2013-01-08

帰国者の手紙より

手頃な試験問題がないだろうかと講義名をネット検索すると、ときどき同じ学科学生ブログに行き当たることがある。ブログの文章だけで判断してはいけない、そのような判断は間違った思い上がりなのだ自分を制しつつも、こみ上げる嫌悪感を俺はどうしてもとどめることができない。ああ彼は本当に内面生活というものをもたない人間で、うんざりするほど取るに足りない存在なのだな、と。内省とまるで縁のない、産業社会権化のような人間に混じって勉強することが耐えがたい屈辱に思えてきて、俺はあらゆるしがらみを振り払って山のなかに逃げ込みたくなる。

『人の顔というのは一種の象形文字であり、はっきりそれと定まった聖なる符号なのだ』とホフマンスタールは言う。それをもじるならば、精神の仕種もまた聖なる符号なのだ。「産業社会権化」といった。それは確かにロボットではないだろう。『魂がないというふうではけっしてない。また魂の光がきらめくことがじつに稀、というわけでもない』。だがどうだろう。『この人たちは別のことをも口にしうるのではないか、ああ言おうとこう言おうとどうでもいいのではないか』。彼は確かにロボットではない。ところが、精神の仕種が思想に欠けていれば、そこにはもう象形文字の神聖さが失われている。『あのけっして言い表しえない一箇の大いなる背後の思想、人の口から出てくるもののすべてに核を与え、響きを与えるもの、ちょうどつぐみにはつぐみの、豹には豹の声があり、かつその声のうちに言葉はとらええないその存在本質がすべてあらわれているように、およそ語りなるもの人間の語りへと変える背後の思想は・・・・・・』。精神の仕種を俺は求める。『むしろ言葉に出すことなくそれを語ってほしいのだ。声の調子が、立っているさまが、顔が、振る舞いや行ないがそれを語るべきなのだ』。ああ、俺はそれを精神の仕種と呼ぶ。

上下があり、優劣、精粗、左右、賛否があり、市民階級貴族階級があり、同窓仲間があれば貸借関係がある。だがこれらのいずれにも、真の関係の緊密さが欠けているのだ。』相互の関係でなく、個人内部の関係もまた空転している。ロボットならまだしも歯車があったろう。彼らには歯車がない。『互いを噛み合わせるものがない。何かが欠けているのだ。それを表すべき術語は見つからない』。それが大学という場所なのだ

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