はてなキーワード: 米原駅とは
彼女が小学生だった当時、サンタさんが届けてくれた「毛糸のカービィ」を期に、カービィ沼に填まり始めた娘も、この春から高校生になってしまった。表現が「なってしまった」と残念形である点は父親共通ではないだろうかと思う。
一軒家で物置になってる部屋が3つほどある我が家なので、ちゃんと整理すれば子供部屋が作れるんだが、(ギャグではないが)今は居間が彼女の部屋となっていて、ピンク色をした球体が増える一方である。
高校生にもなると父親と出歩きたがらなくなるという風評を耳にするので、いつ我が身に降り注ぐことになるか心配で仕方ないのだが、そんな娘にせがまれて大阪までカービィオーケストラを観に行くことになった。会場は別であるものの、そう遠くないところで「プププトレイン」という物販イベントも開催されていて早い時間から並びたいという。
関ヶ原のあたりで車の調子が異常になるというアクシデントに見舞われつつも、米原駅前の打止め駐車場に車を捨て置き新快速で入阪を果たし、物販イベントの会場である毎日放送の社屋へ移動する。
ところで米原に着く前、助手席の娘に電車の時間検索を依頼したところ、「14000円もかかるんだって、どうしよう!」って困惑していて、聞けばマイバラがマエバラに聞こえたらしく、千葉の前原を起点にしたせいというオチだったんだが、中部地方に住む身として交通の要所たる米原くらいは覚えなさい。
開店(入店)まで90分くらい待つ羽目になったが、何とかお目当てのグッズが手に入って娘は御満悦の様子。それはそれでいいんだが、会場に多数潜伏しているらしいカービィクラスターのフォロワーさんを見つけようと、手にしているタブレットからメンションを飛ばしているのは画面を見ていない私からでも分かり、それがまた不安で仕方ない。
キリがないので「オーケストラに間に合わなくなるぞ」と引き剥がし地下鉄に潜る。本町が最寄駅なので、梅田から御堂筋線で2駅だ。
工夫すれば近い出口まで地下で行けるみたいだが、後ろ寄りの車両に乗ってしまったことに加え土地勘もないため、自動的に出口④に排出される。ちょうど娘と同じくらいの女の子が一人で駅員に道を尋ねていたので、「おまえの同業じゃないのか」と耳打ちすると「ちょ黙って」と叱られた。娘からはカービィの映ったスマホの画面が見えたらしいので、同業であることは確定なはずだが、見ず知らずの人に声をかけること(相手からみたら声を掛けられること)自体が「不審者」という認識らしい。
とりあえず、その女の子が先行したので、距離を置いてついて行くわけだが、中央大通りを横断することなく彼女は左折してしまう。「おーい、そっちじゃないぞー」と大声を出そうとするも、またや娘に制止される。今どきの若者の心理構造は昭和世代には理解し難しい。
開演の30分も前に着いたんだが、会場前の公園に入場待ちの列が既に何重にも出来ており、「開演まで30分も前」じゃなく「開演まで30分しかない」に変わり、付近でランチを取る作戦は未遂に終わった。
昭和世代のお節介焼きとしては、さっきの女の子が気にかかるところだが、スマホがあるのだから徒歩ナビできるだろうし、道に迷いながらも辿り着くというのも後になれば良い思い出になろうと、自分を納得させる。
一応は今回のコンサートに備えて過去のゲームを予習しておくべく、2週間ほど前からゲームボーイを手にして夜な夜な挑み、なんとか初代と2はコンプリートしておいた。2の最後のデデデをどうしても倒せず娘に攻略法を聞くと私がコピー能力という機能を使っていなかったせいだったことが判明。つまり、デデデよりも前のボスまでは全て吸って吐くだけで倒してきたということになる。
オーケストラの内容については、語れるほどの知識を持ち合わせていないので割愛するが、幾度かコックリしそうになりかけたということは内緒である。たぶん気がつかれていまい。
初めてお目にかかったカービィの父親たる桜井氏は私の同じ歳か一つ年上くらいの、ほぼ同年代の方で、初期のカービィのプログラミング上の技(メモリー節約術)を講話して下さった。PC-8001mk2からパソコンに触れていた私にとっても、その話は非常に懐かしいものがあり頷きながら聞いていた。ゲームボーイは背景との重ね合わせ処理をハード側でやってくれていたようだが、それを手動で(マスク用のビットマップ用意した上で)やっていた世代からするとちょっと羨ましい。
コロコロカービィだったっけか、カセットの中にモーションセンサーを内蔵した型破りゲーム。ゲームボーイアドバンスで遊びにくいということで、娘に頼まれてICの天地反転をやってあげたが、最近のゲーム筐体ではあーいう着眼が不可能になっている点、21世紀になって失った物の一つに数えられる気がしてならない。
アンコールが終わりウルウル感動している娘の横顔を見ていると、それだけで幸せな気分になるものの、会場を出たら、先ほどの物販イベントと時と同じようにメンションを飛ばし始め、父親としてはなかなか辛い。女性フォロワーさんはともかく、男性フォロワーさんにまで「会いたい」は自制してほしいと父親としては強く要望したいが、中学4年生と言っていい田舎の天然系女子高生が納得する説教を垂れる自信もないので、眼球の隅で監視するに留める。
昼夜2回公演の夜の部を待つ人が会場に吸い込まれてから公園は落ち着きを取り戻し、先ほどまで長蛇の列だった撮影向けオーケストラの看板の周囲は片手で数えられる人しかいない。看板をバックに記念写真を口実に公園から踏みだし、乗じて地下鉄の駅に足を向かせることに成功した。
さて、これからどうするか。娘としては難波・心斎橋あたり徘徊したいみたいだが、強い希望はないようなので、父親が主導権を握る。ずばり、海遊館だ。結婚前に嫁と来たことがあるが、今度は娘を海遊館に誘う。
大阪港駅から随分と(15分くらいだが)歩くのは予想外だったが、特徴ある外観は20年以上たった今でも鮮明に覚えていた。
館内では、タブレットを使って水槽の中を撮る娘 を撮る父親、の構図であったが、傍から見て親子に見えたかどうかは興味深い。(年の離れた兄妹 もしくは カップル くらいに見られていたのだとしたら嬉しいところだが、さすがにそれは自惚れすぎか)
エイやサメに触れるコーナーでは、一瞬だけ小学生に戻った娘を見れた気がする。
見て回るのに2~3時間かかるという前評判とは裏腹に1時間ちょっとで退出。母親への土産を買うというので「あいつはジンベエザメが気に入ってる」と助言してやったが、これは感謝されてよいと思う。ただし支払いは私だ。
まずは梅田に戻るわけだが、朝から食べ物を全く口にしていないことに気がつく。
もし米原に置いた車が動かないとなったときに備えて、車が使えずとも終電まで家に着ける時間を逆算すると、あまりゆっくりしていられないのではあるが、駅ビルの中の「カフェ ラ・ポーズ」で少し小腹を満たす。なぜその店であるかの説明も割愛するが、嫁とはファミレスや定食屋ばかりで、いわゆる「カフェ」には行ったことない気がする。
20時台の新快速は朝と違って凄い混んでいたが、長浜行きのその電車は米原に近づくにつれて空席が目立つようになる。「駅に着いたら運転なんだからパパは寝てて。起こしてあげるから。」と最初は気丈だった娘だったが、草津に差し掛かるよりも前にウトウト始め、ついにはオーケストラの続きを見始めてしまった。長浜まで行っちゃうと後がないのだが。
「絵師は幼い頃に頭を強打している」みたいな都市伝説を耳にしたことがあるが、この娘も小1の時に家族での登山中に滑落した経験が幸いしてか、今は絵師の端くれをしているようだ。一ノ越から黒部平に向けてタンボ平を下山中、先頭でハシゴを登っていた娘があと数段のところで手を滑らせて崖側に転落したのだ。学生時代から山をやっていた私はとっさに死を覚悟し、気を失いそうなくらい動転したが、落石の音が止んだと同時に泣き声を発してくれたのだ。1ミリたりとも動くな、と声をかけて落ちていった場所に近づく。ちょうど2階建の屋根から落ちたくらいの高さだったが、付近は鋭利なガレが窪地を埋め尽くしていて、重登山靴を履いてるからこそ何とか歩けるような状態。そんな中に半畳だけ、あきれかえるほど平らな岩があって、その平らな岩の上に娘が倒れていた。これまでに見たことのない巨大なタンコブを額に作っていたが、出血もないしタンコブが出来るのは大丈夫な証拠でもある。平らな岩がなかったら、落ちた場所が50cmでもズレていたら、尖った岩々が確実に娘の頭蓋骨を叩き割っていたはず。
黒部平のロープウェイの駅まで1時間ほど負ぶって下山し大町の病院のCTで異常なしを確認。翌日は包帯を巻いたまま登校し、そのまま9年間無欠席を続け義務教育期間皆勤賞を得るに至ったが、あのとき奇跡が起きてなかったら、いまこうして電車に乗ってることもなかったのだと思いふけっているうちに長浜行きは米原駅に滑り込んだ。
駅に置いた車は何とか動きひとまず安堵だが、また調子が悪くなるといけないので、深夜の名神はトラック並のスピードで。そういえば、嫁と結婚する前は、やたら高速をゆっくり走っていたなぁ。いまなら2時間のところを当時は3時間かけて。
北陸新幹線の敦賀・新大阪間のルートが、小浜・京都経由できまりそうと聞いて、もう日本は駄目かも、と思った。現在の日本の財政的窮状が見えていないバブル脳の老害がまだ政界に跳梁しているのか。
https://www.mlit.go.jp/common/001152043.pdf
舞鶴経由なんてもとより頭がおかしい。もともと無茶な小浜経由の影を薄くするために、わざとスケープゴートとしてむりやり候補にねじ込んだとしか思えない。
新大阪駅・京都駅間の人口密集地にもう一本、新幹線を作る?どれくらいのお金と時間がかかると思っているんだ?(資料では2.1兆円とあるが、とてもそれですむとは思えない)。新快速がバンバン走る中、どれくらいの需要があるんだ?しかも、既存の東海道新幹線と並走するんで、災害時の迂回ルートにもなりはしない。そして小浜市という人口3万の町のどこに、わざわざ迂回してまでも行かなければいけない巨大な旅客輸送量のニーズがあるんだ?それって、(米原ルートとの小浜ルートの建設費の差額の)1兆5千万の価値があるのか?国家予算が50兆円の時代の1兆5千億円の価値が分かってる?日本人の美徳の「もったいない」精神はこれだけ規模がでかいと忘れ去られるのか?
一方の中央新幹線の大阪延長は、国の融資支援による前倒しが決まっていて、現状では2038年開業予定になってる。北陸新幹線は、2023年春に敦賀まで開通予定で、その直後に着工しても、小浜ルートの工期15年だから、結局、開業時期は同じだ。
だとしたら、北陸新幹線は米原ルート(工期10年)にし、米原駅のホームを、東海道新幹線から北陸新幹線にドア・ツー・ドアで乗り換えられるように改造し、5年間は米原での乗り換えを我慢する。中央新幹線が開通し東海道新幹線の便数が激減する 2038 年から大阪からの米原経由・直通便を出すようにするのが、もっとも経済的に合理的だろう。
ソフト施策としても、たとえば米原での乗り換え時に、プラットフォームで隣の車両の移動するだけですむよう、指定席を車両単位でシンクロさせるとか、指定席特急券は特例で通しで買えるようにするとか、いくらでも施策は打てる。「JRの会社が違うから」などと言うのは、兆円単位の工費の違いに比べれば些細な差に過ぎない。
今の日本は高齢化が洒落にならない状況に深刻な状況に陥っていて、お金は少しでも多く、今後の高齢者を養う力を持つ若者を育てる教育と、国際的にお金を稼げる技術力の種を産む研究開発費に突っ込まなければいけない。そして2100年には人口は8千万人まで減少すると予測される中、地方から「撤退」して、生活資本整備は都市部に「集中」と「選択」をする政治的に難しい舵取りをしなければならない。
経済的にあまり効果がない土木工事には1円ですらお金を費やす余裕はない危機的状況なのだが、「北陸新幹線は小浜ルートで」などと寝呆けたことを言っている連中は本当に日本の現状がわかっているのだろうか?
米原ルートのもう一つの利点は、米原の北東側に、北陸新幹線と名古屋方面への短絡線を作れば、横浜・静岡・名古屋から北陸方面への新幹線移動も可能になる点だ。しかも安くできる。繰り返しになるけど、2038年に中央新幹線が大阪まで開通すれば、東海道新幹線はがら空きになる。それを有効活用し、災害時に迂回路としての役目を果たせるよう、メインルートから距離を離しておくのは、ものすごく重要だ。
なので、我々がすべきことは、2038年開通予定の中央新幹線を新大阪までしっかり期限内に完成させて、空いた東海道新幹線をすぐに北陸新幹線に転用できるよう、東海道新幹線と北陸新幹線の制御系統の共通化などソフト面での対策を、時間をかけてしっかりやっておくことに尽きる。
場合によれば測量・説明会運営・用地買収は政府や自治体が支援すれば、中央新幹線の開通はもっと早められる可能性もあるだろう。
これまでも、日本の鉄道の災害対策は「天災で路線にダメージが出たら、工事担当者が集中して復旧作業して、素早く再開させる」のが基本で、需要にまったく見合わない東海道・北陸・中央新幹線のトリプルネットワークの整備は筋が悪すぎる。どんな災害でも素早く状況を見て復旧ができるような人材の維持・育成こそ大切だ。
少しでも多くのお金は日本の未来を担う人的資源の育成に。土木事業で業界を潤すという考え方は早く捨てないと、日本に未来はない。最小限の投資で最大限の効果を実現するよう、願わくば、多くの関係者に再考をお願いしたいと思う。