はっとく
各リンク先が汚染されていても知らん。と一応書いておく。
最近の若い者はなっとらん、けしからんとはよく年長者が言う。いつの時代も言う。古代エジプトの時代でもそう記されているほどである。
いつの時代も言われ続けることは大切な真理や知恵を含んでいる。
従って、若者はいつの時代もけしからん。
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最近の若い者はなっとらん、けしからんとはよく年長者が言う。いつの時代も言う。古代エジプトの時代でもそう記されているほどである。この事実をもって「いつの時代も言われることだからたいした意味はない」と結論するのは一つの解釈に過ぎない。「いつの時代も言われることだから真実を含有している」と考えることも可能だ。その場合、人類は有史以来堕落し続けている。
だがそう考えるのも極端すぎるので、結論としては、「いつの時代もジェネレーションギャップが存在する」と言う当たり前ことになるだろう。
わからないところはとことんわかるまで調べ考えるのがスタイルだし、そうでなければ納得できずイライラするだけだ。
しかし、この資格はそこまで突っ込んだ勉強をしなくても暗記とパターン学習で合格できるものだ。合格が目的なら、突き詰めて納得することは脇に置くのが最適になる。理解できなくとも、それが試験範囲のほんの数%くらいならば、はっきり言ってわからなくてもいい。他のところで力をつけた方がよほど合格の確率を高められるからだ。
だが、そもそも勉強するのは実力をつけるのが目的ではなかったか。試験に合格するのに特化した薄っぺらな勉強ではなく、わからないところは調べ、納得し、関連箇所とともに体系的に理解し、問題も多種多様とき、身に付いた実力の結果として合格する。これが理想であろう。
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この資格の合格は上から求められている。やはりその限りでは合格という結果に気持ちが傾く。合格を最優先の目的とするか、理解と基礎からの実力アップを目的とするかで迷う。求められているとは言え、2度3度のチャンスと猶予はあたえられている。実際に勉強を進めている感覚で言うと、わからないところを敢えて飛ばすのは私の性格的に非常にストレスフルである。そのイライラのおかげでその後の勉強に身が入らないこともしばしばだ。飛ばした箇所が気になるのである。全て完璧にわかっていたいという欲求が強いのだと思う。この性向があるかぎりは、2つのやり方どちらをとっても、あまり生産性は上がらない気がする。一所にこだわって時間がかかるか、または、飛ばした箇所が気になって集中力が下がるかである。
どちらも効率よくないのなら、現在はまだ上からの圧力も強くないことだし、自分の性格にあったほうでやっていこうか。勉強がストレスだと、そもそも勉強すること自体を放棄してしまいかねないからだ。それよりは非効率でも実行するのがよい。それに何より気持ちがいい。
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君がすごく思い入れている人がいい。
そこで、だ。
だれかに、「この人たち、歌手もどきだよね」とか「へたくそだよね」とかなんとかそういうことをいわれたらどう思うだろうか。
僕はかっとなって頭に血が上るね。むかし、実際キレそうになったこともある。
しかし、だ。
よく考えると、その誰かの批判は正当なところがあり、一理あるとも思えてくる。
例えば、純粋にテクニック的な観点でいえばその歌手を巧みであるとは言えない、ということが。
経験的に、誰かの好きという気持ちを優先するなら、芸術的美的観点や総合的パフォーマンスの観点からの批判はいわない方がよい。
だが、本当に好きならば数多の正当な批判があろうともそれでも好きであるはずだし、大雑把な言い方だが芸術的な向上のためを思うなら落ち着いて批判を述べるべきだ。それはその人たちがプロだから、でもある。しかも、批判することは相手の「好き」をこれっぽっちも否定しないし、傷つけない(論理的には)。
書き掛け;
就活中のとき、どこかの合同説明会で、就職コンサルタントだかカウンセラーだかの人がセミナーをやっていた。私が会場前を通りかかったとき、彼は資格の重要性を力説していたようだった。
「同じような人が2人いて、どちら同じように『やる気があります』と言っている。しかし、一方は資格を持ち他方は持たない。この時あなただったらどちらの人の「やる気」を信じますか。どちらを採用しますか」
およそ上記のような説明であったと思う。
そのときはなるほど資格というのも大切なのだな、と一つ学んだような気がした。大学の就職課の話では資格は飾りであり必要なのは「人間力」だという話であったが資格はそれ以上の存在感ではないか、と。
しかし、こんにちになってこのエピソードを思い出すとき、はて、熱弁をふるったアドバイザーの話のどこに膝を打つようなポイントがあったのだろうかと考えてしまう。
他の全ての条件がおなじで、飾りがあるか(+α)無いかがだけ違う。この場合、+αの人材が選ばれるに決まっているではないか。もし比べるならば、2つの条件以外は全て同じの人材であろう。すなわち、一方はやる気・人間性は良さそうだが、資格を持たない。他方は、逆にやる気・人間性で今ひとつだが、資格を持っている。
たとえば職場で、課せられる役割や義務のみで物事を解釈し行おうとすれば、我々は、実はちょっとした世間話や「今夜飲みに行こう」などというプライベートな話など一切できなくなる。それは厳密には公私混同だから。だが、ここでもっと拡張して考えてみると、その職場に勤める動機が、例えば社会の役に立ちたいとか、生活費のためとか、これこれを作りたいとか、自分の私的な想いであるならば、それだけで公と私が入り交じっている。もともと職場とはそんな私的なものが入り交じりながら人々が作り上げて一緒に働いている場なのだ。公だけというのが仮にあるとすると、それは企業理念とか法律とか公務員なら公務員の規則や理念など、公的なものが目的であり手段であるような人間の場合だろうが、そういう100%の公は現実には存在しないだろう。
俺は、ともすれば公を優先して、自分を抑圧し型にはめようとするけれど、私と公など曖昧なものだと思えばそんなに堅く考える必要もないのかも知れない。