はてなキーワード: いの町とは
http://nakamuraisao.a.la9.jp/laquila.pdf
イタリアの48時間でテント3000建てたという話の実際が書いてある
読んだ感想としては「日本で同じ事したら批判の量はとんでもないだろうな」というところ。
地震の数時間後から市内は立ち入り禁止区域とされた。余震による被害や盗難を防ごうとした ようである。その決定は防災局によってなされた。
これが後に紹介するがデモの種になる
次に避難の状況だが、防災局によると、家を失った人は 62,543 人で、うち 28,579 人は 5,553 張りのテントに、33,964 人は 518 のホテルに、2,225 人は民家に避難した。ホテルはペスカーラ など 100 キロほど離れた海沿いの町にある。テントとホテルの仕分けは防災局によってなされた が、仕分けの基準は不明であるという。
他にもでてくるが防災局の権限はかなり強力で、実際の振る舞いも割と強権的である
初動 48 時間で 3000(18,000 人分)の避難テントが設置されるなど、対応が比較的早いこと、また 人的資源としてはボランティアが 9000 人と大量に動員されたことである。ここには防災局に登録 されたボランティアも多かったのではないかと考えられる。
補足すると初動48時間に動員されたボランティアは4,300人で消防(2,400人)や警察(1,586人)や軍(1,825人)より多い
日本で言うと全国の消防団員が駆けつけるというイメージが近いか
約 1000 人(最大時は 1500 人)が収容されているグローボ・テント村を訪ねたところ、一つのテ ントは 10 畳ほどの広さがあり、中は電化されていた。エアコンも入っていたが、それでも夏は暑 くて困ったという(図 11、図 12)。また知らない人との共同生活はつらいという声もあった。ある 高齢の女性は、同じテントの他の収容者が全員クルド人の男性で、着替えもできないし、居場所 がないと嘆いていた。居住環境は、日本の体育館と仮設住宅の中間ぐらいに位置するようである。
テントが多数建てられたといっても十分希望を聞けるわけではないようである、というか女性一人に男五人というのはさすがにありえなくないか
たとえば市内全域の立ち入り禁止は、住宅被害のない 市民や商店などにとっては、不満で、7 月には立ち入り禁止解除を求める 2000 人規模の市民デモ が発生している。また強制的な遠隔地のホテルへの移送や、効率を重視したテントの部屋割(民族 や男女を無視した)などにも不満があるようだ。ある住民は、防災局のオペレーションを評価しつ つも、「なにか軍が入ってきて占領された感じがある。特に困ったことはないが、人間としてそ れだけではない」と話していた。軍が管理するテント村では特に管理が厳しいといわれ、管理体 制への反発から、テント村を出ていった住民も尐なくない。
身バレしない程度に書く
ヨーカドー、ダイエーのあるような町まで車で30分くらいの町、というか村。
そりゃ、飲み屋もなけりゃ宅飲みになるし、若者に宅飲みさせりゃそうなるわな。
「ただしイケメンに限る」が「ただしヤンキーに限る」になってる不思議。
この地域でヤンキーは、素行ではなくてただのファッションなので、別に悪いことをしてるわけでもないし、バカでもない。
ファッションヤンキーで私生活を謳歌しつつ、学業は好成績、いい高校に行きそこのカラーにあわせてまた青春謳歌、いい大学にってそこのカラーにあわせて…以下略っ勝ち組は少なくない。
もちろん故郷に戻ることはまずない。
とにかく金がかかる。
主に住居。
金はなくても楽しめるところがあるというのは半分本当で半分嘘。
タダでもやりたくない遊びやら、タダでも観る価値のないものをタダで楽しめる、観れるというだけ。
金があれば楽しい。
快適だし、楽しいし、だいたいの欲望が満たされる割には低コスト。
低所得者用のディスカウントストアから、そこそこの高級店から揃ってる。
1人1万円くらいでそこそこのディナーが食べられし、パリコレブランドの服なんかも取扱店がある。
一番退屈。
ほとんど全ての店が(食品、衣料品、外食、娯楽)ファミリー向けに特化し過ぎていて個性がない。
カラーといえば、違法風俗やら、闇金やら、都心じゃ規制が厳しく田舎じゃ商売にならないグレーやブラックな商売がちらほらってくらい。
たまたま記事が目に入ってきたのですが、思うところがあったので書かせて頂きます。
当方関東のどこかに住んでいる二十代後半男で、歴史系ウェブサイトを立ち上げる為に頑張っているところです。
仕事柄いろんな場所に行き、地域の裏山なんかに眠っている中世の城跡の歴史などを調査する為に茂みの中に入って行く事が多いのですが、
中世の城跡、つまりかつて戦国時代に軍事拠点であった場所の地権者って、代々農業を営んでいる方が大変多いのです。
それはなぜか。
私自身の話が分かりやすいかと思うのですが、私の実家のお墓は地域の小高い山の上にあります。
地域に数件ある増田家の墓のみがその小高い山の上にあり、増田家以外の墓の多くが同じ地域の低地にあるお寺の敷地内にあります。
てっきり増田家は地域の爪弾きもので、いじめられっこだったのかと勝手に思っていましたが、
どうやらその墓地周辺が中世戦国末期の城跡の主郭付近であり、増田家はその城主だった、とのこと。
そして現在の増田家は、やはり農家。江戸時代は庄屋さんで地域でも裕福だったが、やはり農家。
なぜ農家になったのか?
仮に小寺家としますが、小寺家の重臣として召し抱えられて、現在の実家近辺の統治を任されていたとの事。
その小寺家は隣の隣の隣ぐらいの町を拠点とする赤松家(当然仮の名)によって追放され、
増田家は赤松に下り(前述の低地のお寺は赤松の菩提寺の末寺)、その赤松も
当時関東平野制覇を目論む小田原の後北条家にやがて下ることになる。
北条家は赤松家を頭としその地方一帯を統治する◯◯衆を組織し、
増田家もその◯◯衆のメンバーとして、引き続き実家付近を拠点に統治を続けたとのこと。
そして問題の小田原征伐。豊臣とその取り巻きにて小田原を包囲し、関東地方一帯の小田原方の城郭が同時に攻撃を受ける。
上杉・前田・真田に攻められた八王子城の惨状や、忍城の成田家の奮闘はこの時の事で、うちの実家付近の拠点は簡単に落城。
増田家の筆頭は小田原城に籠もり、◯◯衆として勇敢に立て篭った、のかもしれない。
そして小田原北条家は滅亡し、関東の統治ネットワークはそのまま徳川家に与えられ、関東には徳川の家臣が流入してくる。
元々関東のそれぞれの地方を統治してきた◯◯衆の大半はその際に潔く農業を取り仕切る庄屋層に転身し、
残りの一部は徳川への仕官を申し出てたりして引き続き武家である事にこだわり続けたとさ。
かくして、関東の大半の武士が農家になり、少数の徳川家臣による統治を受け入れた。
この話を土地の古老に話したりすると、忘れ去られていた「イエ」の記憶を取り戻したようで、いたく感動される方が多い。
また逆に、「当家は代々武士の家系で・・・。」といった方に話をすると、複雑な顔をされる方が少なくない。
身分は固定されたもので、名前とともに受け継がれるようなイメージを漠然と抱いている方に多いのですが、
「単に先祖が徳川方に付いて頑張っただけ」というストーリーに聞こえ、どうも「武士の家系」イメージに合わないらしい。
(ちなみにこれらは関東の話ですが、土佐の長宗我部と一領具足の結びつきが幕末の坂本龍馬の時代まで尾を引いた事を考えると、全国各地である事なのでしょう。)
この話を踏まえて、血筋とは何なのか。
「イエ」の物語やその教訓は代々守り伝える限り残るが、
遺伝的な意味での「血筋」がはっきりと出るのは数代の限りなのではないかと考えている。
農家さんの多くが確かに自分たち自身を「ただの百姓」と呼び、学も無く品格も無い、と自虐的に語るが、
失われた歴史をストーリーとしてお教えすると、生き生きと誇りを取り戻す。
しかしながらそれまで受けてきた教育は変わらないし、次世代に何を教え残すかも教育者としての自分次第。
ちなみに「農民」で一括りにされる事が多いですが、庄屋層は江戸時代からかなり恵まれた教育環境にあったとのこと。
うちのばあちゃんも地域で唯一女学校に行かせてもらえたらしく、単に士農工商とかいうファンタジーではくくる事が出来ない場合が多い。
家庭環境の違いは生まれによって確かにあり、教育の質は当然大きく変わってくる。
また、「武士の家系」という代々受け継がれる「イエ」の物語が作り出す誇りと自信も大きいのかもしれない。
千葉県の某所にやはり「武士の家系で・・・。」という誇り高き地主タイプの方がいらっしゃいました。
その方の家はやはり小田原北条家に仕えていたとの事でしたが、なぜか江戸時代を通して武家として、徳川から本領を安堵されていたとの事。
何だろうな・・・。と思い調べてみると、何の事は無い、北条家に仕えながらも徳川家と内通をし、小田原征伐では豊臣側に付く代わりに、本領安堵の約束をしていたという(うろ覚え)。
「武士の家系」物語が作り出す誇りというものも、割と中身の無いものである。
(ただし、これも一つの歴史であり、武家としての「イエ」の歴史を守る、という意味では尊い決断なのかもしれない。)
教育の質に関しては、言わずもがなであるが、近代的な教育と人材登用システムが構築されてからはそのシステムをよく理解している事が肝心なのは当たり前で、
教育水準の高い家には、良い教育方針と良い物語が備わっているのかもしれない。
「物語」によって得られた誇りを胸に、立身出世を志す感覚が備わっているかどうかは大きい。
教育の機会も家庭の経済状況などに左右されてきたが、時代とともに様々な仕組みが生まれてきた。
貧困を理由とした教育機会格差の問題は、薄められてきた。「志」の教育を出来ているかが大きいと思う。
最後に大事になるのが、攻略法教育。つまり「受験」というペーパーテスト人材登用システムの攻略法を伝授できるか否か。
現代の引きこもりの人々は、高い志を母親、あるいはテレビや漫画から植え付けられてきたのに、
攻略法を持たないのでその理想と現実のギャップで屈辱感にまみれて腐っていく。(かなりもったいないと思う。)
そして、教育とは代々受け継がれるもの。早く気づいた方が有利なのは、間違いない。
明治時代から気づいている家庭もあれば、最近気づき始めた家庭もあるだろう。
ホテル、ってことはあそこだろうというぐらいの町なのです。ふひひ、さーせん。
確かにあそこからだと1時間探してコンビニがないってのは十分あり得ます。15分ぐらいでたぶん着く場所にしかコンビニはないです。もちろんどっちも別方向。
そしてあの辺をうろうろするんだったら確かに人通りはないです。一応飲み屋さん街はあるんですが、それでも人に会うかなぁ?元増田がどこの人か知らないけど、都会と違って移動の基本が車なので、昼間でも歩いてる人は極小です。
経済的に砂漠という表現にあわせると市役所か三井「さん」がオアシス状態です。直接じゃなくても結局どっちかにつながる感じ。
誰かを誘ってというと誘いにくい。自己責任の範疇を超えてしまうからだ。
太平洋から100km離れている街でさえもマスクをつけた人がたくさんいた。
別にさ、食べて直ちに害があるとは思えないんだけど、「食べて」とすすめにくい。
この気持ちのもやもや感が、この事故への対処に感じる不信感なんだろう。
県境を越えてかつて水俣病の被害が出た川沿いの町にもいった。水俣病の原因となった工場はかろうじて操業しているように見えた。
当時の資料に目を通すと複雑な気持ちになった。
そのときの被害の広がり方やその被害がどれくらいの年月がかかって風化されたのかを考えるとまだ慎重に行動するしかないのかもしれない。
四大公害病を経て成立した大気汚染や水質汚濁に関する法律が役に立っていないのが腹立たしい。
放射線を出さないタイプの汚染物質を大気中や水中に出すと罰則で会社が傾く。傾くから抑止がかかる。
過去の過ちから学習することができないのか。日本が擁するエリートはその程度なのか。ほんとうにくやしい。
そろそろおのれの命と引き換えに国や人を守る人が出てくるのかもしれない。
そんな淡い期待は捨てたほうがいいのか。
いわゆる同和問題が利権絡みのヤクザや胡散臭い団体の飯の種になっている部分はある。
でも、同和地区と言うのは、今も確かに存在する。
前の仕事が売れないセールスマンだったので、仕事柄本当に色んな都市の色んな街を歩いた。
それで今まで普通の街で普通の家で育ってきた自分には、にわかに信じがたい地区が確かにあった。
「ああ、日本にこんな地域や家が本当に実在するんだ」って感じ。
凸←こういう形の建物の両端に入り口があって真ん中で仕切られている2戸住宅(所謂ニコイチ)が、
地域一面に数百戸ずらずらずらっと整然と、あるいは道なりにちょっとバラバラに並んでる地域。
「○×団地」と書かれた地区の中にコンクリートの四角い家が延々と縦横に続いていく海沿いの町。
あと長屋。今時こんな長屋ってあるのかよってくらい嬉しくない意味でレトロな長屋の群がある地域。
他にも人権標語の看板とかビックリするほど路地が狭いとか、ホントに色んな地区を見てきた。
個人的には同和問題ってどうなの?って考えても全然当事者じゃないから何ともいえないってのが本音だ。
でも、自分がもし子供時代あんな地域で育ってたら。
テレビや雑誌では華やかな世界が映し出されてるのを、21世紀にボッロボロの長屋で見ていたら。
インターネットで同和の野郎は・・・とか書いてあるのを、ニコイチの建物で夜中に見ていたら。
どう思って育ってただろうなぁ。とは思ってしまう。