はてなキーワード: キリスト教とは
歴史を見ると資本主義っていうのは利潤の最大化を目的とするから拝金主義に陥りやすい、
現代においては倫理観とかろくに教育されてない人間が金っていう支配力を持った時に
倫理とか他人の尊厳とかそういうものを疎かにしがちってことかな。
コロンブスが今わあわあ言われてるのも根本はそこだよねっていうのはなんかあってる気がする。
もっともそれはマルクスおぢさんも言ってた気がするし昔からよく言われてることだとは思うけど。
強欲な人が悔い改めるキリスト教的ストーリーが欧米圏で年末によく放映されるのも、そういうのを戒めてるんだろうかなって思う。
儒教とか東洋の思想にヒントがあんのかな?っていうと…まあ東洋西洋関わらず宗教とかって大体みんなそこ言ってるんじゃね?とは思う。
金持ちはもっと金を増やせ貧乏人を蹴落とせって教えてる宗教とか見たことない。
まあ人は都合のいい時とか余裕のある時はそういうの思い出せるんだけど、自分がやばい時とか余裕がない時とかはなかなか思い出せなくてやらかしちゃったりするんだと思うけど。
んで今の資本主義っていうのは、そういうズルとか倫理的にまずいことをできないように厳格にルール作りしていきましょうよっていうのも含めて資本主義なわけだよね?
んでそこに必要なのはマネジメントすよね!って言ったのがドラッカーおぢさんだったりとかするわけすよね。
なんかまあそこまでは承前のこととしてわかってなきゃだし、みんなこれからも資本主義を続けるにあたって
盲信したりとかしないでその取り扱いとかデメリットも理解したりとか、もっと倫理面とかもお勉強しなきゃねっていうのはわかるー
反知性主義は「反・知識人」「反・エリート」のような意味であって、「反・科学」「反・学問」という意味ではない
国際基督教大学教授の神学者、松本あんり氏によれば、反知性主義とは知性的なものを侮蔑する態度や科学的な根拠に基づかない政策や思想でなく、権威ある知性的なエリートが権力と結びつく「知性主義」、即ち知的な特権階級に対する反発だという。「反知性主義」という言葉の名付け親は米国の歴史家、R.Hofstadterだが、米国の反知性主義は「反・知性」主義ではなく、「反・知性主義」を意味する。リベラリズムの根底にある意思力崇拝や設計主義、理想を完璧に実現することを求める完全主義に対する疑念ともいえる。この考えの根っこにはどんなに偉く知性のある人に対しても、神の下に同じ人間として平等だという宗教的価値観がある。キリスト教が育んだ反知性主義だが、当然だと思われていた古い権威を問い直し、解体していく期待や可能性も包含する。
https://www.niigatashi-ishikai.or.jp/newsletter/contribution/202104014568.html
カントの定言命法ってなんかそれっぽい用語を使ってるから何らかの原理みたいに思えるけど、要するに仮言命法とは違って論理性という錦の御旗のないただの主義・主張でしかないんじゃないか?って思った。
他人に最低限の敬意を持ちましょう。って言われてまあそうかもねっていう素朴な共感はあるけど、それは感覚の問題であってそこに論理はない。もっと言えばその感覚すらも社会的に形成されたもの、というかキリスト教の倫理規範そのものなんじゃないか?って思う。
じゃあカントによる道徳の再定義・正当化も、論理性・合理性という現代(?)風な科学のツールで飾り立てつつ、結局は聖書の価値規範をリブートしただけなんじゃないか?って思った。
もっと遡れば、じゃあその他敬を良しとする社会はどう構築されたののか?無から湧いてきたのか?って問題が出てきそうだけど。
神様がそうしたからです、という答えなら簡単に済む。人にそういう機能がプリインストールされてるからです、だとそれも道徳の正当化に使えそうだけど、事実を規範にすり替えないといけない。
道徳の根拠として定言命法を持ち出すのは、少なくとも論理で語れる面については色々と新しい発見をしているすごいカント先生の言う事だから説得力があろうっていう権威主義的な要素もあるんだろうか。
実際に人間の尊厳という概念が社会に影響を与えているというのは事実にしても、それは別に論理的必然性との関係はないよね?って思う。
そんなに徹底して厳格に理詰めで考えてたら、そもそも規範なんてありませんというニヒリズムに辿り着かざるを得ない。
じゃあある程度は感覚的なものに依拠する規範を公理として置いて、そこから道徳の話を始めようって事なのかもしれない。それがキリスト教か人権思想かは知らんけど。
そういう話ならまあ分からんでもないけど、それだとかなり重大な前提条件あっての議論な訳だし、それをさも論理的に話をしてるんですけど?みたいなスタンスで行くのは欺瞞じゃねえか?
本質論を言えば「人として接する」は具体的な行動指針に還元できるものではないよ。教会に行くことが神を信じることとイコールではないように。神を信じるとは、神の存在を前提した世界に生きることだ。何故とつぜん神の話をしたかといえば、「人として接する」は実際にひとつの宗教だからだ。「個人」や「人権」の概念はキリスト教に由来するところが大きい。坂口ふみ『〈個〉の誕生』は良い本なのでおすすめしたい。
だからこの信仰について言葉で語ることは本当はできないのだけど、あえてその教義を表現するなら
あたりになると思うけど、そう言われて分からない人は分からないだろうし、こんなふうに書いてもあまり意味はない。
断っておくけど、わたしはこれが分からない人を〈悪い〉とは考えない。たんにこの神の教えに入信していないというだけだ。もちろんこの教義に照らせば「悪」なんだけども。
とはいえ、「入信しているフリ」ができないわけではない。その方法をお教えしよう。これはわたしもやっていることなのだけど、その方法というのは、「人間を徹底的に、本当に徹底的に馬鹿にすること」だ。軽蔑にしすぎて愛おしく思えてくるくらい徹底的にね。愚かで、矮小で、醜悪で、しかも自分がそうであることに全く気付かすに自信満々に生きているおかしな生き物たち。ただの自然現象に過ぎない、川の流れの中に生じた淀みみたいな存在なのに、自分は自由意志を持つと信じる憐れな自己複製パターン。そんなふうに人々を見てみよう。言うまでもなくこれは先に挙げた教義のうち上2つの完全な否定だ。しかしここで重要なのは、3つ目の教義は維持すること。つまり自分もそういう憐れな淀みに過ぎないと思うこと。これがいちばん重要なことだ。「すべてを軽蔑せよ。だがこの軽蔑によって窮屈にならないように。軽蔑によって他人に勝るなどと信じるな。軽蔑の高貴な術のすべてはそこにある。」ある詩人がこんな事を言っていたけど、これは真理だとわたしは思う。
わたしも以前は「人を人と思っていない」と他人から嫌われたものだが、このような態度を取るようになってから、そういう批判はもらわなくなった。それどころか、いっぱしの人格者だとみなされているフシがある。「人として接する」がどういうことなのか、根っこのところではまだ良くわかっていないのにね。あるいは案外、みんなそうなのかもしれない。まあとにかく、徹底的に人を軽蔑するというこの指針を試してみてほしい。「徹底的に」やるのが大事だ。「人として接する」という抽象的な表現よりはだいぶわかりやすいのではなかろうか。
https://anond.hatelabo.jp/20240505030127
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、この区別もできないガチのバカがいるのに驚愕したのでいちおう書いておく
この程度は分かっているよ馬鹿ッ、と言いたげな増田の多数派の智者には申し訳ない。 一番最初に書いておくが、この区別がつかない奴はさすがにバカすぎるので反省したほうがいいぞ。 まず最初に出てきたのがユダヤ教で、これは旧約聖書を聖典としています。 主役はノアの箱舟で有名なノア。 ノアが神様から十戒の石板として戒律を与えられ、それを元にユダヤ人を導き、約束の地エルサレムに到達するお話。 これは民族主教としての色合いが濃く、ユダヤ人以外はだいたいクズとして扱っています。 神様が愛したのは敬虔なノアとそれに繋がるユダヤ人だけ。 それ以外は異教徒なんで適当に地獄ぶち込みコースです。 基本的には、ノアが授かった戒律を重視する宗教なんですね。 アダムとイブから始まる「原罪」を人間は背負っているから、その罪の意識と共に戒律を守って生きましょう、という宗教。 当然、いろいろ制限が多い。 それに対するカウンターと