はてなキーワード: 貴族とは
手頃な試験問題がないだろうかと講義名をネットで検索すると、ときどき同じ学科の学生のブログに行き当たることがある。ブログの文章だけで判断してはいけない、そのような判断は間違った思い上がりなのだと自分を制しつつも、こみ上げる嫌悪感を俺はどうしてもとどめることができない。ああ彼は本当に内面の生活というものをもたない人間で、うんざりするほど取るに足りない存在なのだな、と。内省とまるで縁のない、産業社会の権化のような人間に混じって勉強することが耐えがたい屈辱に思えてきて、俺はあらゆるしがらみを振り払って山のなかに逃げ込みたくなる。
『人の顔というのは一種の象形文字であり、はっきりそれと定まった聖なる符号なのだ』とホフマンスタールは言う。それをもじるならば、精神の仕種もまた聖なる符号なのだ。「産業社会の権化」といった。それは確かにロボットではないだろう。『魂がないというふうではけっしてない。また魂の光がきらめくことがじつに稀、というわけでもない』。だがどうだろう。『この人たちは別のことをも口にしうるのではないか、ああ言おうとこう言おうとどうでもいいのではないか』。彼は確かにロボットではない。ところが、精神の仕種が思想に欠けていれば、そこにはもう象形文字の神聖さが失われている。『あのけっして言い表しえない一箇の大いなる背後の思想、人の口から出てくるもののすべてに核を与え、響きを与えるもの、ちょうどつぐみにはつぐみの、豹には豹の声があり、かつその声のうちに言葉はとらええないその存在の本質がすべてあらわれているように、およそ語りなるものを人間の語りへと変える背後の思想は・・・・・・』。精神の仕種を俺は求める。『むしろ、言葉に出すことなくそれを語ってほしいのだ。声の調子が、立っているさまが、顔が、振る舞いや行ないがそれを語るべきなのだ』。ああ、俺はそれを精神の仕種と呼ぶ。
『上下があり、優劣、精粗、左右、賛否があり、市民階級、貴族階級があり、同窓仲間があれば貸借関係がある。だがこれらのいずれにも、真の関係の緊密さが欠けているのだ。』相互の関係でなく、個人内部の関係もまた空転している。ロボットならまだしも歯車があったろう。彼らには歯車がない。『互いを噛み合わせるものがない。何かが欠けているのだ。それを表すべき術語は見つからない』。それが大学という場所なのだ。
それくらいが世間標準なのか。
俺は自分のときは祖父母(母方はそもそもいなかったが)に貰ったものは小学校入学時の机くらいか。
あとはお年玉くらいは貰ったが。
(うちの親はむしろうちが援助しないとヤバいくらいなので全く期待できない。嫁の親はまだ余裕あるけどまぁそのレベルはないだろう)
増田の言うようなのは貴族階級の話かと思ってたけど、それが実は平均レベルなのか?
だとしたら一連の行動にもまぁ納得できるんだけど。
ていうか俺んちどんだけ底辺だったんだよって感じだけど。
わかったわかった。俺もそんな貴族な発想する奴がいると思ってなかったよ。
http://anond.hatelabo.jp/20121204195754
どっかで読んだ気がしないでもないけど、ちょっと書いたから発展させてみる。
選挙制度丸否定、貴族制容認ってのは若者が読む物語として面白いと思う。
主人公は完全権力側の人間だし。十氏族(認められていないけど)だしFLTだし風紀委員だし。今の世相を良く反映している気がしないでもない。
個人でどんなに頑張ってもその程度だ、って。
若者向けの物語って「血統主義」だけど「貴族主義」は認めてないことが多いように思う。
キャラクターが優秀である理由を「血」に求めているんだけど、親の七光りとか実家の権力を利用するキャラクターは悪として書かれる。
ところがどっこい、魔法科のキャラクターは「優秀なのは血のおかげ」でありつつ「実家の権力を大いに利用する」。
達也だけじゃなく、エリカもそうだし。雫はそもそもそういうポジションだけど。
あと、6巻の選挙制度全否定は正直すごいなと思った。
当事者全員が完全に納得ずくでやるなら、もちろん悪くない。
嫉妬心がほとんどない人だけで合意の上の多対多の恋愛をし、各自相手は疎かにしない、という理想が実現される限りにおいては(おそらく、市場はだいぶ狭くなるだろうが)。
キャパオーバーの掛け持ちをする奴が出て、疎かにされた人が傷ついたと言い出して紛糾する未来は割と容易に想像できる。
比較的それに近い恋愛関係が維持されていた平安時代の貴族にも、「あの人が最近あたしのところに来てくれない……」みたいな恨み節は山ほどあるし。
条文が削除されたのはデマではなかろう。意味がない、と言うが、意味がないなら削る意味もないだろう。意味がないということにしたい勢力がいるのではないか? と疑われかねない他の文言改正とあわせて読めばさらに。例えば人権が自由への努力の成果ではなく、「おカミによって与えられ(また奪われる)もの」としているように個人的には感じた(そしてそれは許し難い)。14条は差別の禁止しか言ってないし、11条はわざわざ「将来の国民」から権利を奪うことを明示しているとも読める。
その上、「公益及び公の秩序に反しない限り」だ。
例えば人権が自由への努力の成果ではなく、「おカミによって与えられ(また奪われる)もの」としているように個人的には感じた(そしてそれは許し難い)。
おカミて、神?上?紙?どういう意味で許し難いの?
法律専門じゃないけれど、人では無い憲法という抽象物から権利を与えられ、というのが世界的によくある形態。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
自民党案
第十四条 全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
??差別の禁止だけでもないし、これ以上何を入れろと?
余計な文章を入れ込むことによって、裁判でおかしな判決で不利益こうむる人も出てくるんだよ?
それに、障害の有無を入れたあたり、評価すべきじゃないの?
侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
「永久に」が残っていれば将来に渡って、の意味も含まれているでしょ。
それより、「国民に」を削って国民以外も視野に置いた点で、在日○○人らには良かった改正じゃないの?
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
自民党案
(人としての尊重等)
第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
その上、「公益及び公の秩序に反しない限り」だ。
公共の福祉、これは論争がある用語らしいね。面倒だからコピペ。
もっと明瞭な用語に変更して誤用や乱用を防いでいるように取れるんだが、具体的に何が「危険思想」なの?
公共の福祉の意味については、古くは争いがあった。尚、現行憲法では「公共の福祉に反する場合」国民の基本的人権(言論・結社・身体の自由等)を制限できるので、極めて重要である。
一元的外在制約説
公共の福祉という用語は、当初は人権の外にある社会全体の利益を指すために用いられ、公共の福祉を理由として人権を制約することが判例上広く認められていた。この説は、もっぱら人権の外部に「公共の福祉」なる概念が存在し、あらゆる人権保障に制約を加えることができる、という意味で「一元的外在制約説」と呼ばれる。
この説は現在では全く支持されていない。なぜならば「公共の福祉」を根拠にいかなる人権も制限可能であるならば、大日本帝国憲法の“法律の留保付き”の人権保障と全く同じ運用が可能になってしまい、個人の自由を最高の保護法益とする日本国憲法とまったく相容れなくなるからである。
二元的内在外在制約説
公共の福祉により制約が認められる人権は、経済的自由権(22条と29条)と社会権に限られ、12条・13条は訓示的規定に過ぎない、とし、右の権利以外は憲法的制約はなく、それぞれの社会・文化関係から自律的に制約されるのみとする説があり、これを「二元的内在外在制約説」と呼ぶ。
一元的内在制約説(通説)
宮澤俊義により主張され現在の通説とされる学説[1]。公共の福祉を人権相互の矛盾を調整するために認められる実質的公平の原理と解する。この意味での「公共の福祉」とは、憲法規定にかかわらず、すべての人権に論理必然的に内在しているとする。この「公共の福祉」原理は、自由権を各人に公平に保証するための制約を根拠付けるためには"必要最小限度の規制"のみを認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保証するために社会国家的公共の福祉として機能する、とする[2]。
例えば、憲法上保障される表現の自由は、同じく憲法上、幸福追求権の一種として保障されると解されているプライバシーの権利と衝突する。このような事態が生じる場合に両者の調整を図るための概念が「公共の福祉」である。
もっとも、このような理解に対しては、いかなる場合にいかなる程度の人権の制約が可能であるのか明らかでなく、結局「社会全体の利益」と理解した場合と同程度の不明確さが残るのではないかとの批判がある。このため、一元的内在制約説を人権制約に関する具体的な違憲審査基準の規準として準則化したものとして、「比較衡量論」(ad hoc balancing)や「二重の基準」 (double standard) の理論が提唱されている。なお、公共の福祉による人権制約は法令によってのみ行われ、法令による規制が合理的であるかどうかは違憲立法審査によって行われる。法令以外によっての公共の福祉による人権制約は許されない。例えば契約書や約款・就業規則等の規定が公共の福祉の根拠となることはない。なぜなら民法90条「公序良俗に反する契約は無効」とは全く異なる概念であるからである。
ぐぐればあるんだから、二人とも条文書いてよ
自民党案で削除されたと言われている条文:
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
自民党案
(基本的人権の享有)
第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。
要するに、47条は基本的人権の理念や経緯説明で、それに対して法的拘束力だか現実味を加えているのが11条のように読める。
やっぱ11条あれば47条なんて無くてもいいように見えるし、11条残ってるんだから基本的人権無くしたとするのはミスリード、と言う意見は間違っていないように読めるよ。
だからそれが無理だっつってんのwww
あと常識だけど、「本人の能力」は幼少期の家庭環境の影響が超でかいからね。
ごく稀に例外はいるけどな。俺とか。
しかも俺が言ってるのは「学んだあと」の話ね。
し、没落したくない貴族が優秀な血を迎え入れようとすると思うが?
逆に、実力主義が徹底されていないということは、既得権益がはびこって血族主義になるという事だから、能力が下がっていく。という事かと。