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2013-04-20

http://anond.hatelabo.jp/20130420005320

なにも考えずにただ楽しむだけのなにがいけないのか

そうなんだよね。

「美味礼賛」(辻調理師学校設立者・辻静男の小説風評伝、海老沢泰久著)の中で、自宅でパーティーを開いた辻静男がお客の質問に対してイラッとするシーンのことを思いだした。

お客の中の一人が、「これは何を使ってるのか」「どういう風につくるのか」と、気を利かせたつもりで質問するのね。それを横の客がたしなめる。「そういう質問はよしなさい」「それを聞いてどうするんですか。知ったところでこれがつくれるわけじゃないでしょう?」と。で、件の客が「おいしいですね」とだけ言う。辻がほっとする、という。冒頭の一シーン。

ただ、これは「好きなものについて語るな」ということではないのね。事実、辻静男自身が、膨大な「料理関係本」コレクターであると同時に、山のようなエッセイを書き残しているから。「楽しむ」という行為理屈はいらないんだけど、その先まで行くと、そこには創造表現することが現れてくる。


半可通(はんかつう:中途半端な、自称「通」の人)という言葉江戸の昔からあって、人間記号的な存在から趣味にのめり込む際にどうしても「本物」より「情報」先行型になってしまタイプが昔からいるのね。たとえば、江戸黄表紙本の先駆けである「金金先生栄華夢」は、そういう「半可通」を描いた作品だったりする。「オタク」というのも、本来はそういう側面への批判を含んだ言葉だったんだね。何も生み出さない・生み出すことができないのに、生み出す側の人間であるかのような口ぶりでモノを言うカッコ悪さ。ただ、そういう「オタク」の中から本当の作り手が現れたりしたこともあって、「オタク」という言葉から悪いニュアンスが軽減されていった。

まあ、それはそれで当然かもしれない。誰だって、始めにあるのは「何も考えず楽しむ」段階だと思うしね。つまり

Ⅰ.楽しむ → Ⅱ.関心をもつ → Ⅲ.思考・分析する → Ⅳ.訓練する → Ⅴ.表現する

おおよそ、こういう段階があるんではないか、と。趣味ジャンルにもよるし、趣味に対する個々のスタンスによっても違うんだろうけど、たとえば料理という「作り手と受け手が遠いジャンル」では「Ⅴを目指すのが真の趣味道で、Ⅴを目指せない・目指さないならⅠでよい」という若干窮屈ではある考え方になるのかもしれないし、逆に読書スポーツのファンなんていう”消費”を基本とした趣味なら、「Ⅴ(作家スポーツ選手)を目指す」まで進むという人はあんまりいないから、Ⅲあたりの人が偉そうな顔をしてⅠの人がなんだか肩身の狭い思いをさせられるのがデフォとか、まあそんな感じになるのかね。


そうは言っても、所詮趣味世界で、「○○であるべき!」という限定主義者は大変だなあ、と思うわけですが。

 
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