はてなキーワード: 海老沢泰久とは
なにも考えずにただ楽しむだけのなにがいけないのか
そうなんだよね。
「美味礼賛」(辻調理師学校の設立者・辻静男の小説風評伝、海老沢泰久著)の中で、自宅でパーティーを開いた辻静男がお客の質問に対してイラッとするシーンのことを思いだした。
お客の中の一人が、「これは何を使ってるのか」「どういう風につくるのか」と、気を利かせたつもりで質問するのね。それを横の客がたしなめる。「そういう質問はよしなさい」「それを聞いてどうするんですか。知ったところでこれがつくれるわけじゃないでしょう?」と。で、件の客が「おいしいですね」とだけ言う。辻がほっとする、という。冒頭の一シーン。
ただ、これは「好きなものについて語るな」ということではないのね。事実、辻静男自身が、膨大な「料理関係本」コレクターであると同時に、山のようなエッセイを書き残しているから。「楽しむ」という行為に理屈はいらないんだけど、その先まで行くと、そこには創造し表現することが現れてくる。
半可通(はんかつう:中途半端な、自称「通」の人)という言葉は江戸の昔からあって、人間は記号的な存在だから、趣味にのめり込む際にどうしても「本物」より「情報」先行型になってしまうタイプが昔からいるのね。たとえば、江戸の黄表紙本の先駆けである「金金先生栄華夢」は、そういう「半可通」を描いた作品だったりする。「オタク」というのも、本来はそういう側面への批判を含んだ言葉だったんだね。何も生み出さない・生み出すことができないのに、生み出す側の人間であるかのような口ぶりでモノを言うカッコ悪さ。ただ、そういう「オタク」の中から本当の作り手が現れたりしたこともあって、「オタク」という言葉から悪いニュアンスが軽減されていった。
まあ、それはそれで当然かもしれない。誰だって、始めにあるのは「何も考えず楽しむ」段階だと思うしね。つまり、
おおよそ、こういう段階があるんではないか、と。趣味のジャンルにもよるし、趣味に対する個々のスタンスによっても違うんだろうけど、たとえば料理という「作り手と受け手が遠いジャンル」では「Ⅴを目指すのが真の趣味道で、Ⅴを目指せない・目指さないならⅠでよい」という若干窮屈ではある考え方になるのかもしれないし、逆に読書やスポーツのファンなんていう”消費”を基本とした趣味なら、「Ⅴ(作家/スポーツ選手)を目指す」まで進むという人はあんまりいないから、Ⅲあたりの人が偉そうな顔をしてⅠの人がなんだか肩身の狭い思いをさせられるのがデフォとか、まあそんな感じになるのかね。