工房だったり、鳩小屋だったりがあってカオス
もちろん駅やその他もろもろが後から来たのだが、まあまあ便利な駅まで徒歩15分。使いづらくさびれた駅が徒歩6分。
家以外にも結構なお土地をお持ちになっており、家賃等で安泰だったが、ひいじいちゃんもひいひいじいちゃんも税理士さんと折り合いが悪いのか、
節税なんて知らん、けち臭いことを言うなっていう男気を無駄に発揮してきたようで、相続のたびに縮小してる
今は母と兄が色々悩んでる
(義理父母含む)家族が4人インフルにかかり母屋と離れの食事洗濯掃除高熱の子どもの夜中の付き添い嘔吐処理布団干し食べられる物飲み物の買い出し等をしていたら、自分に症状が出始めたのが遅い上に高熱にもならず身体はポカポカとあたたかい程度(37度台)頭痛(あ、痛いなー程度)関節痛(なんかコチョコチョするくすぐったい)鼻水、咳、くしゃみ、喉の痛み(まああるけどあるな、くらいの感じ)という全体的に薄味の症状で、明らかにもう先週から4人の世話をしていたから48時間は経過しているし特効薬は効かないだろうし。とはいえインフルだろうから仕事にも行けないし(特効薬出ないだろうに満員の病院に行っても…と思って全員病院につれていって特効薬飲ませて高熱が寛解した段階で自分は漢方飲んで寝ている)困ったなあ
経理やってるからなにこれわからん…って日々資料とにらめっこしてるもんとしては反対っちゃ反対だけど今さら反対してもさぁ…10月からだが?後五日だが?今更変える方が混乱するんだが???いやあ個人事業主様は自由に動けて素晴らしいなあわたくしめのような社会に使われる側は決まりごとに縛られてしまって融通もきかんから使われるしかできずひいひい先回りするしかないんですわいやー臨機応変に適応できるなんて素晴らしい!そりゃよくわからん修正にも細かに対応できる方々ですわぁっていう感じなのと、単純に署名の旗頭?なんか代表とその周囲が必要以上に政府周辺を悪く言う向きがあって、それに嫌悪感あったから参加はしなかったんだけど。(なんか署名サイトの個人情報が云々というのを以前見たのもある。)
例えば花子が小学生だとして「明後日、太郎くん家に遊びに行っていい?」って同級生の太郎の親に聞いた。①「いいよ」と②「ダメ」の2つの答えがまず想像されると思うんだけど、今回の提出は②だったっぽい?
アポの成立って原則①だけだと思うし、①でも花子が遊びに行った時間が夕方6時とかなら「もう遅いです。太郎家は晩ごはんの時間だから遊ぶのは無し」って断られるだろう。遊びに行ったのが午後3時だとして、約束した花子の他に次郎三郎良子夕子四郎五郎文子妙子…とか大勢で行ったら「こんなにだとは思わなかった。色々危ないからうちで遊ぶのは無し」って全員断られても仕方ないと思う。「花子ちゃんしか家に入れません」って言ったとして、それを他の子は律儀に守れるか?って疑問もある。
正当に怒れるのは、第一に太郎家に花子だけが常識的な時間に遊びに行ったのに、何の理由もなく断られたときでしょう。で、今回はちゃんと太郎親に家に遊びに行ってもいいか聞いた?太郎親はいいよって言ってくれた?っていう疑問があるわけだ。
第二に次郎~妙子についても、花子が太郎親にちゃんと言って、それでOKを貰っていたのに断られたんなら彼らは太郎親に文句を言うことができる。
でも花子が太郎親にそれを伝えてなかったんなら、彼らは太郎親に文句を言うことは間違いで、花子にそれを言わなければならない。
ちなみに②でも「離れで遊ぶのは?」ってさらに聞いて「離れならいいよ」って答を得られたらそれはアポだ。「離れでもダメ」ならアポじゃない。
例えというか自分の頭の整理がまだできてなくて頓珍漢なことを言ってると思うが、花子=署名の発起人、太郎親=国、次郎~妙子=署名賛同者、(書いてないけど母屋=総理大臣)、離れ=秘書や事務所宛、と思っている。
なーんか一応確認のために主催のTwitter(X)見に行ったらツイ消ししてる?みたいだしなんだかなーもー。
明日には詳細な流れでも出てくるかな。
最近調子が悪く、「自分に向き合う」ということをせざるを得なくなった。私はずっと自分を直視することから逃げてきた。
幼い頃に両親が離婚し、私は母親と母方の祖母に育てられた。母は父親から慰謝料を受け取ることを拒否し、公務員として働きながら私を大学に進学させてくれた。家は過疎地帯の小さな町にあり、まともな進学が叶う高校へは片道1時間かけて通う必要があった。祖母は60歳で余命半年を宣告されるレベルの胃がんを患った。寛解はしたが、体力的には勿論大きなダメージがあっただろう。しかし祖母は毎日5時に起き、私を起こして朝食を食べさせてくれた。
私は物質的には何不自由なく育てられた。勉強ができることを常に歓迎されたのも、私が女であることや時代や地域性を考えればとんでもない僥倖だ。母も祖母も(田舎の人間としてはかなり)知的好奇心や教養を重んじる気持ちが大きく、そういう家で育てられたことも幸運だった。ただ、嫌なことも山ほどある家だった。
祖母は80歳を過ぎるまで苛烈な自意識を悪気なく振りまき続けた。とにかく華やかなものや高級感のあるものに目がなく、目立つことが好きで驚くほどの見栄っ張り。そして私からすると異常に闘争心が強かった。祖母にとって他人は「常に勝つべきであり決して負けてはならないもの」「自分を当然に認めて賛美するもの」「自分のお眼鏡にかなうのはほんの一握りしかいないもの」と認識されていた。そして厄介なことにこのような性質を全く客観視できず、自分の考え方に沿わない人間は「馬鹿」もしくは「おかしい」とジャッジした。孫の私でさえもだ。
物心ついた瞬間から私は常に周囲の子たちと比較され、劣っている点を突きつけられた。ゆきこちゃんのように可愛らしくない。さきちゃんみたいに上手な字を書けない。ようこちゃんと違って美人じゃない。ともかちゃんのように性格が良くない。めぐちゃんみたいに明るく如才なく人と接することができない。みゆきちゃんみたいな勝ち気さがない。かなちゃんみたいに女の子らしくない。話はいつも「おばあちゃんは、ああいう子がよかった」と締め括られた。祖母の考えでは、私が奮起して「よし、頑張ってあの子を超えてやる!」とがむしゃらな努力をするはずだったのだと思う。でも私は祖母じゃない。他人と争うのが何より嫌いな、内向的な人間だ。生まれたのは燃えるような向上心などではなく、凍えるような自己否定感と身を焦がすような憎しみだった。憎しみは祖母に向かい、名前を挙げられた女の子たちに向かい、祖母を止めない母親に向かい、自分にも向かった。
私はいつも祖母の虚栄心を満たす在り様を求められた。勉強ができるという点は合格、他は総じて不合格。容姿も趣味も人間性も。私が太っていて内気で運動が苦手で片付けができなくて愛想が良くなくて放っておくと黙っている子供であることが「恥ずかしい」と祖母はいつも言っていた。大学時代に一時的な過食傾向に陥ったことがある。7キロくらい太って帰省した私に、恥ずかしいから日が高いうちは近所を歩くなと祖母は言った。心配はされず、「どうしたの」「何かあったの」と訊ねられすらしなかった。私は常に祖母の虚栄心を損なう悪者だった。
肝心の学業成績も褒められたことは皆無だった。1位じゃない、満点じゃない、進学先がトップ校じゃない。それを論拠に「私の血縁者だけあって頭が悪くはないが、取り立てて優秀でもない子供」と判断された。何かができるようになると、次の瞬間には「それじゃあ次は」と言われ続けた。ゴールがない。苦しかった。
私の母は、その祖母の娘である。私が1歳に満たない頃に私の父親と別居を始め、実家に出戻った。
土地が二束三文で買える田舎町にある実家は敷地が広く、母屋と離れがあった。離れは母屋より小さいが、リビングとベッドルームと和室がひとつ、風呂も台所もあった。母はそこに住んだ。私を母屋に残して。役所勤めから帰ってきて、母は毎晩ひとりでレコードを聴いたり古い映画を観たり純文学を読み耽ったり、妻のいる男の人と長電話をしたりして過ごした。平日に私が母と会話できるのは、彼女が許した1、2時間だけだった。それが限界だったのだろう。
母が娘に求めたのは豊かな感受性、繊細さ、抑制が効いていながら豊かな感情表現、心の優しさと清らかさ、従順さ。母の心情に関心を寄せ、いつも注意深く観察し斟酌し、そこに寄り添い肯定すること。母はそれを「素直」というタームで表現した。私は小さい頃から「素直じゃない」と詰られた。自分を偽ってもいないのに素直じゃないと言われるのは心底不可解だった。4歳か5歳の誕生日、私は母からメッセージカードを貰った。「○○ちゃん、たんじょうびおめでとう。○さいのテーマは、すなおになることです」。そう書かれていた。そこから先は「素直とはどういうことか」が説かれていたが内容は忘れた。心臓が止まるかと思うほど嬉しくなかった。
母は癇癪持ちで、定期的に不機嫌の発作を起こした。自分の不手際が契機となり、怒鳴られ人格を否定され「縁を切る」「家から出ていけ」と言われ、数日間まともに話してくれない。そういうことが日常的にあった。ヒステリーを起こすきっかけなど何でもよかったんだと気づいたのは実家を離れて何年も経った後だった。天災のように気まぐれに降りかかる不機嫌の発作を、子供だった私は心を殺して耐えることしかできなかった。
小学校5年からは学校でいじめの標的になった。担任の女性教師から私はすこぶる嫌われていて、ほとんど彼女の主導のもとに王道のいじめを受け続けた。中学は町に一つしかなく、選択の余地がなかった。その女性教師の夫が進路指導主任を務める公立中学に進学した。いじめの続きは入学初日から始まった。合計で5年間、私は一日も欠かさず死にたい死にたいと思いながら生きた。
家族に言っても碌なことにならないと子供心に判断していたが、耐えきれずに吐露したことが2回だけある。最初は祖母に。「そんなのやり返せばいいだろう」と私の弱さを叱責されて終わり。予想どおりだった。絶望はしたがショックではなかった。母に話したのはしばらく後。おそらく苦しくて仕方なかったのだろう、母がいる離れの呼び鈴を夜中に鳴らした。泣きながら「もう何年も学校でいじめられている」と話した記憶がある。母は私を離れの中に入れなかった。玄関先で立ち話をした。片親であることを攻撃されていると話した。「それが何だ」と母は言った。わたしなんか学生運動がいちばん盛んな頃に短大に進学して、父親が警官だって言ったら「お前、『犬』の娘か」って嗤われたんだから。どんなに嫌だったかお前に解るか。腕組みしてまくしたてる母を冷えきった気持ちで見ていた。
それから長い年月が過ぎた。
祖母は80過ぎで二度目の癌を患った。退院した頃から加速度的に穏やかになり、最終的には少し気弱で優しく品のいい老婆として94年の人生を終えた。亡くなる数ヶ月前に実家で倒れて寝たきりになり、帰省した私が「おばあちゃん、私のことわかる?」と問いかけると「わかるに決まってるだろう、たった一人の孫だもの」と必死に笑みを浮かべて私に答えた。帰り際には「そんなに肌が綺麗だったっけ」と言われた。私の見た目を褒めるなんて、おばあちゃん目が悪くなったんじゃないの?と笑って憎まれ口を叩き、来月も来るからねと告げて東京に帰った。それが最後の会話だった。
母は合わない職務で鬱病を患い、50歳を前に役所を辞めた。その数年後には妻子持ちの男とも別れた。相変わらず自意識過剰で感情的で面倒な人だ。でも面白い。知的好奇心を保っているのも心強いし、化粧っ気は全くなくなってしまったが今でも綺麗だ。私は母の顔と字が無類に好きだし、無類に好きなところは他にもたくさんある。今はそう思う。
この度よくよく自分の内心を見てみたら、あまりに汚く混乱していて自分でも驚いた。段階的に補強してきた自己肯定感は思っていたよりもまだまだ脆い。自分を憐れみ庇う気持ちはあるが、これを自分への愛と呼べるだろうか。するべき(と思われる)ことは容易に把握できるのに「したい」ことは分からず、なのに無欲ではない。綺麗になりたい。痩せたい。頭が良くなりたい。お金がほしい。休みがほしい。美味しいものを食べたい。俗な欲求は人並み以上だ。それを捨てることも開き直ることもできない。
脳内には14歳の私が世界の万物に向かって「私に謝れ」と怒鳴る声が反響している。それを恥じて隠蔽しようとしている成人の私がいる。隠蔽しようとする私を「卑小でつまらない人間だ」と蔑視する私もいる。世界観のベースに「私は素敵な誰かの下位互換であり欠陥品だ」という根深い諦念がある。刷り込まれた規範は私の血肉となっていて、私はそれを憎悪しながら切除できない。「本当の自分」とは何か、皆目見当がつかない。
ならば、その正体不明の混乱しきった人間を許してやろうかな、と考え始めた。そしてあわよくば愛してやりたいと。
私は凡庸だ。狭量だ。いろいろと不出来だ。根気がなく三日坊主だ。いい歳して自意識過剰だ。かっこわるい。けれど、別にそれでもいい。誰に馬鹿にされても見下されても、私は「なんでよ、別にいいじゃん」とケラケラ笑いながら私自身を全力で抱きしめる。
農業の収支は知らないが、どうみても食べていけるような収入にはなってない。
とっくに建て替え時期だけど、そのまんま。
なぜ農家を続けてるのかを聞くと、先祖伝来の土地を手放すのは嫌だから、固定資産税を抑えるために仕方なく農地にしてるらしい。いつも忙しい忙しい言って、儲からないならやめればいいと思っていたけども、そういうことか。
恥ずかしながら、農地にすると税金がめちゃ安になるのを30歳過ぎて初めて知った。
となりのトトロみたいな感じ。
お金がないないいうけど、国民健康保険の保険料からすると、収入はサラリーマンよりずいぶんある。農家だから高いとか意味不明なことを言ってるけど嘘だ。
マンションを建て替えるお金がないとか、相続税を払うお金がないとかいうけれど、売っちゃえばいいんじゃないかと思う。こういう家は特殊な例ではなくて、けっこう多い気がする。
結婚して東京の外れ住んでるけど、似たような景色がある。東京も23区から離れると、あるいは23区でも練馬あたりから畑がちらほら。畑に隣接した意味不明な古さの家。
この畑の持ち主も、食べていくための農業じゃなくて、先祖伝来の土地を守るため、税金対策としての土を耕し一生を終えるのだろうか。
相続税を払うために、お金を貯めて、家のリフォームも後回しに不便な生活を続けるのだろうか。
きっと、相続で畑をそこそこ売ることになるだろう。畑を一枚売ると、そこに20軒くらい分譲住宅が建つ。そんな光景を何度も見てきた。
全部売らない場合、少なくともあと一代は、一族の1人は節税のために人生を捧げるのだろうけど、くらくらするのは私だけだろうか。
伸びてる増田の中には明らかにブクマの付き方がおかしいものがあった。
初期のブクマに非公開や初期アイコンがやたら多い増田をみんなも見たことがあるんじゃないのか?
偶然にすぎないと見過ごしてきたけど、こうして明らかにシステムを悪用している人達を見るとどうもこれは本当に出来てしまうようだ。
一気にやるとバレるから少しずつブクマ数を増やしていき、自然な形でホッテントリに乗せる。
その後はペースに合わせて水増しを続ける。
1000ブクマも伸びればそのうちコメントをしているのなんて最初から100ぐらいなので、そのうち500が複垢の非公開セルクマだろうと誰も気づいたりしない。
増田を伸ばした数字を自慢気に語るイカレポンチが時折出てくるが、そういったブクマの数字が金色に光って見えてしまう人種はこういったことをしてきたんだろうな。
複垢セルクマの常用をしているのが検知されたアカウントのBANに動いた方がいい。
野放しにしすぎた。
割れ窓理論だよ。
承認欲求を満たしたいだけの憐れな虫けらぐらい放っておこうとした結果が、ここは餌場に出来ると感じた連中を呼び寄せたんだ。
もしかしたら、そうやってセルクマで伸ばしてきた奴らが「はてなでステマする情報教えます」とやり方を売ったり、それこそそういったスパムサイトの中の人として働いてるのかもね。
軒を貸せば母屋が取られる。
本当に嘆かわしいことだ。
それを「庇を貸して母屋を取られる」っていう。
まとめてみた。
今年は背中スポンサーであり、そのスポンサー料は2.5億円である。川崎には一切瑕疵がないためスポンサー料減額にはならないだろうが、ユニフォームの広告部分の黒塗りや、スタジアムで放映されるスポンサーCMの差し替えなど、運営面の影響が今年は出てくるだろう。またマスコットの1人「カブレラ」は、もともとSMBC日興証券の前身である日興コーディアル証券の商品マスコット「ピーカブー」だった過去がある。カブレラは人気が高いマスコットであるが、人気が高い故その出自は川崎のサポーターなら知らない人はいないレベルだし、ピーカブーからカブレラに名前と姿が変わる際もJリーグ全体で結構な話題となった。そのため、カブレラの退団も視野に入っているはずだ。
https://www.smbcnikko.co.jp/csr/diversity/athlete/index.html
今始まっている北京パラリンピックにも1人送り込んでいるし、去年の東京パラリンピックでは3人がメダルを獲得している。
そんなパラアスリートの母屋たる会社が、今回の不祥事で明日をも知れぬ状態になる事が確実なので、この17人は来年度から別の所属先を探さないといけなくなるだろう。
SMBC日興証券は過去にも不祥事でスポーツから離れたことがある。1990年代に「日興證券女子サッカー部ドリームレディース」という女子サッカーチームを持っており、所属選手は全員サッカーに専念、専用グラウンドや選手寮の整備など、当時としてはかなり恵まれた環境を会社が整備していた。