はてなキーワード: 愛玩用とは
昔アイカツのアニメをたまたま見た時、非常に気味の悪い空気を感じた。
上辺だけの会話、中身の無い展開、薄っぺらいお涙頂戴
なによりキャラの目が濁ってるのだ
表面上だけ綺麗に描いている(つもり)で、全員の目が腐ってた。
誰一人として「生きた」キャラが存在していない、それがアイカツの率直な印象だった。
余りにも薄気味悪く、すぐにチャンネルを変えてしまった。こんなもの観続けていたら心まで腐るからだ。
こんなものを見せられる(主な視聴者であるだろう)子供たちが真剣に可哀想だなと思った。
だがアイカツは「いい歳した大人(キモオタ)」がハマっているらしいと聞き、世も末とはこの事だなと幻滅した。
その後、たつきがけものフレンズの監督を暴挙的に解任させられ、その後釜を奪い去ったのが木村隆一とかいう知らん監督
なるほど、これが「監督の力量の差」か。「監督なんて誰でもいい」なんて関係者コメントが全てを現してた。 pic.twitter.com/TQJAYAOS4A— おんぴか (@onpika) 2019年2月3日
全てが繋がった気がした
けものフレンズ2と自称しているあの薄汚いクソアニメ、あのクソ気持ち悪さはアイカツの気持ち悪さだったのか。
思えばアイカツもキャラクターの目線が全然合ってなかった。全員がどこかの虚空に向けて会話をするという、コミュニケーション不全の世界だったな。
恐らくは戦犯・木村隆一自身が人の目を見て話さない人間なのだろうと推測する。
たつき監督のけものフレンズ(本物)はそんな事はあり得なかった。
サーバルも、かばんも、「人と話す時はちゃんと目を見る」というアニメに限らず実世界においても当たり前の事を当たり前にこなしていた。
だから「フレンズ」という響きが意味を持つ世界になっていたのだ。
人の目を見ないで会話する世界のどこに「フレンズ」の要素があるのか?
それにしても、そんな無能者が作ったアイカツ程度で満足してしまう人間は哀れだ。
きっと本当に「良質なもの」がわからないから、あんな不気味なアニメでハマれてしまうんだろうな。
本当に「出来の良いもの」、本当に「心が入っているもの」を知らないで生きてきたのだろう。
だからアイカツが「良質なもの」だと勘違いを起こしてしまうのだ。
ここで提案なんだが、アイカツをたつき監督で一から作り直してもらうのはどうだろうか?
たつきが監督し直すことでアイカツは本当の意味での「良質」な作品に生まれ変わり、今まで「アイカツ」と名乗っていたものがいかに酷いものであったか、そこで初めて理解できるだろう。
そして戦犯・木村隆一がいかに監督としての才能が欠如しているか、誰にだって分かるはずだ。
たつき監督ならアイカツ程度簡単に作れてしまうし、手間もかからないだろう。
少なくとも凡百のアニメ監督よりたつきのほうがあらゆる面で優れているのは明白だからだ。
たつきならば真の意味でのコミュニケーションを大切さを描写できるし、あの腐った空気も浄化してくれるだろう(というか、今やってるアニメの大半はたつきが作り直せばもっと良くなる)
そうする事で戦犯・木村隆一も己の力量の無さを自覚して、自分が「アイカツ」などというコミュ障腐敗アニメを作って視聴者の心を蝕んだあげく「けものフレンズ2」と勝手に名乗った産業廃棄物を放り出して数多くの人間を傷つけた事の罪深さを理解できるだろう。
それでもまだ理解できなければ
さっさと死んだほうがいいよ。
私は、2012年にマスタ卒業生の新しい卒業生によってNTT研究センターに入り、それは6年の間世話の下にあった。
それは、研究センターで同じ年、より優れ、ジュニア、およびボスに恵まれて、私は本と主題を読み、勉強されて、パワーが完全に節約されて、外での祝福で、また場所で外部の発表によって組み立てない経験をすることが可能であった。
どうもありがとう。
あなたが、会社の中のNTTで私がしていたことについて言うことができる何かがすべて出力される。従って、私はここで意図的に触れない。
NTTがセンターを客観的に研究するのを見る時には、それが、それがどうであるかであるかが説明されている。
とにかく、それは人に恵まれている。彼は採用の拡大のために、高価なものも持ち、グーズベリーのエリートは神秘的なパワーによって可能性を確かめて、豊富な学生入力から雇用される。すばらしい男が同じ年を見て、あなたが、見て、理解する必要はない時に表情のためここにある時および私が話す 私は 納得できる能力を持っている。ボスは観察エリアの失敗のほとんどどの話も聞かず、私だけが言った時には、それはいつもよいボスに恵まれていた。おお、私が見回った時には、私は永久に他を中傷し続けて、また毒を散乱させる声の大きい人があった…。
研究と予算の機器が豊富であること(国 相対的 で)少量、会社、私が危険を冒す時に、驚いた市場価格である製品の中、研究のために雷が鳴り、私は倒れて、あなたは、それらに、他のものが外に行くことができない研究をさせることができる。, また、外でソフトウェア開発パワーに注文をし、個人によりされえないパワーを示すことが、操作上の契約によって可能である の、持っている that 必要 時。
それは研究のために普通である 考え方のその2語の言葉 また、「そして、どのようにするかがそれによってするか 利益お金 ?」によってonにおいて目が密接に疑われる 。それが柔軟で、一般に私が企業の研究を言う時 NTT研究センターの場合のもの 「私は、どのように得るかを考えていないけれども、それは、これを持つこのフィールドの中で最も速く世界であるかもしれない。」 。「一番上の学究的なミーティングは通過する。」 壊れ、金格言が、すべて (それはまた、部門に依存する。)直ちに気にする 自由に から 勉強できて 重労働の重要性を理解している感謝している組織 ことなしでのあなたが、フラッシュするための何かを求めることができる時 。もしたとえ「私達は未来を5年遅くしている。」と言い続けているセクションがありさえしてもあなたが望むならば。1年、未来4年遅れ「作られている」、それが変わらないことが美しいこととして その間中 毎年 、およびそれ 通った。
例えば、また、もちろん、結果、様々、主題とビジネス製品としてのものの判断が見られる 重要な寄与 そのような形(イベントおよび技術的な訴えによってプラットフォームに行く)による活動は、また、寄与と思われる。
私は、いつも、最初はいつも私がめざす結果を見るだけではなく、研究は、その注意も、そのプロセスによって外に出て、考慮する副産物に変える暖かな組織である。
合法な意識が少し高くそんなにであることとスタッフがきついと感じていること、およびもの by which even 夜遅く FURETTSUの開発のまわりの残業zanmaiのための保持される労働 次に軽い すでにおとぎ話の世界について話すために来る でさえ。今すぐすぐ私がそのような話に出会うケースを全然持ちさえしない。完全な状況が全然ない時には、深夜勤はまた起こらず、たとえそれが起こっても、遅い夜勤手当は堅く支払われる。数倍、もしあなたが、時々労働組合をうろつくことを好んでいて 中の驚きによる職場 22時 ならば、夜遅くツトムを静かにしている人がないかどうかにかかわらず確認し、私に参加しすぎるけれども、私は偶然そのような場所で一度も出席しない。もしまた、もちろん、物が可能ではなく 錆バランス 、, 後で支払いがグルーピー から により検出されて、支払われる でするならば that 。もしそれらが最近はであったならば、私達は、また、週末および仕事(メール答え)においてそれが会社のシステムと接続されることが、「休日の仕事」とみなされているべきであると仮定し 少し実行された 、それは過去の年間の数のレコードと比較された、そして、それは会社の中で大幅に再考されて、私はトラブル似の意味によって重大な経験を持っていたけれども、これは、合法な意識が作り上げられうる仕事でもある。
研究員のほとんどは柔軟な作動時間システムであり、私が、結果、私がオフィスに来る時間を見さえする時について尋ねない、たとえそして、残業説示がまたすたれなくあり続けていても、そして、1番目の平均的な勤務時間が大きい7.5時間より低く、最もよいものは、それが問題ではないことである。私も持ち、それらは朝に弱く、基本的に、1人の人がプロジェクトであり、毎月の残業は、出席夕食時計外の近くで正午にマイナスの40時間についてであった、しかし、その原因を全然作らなかった給料カットを全然持たない。
店頭売りの本と主題は、また、基本的に、研究環境として読み、それは、静かに読むために、場所によって並みはずれて、また祝福する(入手可能な部屋)。コンピュータが、予算においてあなたが望むのと同じくらい多く強い何かも供給できて、私が住んでいた コアi7 8700+64GBメモリー+2 GTX 1080+30インチディスプレイ としてLinuxを贅沢な環境に含めている。
お金についての承認と不賛成があるけれども、悪くない支払いは支払われる。きちんと働く時に、日本の大学院大学を卒業した同じ世代の平均的な給料が超過であること、および賃貸、あなたにおける生活により補助金も借りられたかもしれない時。課長クラスに昇る時には、年間収入10,000,000超過はZARAにおいて出る。従って、貧しい教授よりそれが理学部の上昇ルートとして祝福したといわれていることができる。仕事はもちろん容易ではないようである。
NTTと呼ばれるパブリシティ価値は、また強く、私は自己紹介についてトラブルに遭っていない。なぜなら、国だけでなく外国の国でさえ、まわりで、ビジネスに関係する日本および深い国におおよそ通じているからである。それが親世代から見た時には、「私の子孫はNTTのために働く。」と言うことが、数度まで強力で、それは、また、それがそう歓迎したことを議論するために、彼らがtheに何かであらせると伝えていた、私は、もちろん議論するための何かを持っている。)
NTT研究センターで、義務を、そのような感覚によって、打ち明け話を持つ同じフィールドに必要な自身のほとんどと人に提案することが可能である、そして、私は、私が、大きく勉強し、名前をアカデミックに吠えさせたい人の代わりをしたい就職先を推奨する。それは奇妙に高い拡大を持ち、それは研究プレゼンテーションによってインタビューである。従って、化学によって落ちる物もあるかもしれない、しかし、私は、新しい卒業生がすべての人々であると思う 試験を受けている記念であり、あなたに入ってほしい 。入力座席の手書きはまた不要である。従って、私はアレルギーで手書きに救われる。
いつ なぜするか あなた 言う 私 そのような祝福された環境からそれを辞任する ?
時間平均が、7番目の年の間入口で6,530,000円の私の年間収入が会社員の支払いとして最初に書かれたこととしての数値として注意を引き付けることができるよりうまく、上に暖めることの多くをけなすために(すべてを含むボーナスと使用料補助金)。それは、それがよく、私が、ライフのためにそれがここから熱心に上がるかどうかを一方では言う時に私が管理プロモーションとして小さいゲートを通り抜けない限り8,000,000円であるかどうかにかかわらず、私がラインについてぐらつき続けていることである。
そして、決して、すべてのものが、人を等しく管理する仕事をもの by which にすることができた後に、私は考えることができないたとえ傍観者の観点でそれが見られていても、マネジャーの仕事は自身のための楽しみのように思われなかった。
会社でトレーニングしているライフ計画にそのような年間収入予想価値に出席する時に金融の計画者であるような講演者からNTTの状況を考慮する間、もし「もしそれが30,000,000円を越えるプロパティであるならばあなたがアパートを買い ライフ 、まったく厳しくなるならば、従って、私は、that."の下の見積りをするために勧めて、私はアドバイスを静かに受け取った。数度 ても 自身 それほど高価ではない than that もちろん 家に住んでいる に満足ゆくように生きていることができることに、, それがすることができなかった で合意した後に小さい家を建てるライフにおいて夢を見なさい。長距離の整流をする ファミリーによってそこに生きている東京の限界 。もちろん、すでに、そのような選択をした数千人の人々が、大都市圏にもいて、それらを全然けなさない意図も全然ないけれども、またライフにより良い条件によって住んでいる多くの人々がいる。
ライフ計画1を達成するために、現在収入に固執して以来、考慮する 悔いだけの老齢と会うためになる危険の自覚は保持されている。
TOまたはもしそれについて話しているならば、ニュースは適時に、すぐに外に出て、NTT研究センターが取り扱い改良に努力をするように思われる。
私は見て、NTT側は苦く、彼らは、才能で、GAFAにより侵害されているNTTであると思うようである(Google、アップル、Facebook、アマゾン)。
サワダ大統領は、研究において人的資源の足止め計画としてそれを特別なものとして認めさせていたプロフェッショナルな人的資源に高価な報酬を与えるために、会計年度19に賃金制度の程度が改良されると断言した。215,060円の大学卒業はマスタのコース仕上げであり、上述の会社の研究開発仕事の初任給は、237,870円である。
これはもちろん歓迎されるけれども、この調子では 根本的な解決策に来ないthat which 下問題である。
リストの1番目に近づく絶望が、セキュリティ環境であり、NTTが、日本ICTテクノロジーが前提として導かれる観点であるので、たとえ私が誤りをし、犯しても、私が、セキュリティ小紛争を引き起こす理由に行かないという決定がある。私が特にオリンピックについて言う時に、私が金パートナーでもある および。
大規模なセキュリティ出来事が起こった時には、損害額の見積りは無形の損害を物質的に測定し、知られず、数千億のユニットが登られるかどうかも知らない。また、もちろんの実行されたセキュリティ方針A be何か厳密なガード そのスケールの損害を避ける 、および思われない計画が果たし 理由においてとりわけ次々に与える 、それは、会社の中で、 管理ゾーン(の「全体の研究はオリンピックにセキュリティ方針の理由のためのRAREに停止するかもしれない」 Ote-machiを呼んだ。に従っておよびたとえ実際、それがそうであっても、どうぞ私 驚かない でささやいてください。
研究員は、しばしば、NTT研究センターの研究員が販売の会社とひどくそれぞれ使うコンピュータも調整し、供給し、研究員は、設立されて、助けなしで例外なしの手によって供給したコンピュータにセキュリティのセットアップのシリーズをする必要がある、そして、私は決めて、リテラシーのためのあるの一日中それには静かにかかる(私は、NTT研究センターの人々の多くが、「 1日に終わらないDARO w」とTSUKKOMIを、これが書かれる時に入れていると思う。)またさらに 人 低い理由でもない研究員によっていつもLinuxの動作に入ることは見て ように 私および供給品 マシン 、会社のWindowsまたはシステムとの関係に独立して進み VM 、それはMacだけから使われうる、そう、増加にてほしくなりなさい。会社のシステムの更新および労働環境での再考は繰り返されて、それは見て、それは現進歩的form.のため残酷なポジションに完全に変わる
私は、制限が厳しいこれであると思う 別々に、ほとんどすべて 日本の大企業が見回る所でどこでも私が自身と似ていたことを議論する何か を持っている 。
そのようなセキュリティ方針、自身、する意思、それが釣り合いがとれたこと、状況 that ITリテラシー 十分なけれども である人 下のレベルのこの多く それが本当のパワーを把握し、管理判断をしているより多く への絶望的なもの、私は退職し、それについてとどまり、いくつかの動機であった。
セキュリティ4GBおよびそのような非人道的な環境およびここにある証拠に、セクションを押している仕事があっただけでなく、研究センターを除いた位置でソフトウェアを開発するために、メモリー静かがHDDを使った。私がIMADOKIのエンジニアである時にメモリー4GBがブラウザだけにより完全に使い果たされることけれども従って、スワップが食を起こさないこととソフトウェアを送ることとではないこと、および環境起動だけのためそれに贅沢な時間かかるという事実。メモリーとSSDの数万円、排水溝の数百万円のために、彼がMM操作をやめるかどうかにかかわらず、可能性 that 自覚を持つことができない人 がありさえし、方向をけちくさくしている。魅力的ものが、「メモリーが128MBの世界であったので、管理のゾーンのアクティブな世代の時のPCは、現在、4GB、およびルートなしで、莫大な容量が、発言が発情するのを見るものであるかもしれない。」と言うという事実によって。別の眺めとして、私が見る 私が確信する それは企業似なので、大きいかもしれず、私は来た。
そのような話は、一般に、労使関係の間で最もよさをめざして協議されるべき問題であり、私は労働組合の机を通して適切に不満を言うべきである。そう、日本でさえ、一番上のクラスのため、私がこの効果"を大きい労働組合の机に請願した場所によって無遠慮に拒絶された 私は、ソフトウェアエンジニアだけを非常によく扱う理由に行かなかった。協会が、契約社員 あなたが相対的に冷たく扱ったおよび の取り扱い改良を通じて車隊システムによって全体の改良の計画を立てていた 有限な雇用と再雇用の人 現在 。もしソフトウェアエンジニアの職場が改善されたならば、投資と貸付金のための財政資金が少なく、全体は改善できなかった。」もし私が会社の利益についてパートナーの労働効率に依存するというアイデアのすべてが廃棄されるならば通過する理由、およびaのためそれが見たことによってパートナー すべてのメンバー について口論せずに独立なイベントとして起こる投資のための財政資金と貸付金を共有する組織の最高の提案、私が見る 私が確信する それは企業似なので、大きいかもしれず、私は来た( 1つの手段方法の2番目の時間)。
さらに、私が様々に言いたいケースがあるけれども、組織理論とNTT方法が様々に複雑であることおよび漠然としている愛玩用の理論混乱という事実。従って、実際会ういつでさえ私が尋ねたい。
そのような感覚のため、お金、夢、およびプライド(それは個人の主体であった。)出発NTT研究センターを失ったkumagi。
Googleでは、今月、変わる宛先が5番目から検索のチームに関与した。それは、次に出力することを予定した。従って、どうぞ注意してください。
https://anond.hatelabo.jp/20180424091947
これを読んで思ったんだけど、自分が体験していない、理解できない事をとりあえず感情で批判するやつ多いよね。
もっと大きな視点でいけば、日本であれば捕鯨。韓国であれば食用犬。
前者は白人様に否定されるし、後者は捕鯨を否定されて「日本の食文化だ!」とお怒りのネトウヨが否定する。
そりゃ、クジラを食べるのは残酷、犬を食べるのは残酷と思うのは自由だが、それを食べてる人をまず否定しなければ気が収まらないらしい。
「そうか、そういう食文化もあるのか」とはならない。いや、もしかしたら否定する声しか上がらないからそういう事を思ってる人はいるかもしれないが。
私は犬が好きなので韓国の食文化の犬食に難色を示したことがあった。でもよく考えたら、自分の飼い犬が食べられるわけでもないし、韓国の人も愛玩用の犬を食べるわけではないらしい。であるならば、それは食用の豚と、友人が飼っているミニブタを同一視していない自分がいることにも気がついた。
よく考えたらジビエだってそうだ。例えば鹿肉を食べるときに、それを奈良県の随所で見られる観光資源の鹿を想像して食べる人間はいないだろう。おおよそはジビエは害獣と割り切って食べているし、もっと神聖視すると山からの贈り物、山菜やキノコなどと同一の視点で食べている。
あのタグに参加していた人たちの発想と画力は凄くて、見ていてとても楽しかった。
せっかく素敵なタグを発信してくださったのに、本当に大変な目に遭っておられたと思う。
タグ発信者さんに非は全く無いことを前提として、ちょっと思ったことを書きたい。
騒動は、確か「育てたものが育てられたものに恋人的な役割を求めるという気持ちを現実に持ってきてはいけないよ」的なツイートがあって、それに「想像と現実を混同するな!」「これはあくまで人間ではないものと人間の話だ!」と反発があがって、そこからいろいろな人がいろいろな意見を述べて…というものだったように思う。
最初は、「現実に持ってきてはいけない」ツイートを読んで、水をさされた、と思った。
だけど、そのツイートの発言者さん(便宜上『彼』とする)のその後のツイートを見て、じょじょに考えが変わった。
彼はなにも某集会を否定したのではなく、ただ、創作者として、『そういう気持ちを現実に持ち込んではいけない』ということを自覚しろ、と述べただけだった。
創作の世界は何をしても良い。ただ、『現実に持ち込んではいけない感情』を『創作物として』自分は今『楽しんでいる』ことを自覚しなければならない。
育てるものと育てられるものには明確な力の差がある。性別に関係なく、育てるもののほうが上位に立つ。
だからこそ、いつ『育てるもの』になるともしれない人達(親になったり先生になったりいろいろある)は、『自覚』をもたなければならない。薄暗いものを、薄暗いものとして愛でるのは大事だ、と。
たぶん、そういうことだったのだろう。
それはまあ、確かにそうだな、と思った。
他にも、これは彼の意見ではなかったが『最初から愛玩用として育てたんならまだしも、実子のつもりで育てたら、愛されて恋人になるなんて気持ち悪い』という意見があったように思う。
と、まあそのような感じで『育てるもの』と『育てられるもの』の意識についての問題的があったわけだ。
育てるって、身近な行為で、そのわりに与える影響がでかすぎるから。
この件について、彼がまたツイートしているのを見かけた。
正直、言い方がきつかったのは認める。自分はかつて母親に恋人の役割を求められたことがあって、そのトラウマがあるから、あれがたとえ創作なのだとしても見るのが辛かったんだ、と。
大体そんなようなことを言っていて、なるほど、トラウマを刺激されてしまったんだな、と思った。
創作があって、その創作を楽しんでいた人達がいて、でもちょっとそれは薄暗い内容で、中には薄暗いものを薄暗いものだと感じる意識が薄い人がいて、それを見た人の中にトラウマがある人がいて、嫌悪感をもつ人もいて、それが騒動になった。
母親ないし父親がみんな優しい、理想的だとは限らないから育てるものと育てられるものにまつわるトラウマの発生率は結構高いんだろう。だからこそ騒動は大きくなった。
結局、どうあれば良かったのだろう?
創作は自由なんだから、文句をつけないで!現実と創作は別物! という意見もわかる。
創作だって現実に影響力はあるし、薄暗いものと薄暗いものとしてきちんと自覚しておくことは必要、という意見もわかる。
たぶん、『どんな創作をしても良いけど薄暗いものは薄暗いものとして自覚をもとうね』が結論なんだろうな。
自覚が無いなら、その自覚が無いという点につき危機感を抱こうね、と。
うーん、難しい。
悲しいことに、あの創作は、一人の人間のトラウマを刺激し、辛い思いをさせてしまったようだ。
『そんなつもりはなかった』で相手を傷つけることができるのが悲しいな。
いつかなにかで傷ついて、トラウマをもっている人がいて。
そしてその人が、別にその人に直接向けられたわけではないものでトラウマを呼び起こされて、きつい言葉を使ってしまう。
ループしてるね。
彼の言いたいことはわかるし、トラウマは辛かったんだろう。
でも、彼の発言で創作に水をさされた人は『傷ついた』と言っちゃいけないんだろうか?
まあ、要するに「トラウマがあるから○○してしまった、許してくれ」という言い方に違和感を覚えたって話。
許さなきゃいけないのかね。
その為された○○によって、別の誰かが傷ついているじゃないか。
でも、トラウマがあるから○○してしまって、それは多分止められるものじゃないんだよな。
だからやるわけだし…。
どうすれば良いんだろう。
このループは、だれのところで止めたら良いんだ?
紀州犬射殺に関する上記のような批判を聞いて、ウン十年前の出来事を思い出した。
わたしの小さい頃、日本犬混じりの雑種を昔おばあちゃん家の庭で飼っていた。
ずいぶん前に亡くなったひいじいさんが何処から貰ってきたらしいけど、
きちんとした躾のされないまま大きくなった犬は、家に来た時からお手もおすわりもできなかったらしい。
女所帯だったおばあちゃん達には手の負えないワガママボーイとなっていた。
(まあ「犬=家族」の認識が全国に普及して、躾が義務教育レベルに達したのも、ここ20年くらいのものかと思う。
祖母宅は田舎だったこともあるせいか中途半端なオツムの犬がまだまだ多かった)
ある日、何かで興奮した犬に妹が噛まれた。
妹の叫び声が庭から響き、慌てて縁側に出ると、犬が妹に襲いかかっていた。
リードを引っ張っても、スリッパで顔を叩いても、びくともせずに妹に向かっていく犬。
犬の吠え立てる声と、泣き叫ぶ妹の声で私は縁側に立ち尽くしていた。
犬はどうにか引きはがされ、叔父にバチバチにシバかれておとなしくなったが、その日から私はその犬に近づけなくなった。
いまはもうほとんど目立たないけど、妹は顔に咬み傷が残った。
犬はガチ切れすると冗談抜きに手が付けられない。下手すりゃこっちが死ぬ。
愛玩用のチワワやトイプードルなんかですら、興奮するとめちゃめちゃ恐いし動きも速い。
ましてや日本犬はハンター気質。紀州犬は単独で巨大なイノシシを追いつめるほど獰猛だと聞く。
しかも射殺されたのは、体長120cmで21キロだったというじゃないか。
そんなの丸腰で押さえつけようもんなら速攻で首噛まれてお陀仏確定だわ。
さらに言えば時間は深夜帯。人には見えず、犬には見えるという無理ゲーステージ。
よく発砲の判断を下したし、よく13発で止めたと思うよ。
くだんのニュースで、タイトルのような批判が相次いでいるが、頭のなかお花畑すぎて震える。
「撃つより抱きかかえた方が早かっただろ」とか「取り押さえて保護しろよ」とか、
ナイフで刺し殺しにかかってる殺人鬼を、「かわいいんだから優しく抱きしめて許せ」とか、
「イケメンなんだからキスして耳元で愛を囁け」って言ってるくらいにはヤバいと思う。
確かに多くの犬を飼う家庭にとって、犬はかけがえのない家族だし、生き物を大切に思う気持ちはよくわかる。
わたしも妹も幸いにして犬そのものを嫌いになることはなかった。ワンコまじかわいい。
最近は野良犬もいなけりゃ、飼い犬もしつけがされてる場合が多いから、その実感がわかないんだろうけどさ。
もちろん、人に怪我させるなんか殺されて当然!なんて言うつもりはない。
射殺された犬は不憫でならない。躾をきちんとしなかった飼い主に、全ての元凶はあるのだから。