なんで言えばいいの
「お先です」はなんか偉そうだし
「お先に失礼します」は帰る時ならいいけど朝使うのはちょっとなぁと思ってしまう
「お先に出勤させていただきます」?仰々しいな
美味しい物食べました!!!!
うん、やっぱ太川さん勝たないと駄目だよね。良かった良かった。
去年結婚した。
旦那も私も子供が好きで、出来るだけたくさん、5人くらいは産みたい。
今年冬くらいに身篭るとして、40歳までに5人産むとすると、どう考えても私が仕事をやめなければならない。
産休、育休、数ヶ月復帰、また産休みたいなサイクルを繰り返すか、育休中に次の子を身篭るくらいじゃないと間に合わない。
連続で何年も産休育休って制度としては使えるけど女性社員でも煙たがる人も実際いるし多分気まずくて自分にはできない。管理職から見て、都合が悪いのもよくわかるし。
自分にとって出産に比べたらキャリアの価値は低いけど、もし30代で出産のために仕事をやめてしまったら資格職ではないので子育て後、40代とかでそれなりの仕事に就くことは難しいと思う。
かと言って、仕事のために産みたいけど産まないとか、タイミング調整とかは絶対したくない。
このままだと第一子の育休中に第二子の産休に入ってそのまま辞めるコースになりそう。頑張ってきたのにおばちゃんになってスーパーでパートくらいしかできないのかと思うと少し残念だな。
今では腕立て伏せ100回ぐらいなら普通にできるようになってきている。
筋トレが継続した理由が何かと聞かれれば、「理由をもとめなかった」からだと思う。
いい加減腹回りの肉が気になってきたしBMIが25前後で少し減らす必要があった事とか、最近肩こりがひどくなってきたとか、筋肉が衰えすぎて階段からの踏み外しであっさり骨折した人が近くに居たとか、そういうことの積み重ねだ。
と。
これが実に効果がある。
体重が気になるならダイエットをすればいいし、健康が気になるならサプリを飲めばいい。
だが、筋トレをするのに理由がないのだから、体調不良以外の理由では辞めることはできない。
筋肉をつけるために筋トレをすると言うなら今日は休んだほうが超回復が……なんて言い訳が出来るがそれすら無理だ。
虫歯になるから歯を磨こうとか、寝むいから寝ようとかそういうのすら凌駕した絶対的な指向性。
「やる。そこに理由はない」
絶対だ。
そうして筋トレが始まる。
腹筋、スクワット、プランク、腕立て、バイシクル腹筋、握力グリッパー……そしてプロテインの摂取。
やっている最中は秒数を数えるだけで回数は数えない。
痛みに対しては、筋肉を育てる痛みなのか、筋肉を育てない痛みなのかを区別することに神経を削りきりそれ以外は感じようともしない。
普通の瞑想であれば、寝ていたほうがいいのではという迷いが生まれるが、筋トレの最中にそんな迷いはない。
筋トレはいつしか日課になり、趣味になり、だがそこに今でも変わらないものがある。
「やる。そこに理由はない」
その概念だ。
女の子達がレイパー軍団に輪姦されたあとのエピローグ的なやつアレあるじゃん?散々ヤられちまったメス同士で慰め合ったりするあのお涙頂戴的な会話のシーン、みたいな?
何故なのか「被害者の女の子達だけで現場に放置されてる」事に強烈な違和感を感じてまともに台詞を読んでられない。レイパー軍団どこ行ったの?次の撮影現場??
いろいろ想像するに「1.リアリティを出したら「コンクリ詰めにして海洋投棄」にしかならない。2.そんな救い様の無い話は余程のマニアでないと拒絶反応しか生まない。
3.整合性を捨ててでも抜きを追求するなら、御都合主義のストーリーで行くしか無い。」みたいな合意が編集とのやり取りで発生しているんだと思う。
TwitterとかInstagramでたまに一人居酒屋とかバーで本読んでまーす的な投稿見かけるけど、酒飲みながら本読む気持ちがわからん。
眠くなるし絶対翌日には忘れてない?
これは全力で同意
あの青年キレ過ぎやろ
青年:わたしはね、こんなふうに思うことがあるんです。自分はまともに日光を浴びずに育った、へちまだと。劣等感にひん曲がってしまうのも当山でしょう。これでまっすぐに伸びるという人間がいたら、連れてきていただきたいものですね!
青年:……幸せな人ですね!ただね、そんなものはひまわり、ひまわりなんですよ。たっぷりの陽射しを浴びて、十分な水を与えられて育った、ひまわりの理屈です。薄暗い日陰に育ったへちまじゃ、そうはいきません!
青年:いやいや、逃げる必要はありません。売られた喧嘩は買えばいい。だって、悪いのは相手なのですからね。そんなふざけた野郎、思いっきり鼻っぱしをへし折ってやればいいのです。言葉の拳でね!
青年:神のことなど、どうでもいい!もっと素直に、もっと正面から、市井に生きる人間の心を考えてください!たとえば、社会的に認められたいという承認欲求はどうなります!?なぜ人は組織の中で出世したいと願うのか。なぜ地位や名声を求めるのか。それは社会全体からひとかどの人物であると認められたく願う、承認欲求でしょう!
自己肯定感が高い/低いと言いますが、そもそも自己肯定感ってなんでしょうか。
自己肯定感が低い(とされている)人は生きるのがつらい。自分が失敗してしまったとき、壁にぶつかったとき、不運に見舞われてしまったときに、必要以上に落ち込んでしまう。自分がなにか行動を起こすとき、自己肯定感の低さが足かせになり、なかなか行動に移すことができない。そんな自分が嫌になり、どんどん消極的になってしまう。ひょっとすると、予想だにしない幸福が訪れた時でさえ、自己肯定感の低さがあだになり、それを素直に受け取ることができない。あるいは、実際にはそこまで不幸でもない現実と自己肯定感の低さとのギャップを埋め合わせるために、ついつい自傷行為や自分を傷つける媒体や人に走ってしまう。周りには自己肯定感の低い人が集まり、相互に作用しあってどんどん不幸になっていく(書いていて嫌になってきました)。結果、生きるのがつらい。
逆に自己肯定感のある(とされている)人は、不幸や失敗にいちいち落ち込まずに、どんどん新しいチャレンジをすることができ、成功体験を積み上げやすい。経済的にも文化的にも幸福な友人や恋人に恵まれ、幸せな人生を送ることができる。つまり、自己肯定感を高めることができれば、今は不幸な人も幸せになれる。あらゆる問題(仕事面、恋愛、家族関係がうまくいかないなど)が、自己肯定感の問題に還元され、幸福に必要なソリューションです的な扱われ方をされるケースさえあるかもしれません。
果たして本当にそうでしょうか。例えば、自己肯定感の高い(とされている人)が、日々の暮らしで自分の自己肯定感の高さを認識することは少ないはず。呼吸をするときに空気の存在を意識することが無いように、ごく自然に存在しているものだと思います。逆に自己肯定感が低い(とされている人)にとっては、四六時中自分を縛り付けている呪縛のようなものかもしれません。そのせいで、個別になんら関連性のない事柄を自分の不幸な想像を駆使して結び付けてしまう。文字通り概念に縛られている状態といえるかもしれません。
実際には、自己に対する否定感情は、(人によりその頻度や強度は様々でしょうが)その時の環境や本人の体調に大きく作用され、瞬間的・個別的に発生するものです。単なる推測にすぎないのですが、おそらく瞬間的な自己否定の感情が習慣化してしまい、負のスパイラルに陥ってしまっている状態の人=自己肯定感の低いと認識してしまっているのだと思います。自己肯定感が低いことを内面化してしまうと、個別の事実を冷静に観察できなくなり、本来解決可能な問題に対しても自己肯定感の低さを理由に、適切な解決策を考えることができなくなってしまいます。
(私は精神科でもなんでもないのでいち素人の考えたことに過ぎないという前提のもと)もし、あなたが上記のような状態になってしまっているとしたら、取り組むべき課題は「自己肯定感を高める」という抽象的な何かではなく、自己否定の感情を覚える個別の事柄に対し、以下の順序で対処を試みることなのかもしれません。
2.その時の外的要因(人間関係とか仕事とか)と内的要因(体調とか心理状態とか)を把握する
6.日常的なセルフコントロール(体調管理や精神管理、瞑運菜眠など)を実践してみる
詳しくは知りませんが、上記は一般的に精神診療などで用いられる認知行動療法と同じようなもので、特に目新しさはありません。長々書いてきて、結局xevraさんと同じ結論かよ
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xevra 2020/07/27
運動、瞑想、睡眠、野菜を徹底してる人は自己肯定感と言う言葉そのものの意味が分からない。自分は自分、肯定も否定もない。ダメな所も良い所もあるただの人間だ。下らない概念に振り回される意味が分からない
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と言われるのも少し不満なので、一つ私の話をしようと思います。
私はもともと自分を自己肯定感の高い人だと思っていたのですが、最近自信がなくなってきました。というのも、そもそも自分と他人の人生に興味・関心が薄く、そのためか、強く共感したり、感動するとか、ましてや人を好き/嫌いになるとか、(物心ついて四半世紀が経ちますが)これまであんまりピンときていなかったんですね。それって自己肯定感が高いのではなく、単に自己/他己に対する関心を失っているだけではないかと思ったのです。
その意味では自分を好き/嫌いになれる人というのは(一切の皮肉抜きで)向上心のある人なんだなと思いますし、他人の人生に深く共感できるというのは羨ましくもあります。もしかしたら、三人兄弟の末っ子でまあまあ放置されて育ったこともあるかもしれません。自分を嫌いになることだって、裏を返せば自己愛が豊かな証拠だと思うのです。例えば、人が問題に直面した時に自己否定の感情を覚える現象は、私から見れば、(自己愛が豊か/理想が高いが故に)自分が劣った人間だということを直視できず、現実と理想のギャップを埋めるために、自己評価を下げることで帳尻を合わせるという、一種の防衛反応のように感じます。
壁にぶち当たった時に、自己に理由を求めるのは自分を大切にする心が備わっているからです。私のような自分や他人にいまいち興味の持てない人間は、環境や他者、自分の行動をシステマチックに整理して対策を考えます。ふわふわと物事が自己の問題を離れ、幽体離脱し、神の視点から考えている感じ。故にあまり落ち込んだりしないので、切り替えが早いとか仕事が早いといわれることもありますが、(反面無自覚に人を傷つける言葉を使ってしまうこともしばしば)本当に良い仕事、人の心を動かす言葉を紡ぐことはできないのではないか、と最近思います。
なのでもし、あなたが自己肯定感の低い人間だと自分を認識してしまっているとしたら、自分を嫌いになれることは素晴らしい才能で、自己愛と共感力の豊かな人間であること。自己肯定感の低いという概念を内面化せずに、目先の現象を都度観察し、一つ一つ対処を考え潰していくことができれば、とても感情豊で理想の高い人生をおくれるはず。そんなふうに私は考えています。