はてなキーワード: Q.E.D.とは
http://anond.hatelabo.jp/20170220124635
前回は6部を読んだ。普通番号順に読むもんだが、読みたかった優先度が逆だったので。
ジョジョは行き当たりばったりな展開とご都合主義すぎる解釈が多いから俺がつっこまなくても既に誰かがつっこんでいるとは思う。
でもこれだけは言わせてくれ。フーゴの扱いがアッサリしすぎ。
あそこで別れてからそのあと音沙汰なしって流石に目を疑った。
承太郎たちも序盤にちょろっと出ただけ。ジョルノを調べてどうしたかったんだよ。
ゴールドエクスペリエンスのあの時間がゆっくりになる設定どうしたんだよ。あれじゃ劣化版クレイジーダイアモンドじゃねえか。
徐倫もそうだけど、たとえ体が何度でも治せるからといって、トカゲみたいに気軽に腕とか目をちぎっていいことにはならないと思うんです。
そんな肉体を軽はずみに扱ってるようでは、思想が違うだけでディオとそんなに変わらないのではないか?
順当な流れからすれば、次にアニメ化するのは5部だと思うが、腕をちぎるだの目をえぐるだの、グロい描写がかなり多いから実際やったら画面中規制だらけで真っ黒けっけになってわけわかんなくなりそう。
1〜4部までは全て読んだ。5部は今読んでるところ。パープルヘイズがどうのこうのらへんまで。
で、6部だが、他のに比べて色々見づらくない?ゴチャゴチャしてて何やってるのかがよくわからない。
4部5部がグランドライン前のワンピース並の見やすさだったのに、6部はインペルダウンのワンピース並のゴチャゴチャぶり。
漫画じゃなにやってるかわかんねえよ。
しかも内容も幻覚とか見えない敵が多すぎてやっぱり何やってるのかわからない。
それに、これはジョジョ全部に共通して言えることだが、パニック顔のあとに決め顔したら自分のターンになるのがご都合主義すぎてなんか見ていて恥ずかしくなる。
2部のご都合っぷりはすごかったけど、6部はそれ以上にすごかった。
ご都合主義といえばホワイトスネイクのディスクな。スタープラチナなら主人公は使えないのにカエルに起爆スタンドは使えるのかよ。一度ぐらい跳ね返って使えなかったみたいなシーンがあってもよかったのに。(そっから跳ね返った先にいた別のヤツにディスクが刺さったみたいな展開だとジョジョらしいと思う)
(東京都 公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例)いわゆる迷惑防止条例というやつである。例として東京都を挙げるが、同様の条文が全ての都道府県にある。
第五条 何人も、正当な理由なく、人を著しく羞恥させ、又は人に不安を覚えさせるような行為であつて、次に掲げるものをしてはならない。
三:前二号(引用者註:なお、第一号には痴漢、第二号には盗撮行為が挙げられている)に掲げるもののほか、人に対し、公共の場所又は公共の乗物において、卑わいな言動をすること。
幼い女の子と性的な行為(ここでは、挿入それ自体だけではなく性器を触る・触らせるなどを含めた行為の総称として使う)を行うことはそれ自体が犯罪である。
そして、ペドフィリアを公言することはつまること「幼い女の子と性的な行為がしたい」と言っているのと同義であり、そのことで子どもを持つ保護者が不安になっている以上、それは迷惑防止条例違反である。Q.E.D.
しかし側室制度がないのは男系男子を残すのに圧倒的に不利だよな。
天皇制は皇位を男系男子によるものとし、どうせ女性差別をしているのだから、
この際、側室制度を復活させるべきだと思ういやまじで。さもなくば、女系天皇を認めるべきでしょう。
男系男子の皇統維持は、「世俗の理解(欧米の価値観と言っても同じこと)」を根拠に、側室制度をなくした時点で詰んでいるんですよ。
「側室制度をなくしたことが原因で、男系男子の皇統維持が難しくなった」
であれば、
もしくは、
「世俗の理解を根拠としたことが間違っていたので、側室制度を復活させる」
どちらかに、一つでしょう。 - q.e.d.
竹田某の家系から天皇を輩出する可能性を除外し、かつ、天皇制の下で皇位の安定性を「保証」せよとまで言うのなら、
上記のような解答になる。
2016-06-21
11人もいなかったんや…
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動画や写真の被写体が本人であるかどうかなんてことは、つまるところ、その場にいた人間にしかわかり得ない。
もっと言えば、その場にいた人間ですら、本当にそれが本人であるかどうかなんて証明することなど不可能だろう。
その人物が本人であるかどうかなんて本人にしかわからないし、本人ですら自分が本当に自分であるかなんてわからない。
赤の他人の空似かもしれないし、生き別れの姉妹かもしれないし、どこか宇宙の科学力によるコピーロボットが決して存在しないとも断言はできない。
(ただし鼻が赤くないのであればコピーロボット説は否定してもいいだろう)
1秒前の私も1秒後の私も今この時の私とは別人なのだ、と言う人だっているだろう。
従って、我々は信じることしかできないのだ。
「この映画の撮影において動物の虐待は行われていません」と明記してあれば動物は虐待されていないのであるし、
「このゲームの登場人物は全員18歳以上です」と明記してあればその登場人物たちは18歳以上なのであるし、
表現の自由至上主義で他人を傷つけるのが表現の自由なのだと言って憚らない御仁だ。某SNSを久しぶりに見てみたらあまりに遠くに行かれてしまったものだと感慨に耽った。
この戦線で少しでも後退を許せば後は全面突破されるのだと、そういう危惧があるのだろう。その危惧はわかる。俺もオタクだから。自分たちの好きなものが取り締まられるのは嫌だから。クジラッ○スを読んでるだけで訴追される世界になんてしたくないから。
だが、戦線をヘイトスピーチにまで広げるべきじゃなかった。そこも「後退できない戦線」であり、差別発言を撒き散らす自由もまたあるのだと(自分はそれに反対するというエクスキューズをつけた上であっても)言ってしまった段階で、彼は越えてはならない一線を越えてしまったように思える。もちろん彼が差別に反対していることは疑わない。だが俺には、その行動は差別者を側面からアシストしているようにしか見えなかった。
ヘイトスピーチ規制派の理論武装はかなりしっかりなされてる。日本国刑法に侮辱罪や名誉毀損罪があり、それらが民事裁判で争われることもある以上、もとより(国家があらゆる表現に介入しないという意味での)完全な「表現の自由」など日本にはなかった(というか世界のどの国にもない)。侮辱罪や名誉毀損罪も適切に運用することができるのだからヘイトスピーチも法体系の中に適切に位置づけることができるはずだ、という主張はもっともで、ヘイトスピーチ規制消極派・反対派は漠然とした不安しか挙げられていない。というか、規制反対派だってガチガチのレイシストを除けば差別を肯定しているわけではなく、特に表現規制問題から手を広げた論客にとってはあくまで副次的な戦線だろう。彼らにとって本丸は別にあって、本丸防衛のためにヘイトスピーチ規制という戦線を死守しようとしているだけだ。
だが。ヘイトスピーチ規制派と表現規制派は同一ではない。表現規制に積極的な自民党の議員がヘイトスピーチ規制に慎重姿勢を見せ、ヘイトスピーチ禁止法に積極的な共産党が表現規制反対を掲げてきたことを思えば、むしろヘイトスピーチ規制派と表現規制反対派が共通の土俵で戦う可能性はあっただろうし、実際そういうスタンスで動いているひとも一定数いる。
しかし彼の目には、そのふたつは通じているように見えたのだろう。レイシストに対抗する姿勢を示す一部の人びとの中には、積極的に俺たちの趣味を、俺たちという存在を侮蔑し、キモオタと罵り、レイシストと同列であるかのように扱う連中がいる。俺は彼らと同じ戦列には立ちたくない。彼らを批判したくなる気持ちもよくわかる。だが彼らへの批判も度を過ぎれば同じ穴の狢だし、何より、同じ戦列に立つことは拒否しても別の場所でレイシストに対抗することはできたはずだった。けれど彼は、レイシストの主張も言論の自由の範疇なのだとはっきりと言ってしまった。
彼がそう表明するに至ったプロセスについては、よく〈理解〉できる。表現規制は嫌だ。一部のオタクに敵意を示すヘイトスピーチ規制派は嫌だ。ゆえに「表現の自由」を錦の御旗に掲げ、たとえレイシストのそれであっても「表現の自由」は守りぬかねばならない。ヴォルテール。その判断を導き出した理路はわかるのだが、しかし。
「○○人を殺せ」なんてものを「表現の自由」の名の下で正当化したら、「表現の自由」そのものが敵と看做されるのだと、「表現の自由」を掲げる陣営の信用もまた毀損されるのだと、そこに気づくべきだった(本当はこういう「陣営」を一緒くたにした雑な戦術指南なんてしたくないんだけど、そういう雑な括りでの戦術指南に基づいて反レイシスト運動側をdisっていたのはいったいどこの誰だよと)。加えて、彼は「差別」を軽く扱いすぎた。彼がレイシストという批判については、当たらないと俺は思う。でも彼の論理がレイシストに対して極めて甘く寛容なものになっていたのは事実だ。
そしてその甘い論理でヘイトスピーチ規制派に論争を挑むのだからもう目も当てられない。彼の行動はTrollでしかなかった。「表現の自由」全ツッパ。それもいいだろう。だが俺はそんな戦列には加われない。
「お前たちは結局表現の自由と言いつつてめえのズリネタが守られればそれでいいんだろ?」――こんな揶揄を何度も目にする。腹立たしい揶揄だ。俺は、もちろん出発点は非実在青少年ではあったけれど、そこから色々と手を広げて国内外で表現の自由が脅かされているニュースはチェックし続けていたし、少しは声も上げてきた。だからこそこんな揶揄を目にする度に、違う、そうじゃない、と言いたくもなるし、腹立たしいから全ツッパもしたくなる。でも、残念ながら、本当に残念ながら、そこに一点集中してしまっている人というのは一定数日本語圏のインターネッツに存在しており、一点集中するだけならいいがヘイトスピーチ規制論議に殴りこみをかけたり性差別が問題になっている局面で敢えて逆張りの論陣を張ってみせたりする。「○○人は嘘つきの劣等民族」と喚き散らして何が表現の自由だ。ポスターに抗議が殺到して取り下げに至ることのどこが表現規制なんだ。
表現規制反対派に向けられる主語の大きい揶揄には、繰り返すが個人的には大いに不満がある。でもそう揶揄されるに足るだけの人材がこちら側の陣営に大勢いらっしゃるのも事実だ。敵の不行状は全力で嘲笑えばいいが、味方の不行状はどうすればいいのだろう。なるほど、確かに俺は関係ない。しかしそうやって切断処理するには、俺の忠誠心は固くその陣営に結び付けられてしまっていて、結果的に「同じ反対派がすいません」という羞恥と「俺はそんなこと言ってねえだろ!」という憤りを半々の割合で抱えて画面の前で悶々とするしかないのだ。
そうやって悩むのはもう疲れたし、疲れたから「表現規制反対。なぜなら規制は不当だからです。Q.E.D.」で全ツッパしたくなるときもある。でも少なくとも、そういう悩みの元となっている、困った規制派とは縁を切りたい。同じ側にいるけど、違う戦列にいるのだと言い逃れたい。
妙齢とする基準が不明確であるため、婚姻可能年齢である16歳以上、生涯未婚率算定基準である50歳未満とする。調査結果(*2)より、2570万2千人である。
美人の基準も不明確であるため、ここでは妙齢の開始時期である高校の学年に1人はいる美人とする。
高等学校の総数が4963校であり、在校生が333万4019人である(*3)為、平均して1学年223.92人であり、16~18歳の女性の割合が約0.49であるため、109.72人に1人が美人である。(*4)
よって、日本の234250.82≒23万4250人が美人である。
この23万4250人が、生涯に平均してSEXする相手を20代~40代の平均である6.17人(*5)とすると、美人のSEX経験総人数は、1445322.5≒144万5322人である。
さて、日本の男性総数は6180万1千人であり、生産年齢人口である15~64歳では、3925万9千人である。
144万5322人÷3925万9千人=0.0368となり、日本の男性は、平均0.04人の美人とSEX出来ることがわかる。
(上記は、 http://anond.hatelabo.jp/20151009090529 に対するデータに基づく反証である)
上記定義上の妙齢の女性全体の2570万2千人が平均6.17人とSEXするとすると、1億5852万1千340人となるのではあるが、
男性の経験人数平均が11.14人であるため、3925万9千人は、4億3734万5千260人と経験していることとなる。
よって、妙齢の女性全てを対象としても、日本の対象男性は、0.3625人の女性としかSEXできない。これはおよそ3人に1人がSEXできるということである。(*6)
(*1)総務省統計局 人口推計(平成26年10月1日現在)男性は6180万1千人(総人口に占める割合48.6%),女性は6528万2千人(同51.4%)
(*2)年齢(各歳),男女別人口及び人口性比-総人口,日本人人口(平成26年10月1日現在)
(*4)男子校と女子校も含まれているが、美人の定義を平均して高等学校の学年に1人いると定義しているため考慮していない。
(*5)相模ゴム工業株式会社 ニッポンのセックス(http://sagami-gomu.co.jp/project/nipponnosex/experience_sex.html)
落語家の師匠がテレビに出たいと悩んでいる弟子に対してこんな話をした。
1つ目は、美味い飯を食ったり、趣味に興じたり・・・自分だけで押せて幸せになれるスイッチ。
2つ目は、他人にほめられたり、他人に押してもらわない限り幸せと感じられねぇスイッチだ。
自分で押せるスイッチの喜びはささやかでわずかだが自分の好きなときに押せる。
とめどなく押してほしいと思うしやみつきになる。
押してもらえないと不安や不満が湧き出てくるし自信もなくなってくる。
次第にスイッチを押してもらうためならなんでもしたいと思うようになる。
そこでウケるためならなんでもやりたいと思うようになる。
自分の全てを売り払ってでも、とにかくスイッチを押してほしい!!ってな。
気がつくと大事なモノを失ってるかもしんねぇ」
「ど、どうすればそうならないんで済むんです?」
「分けるんだよ、お客さんに出すものと出さないものを。出すものが"芸"だ。
舞台に上がり続けたきゃ、ちゃんと"芸"を磨くこった」
夢とは睡眠時に生じる現象である。また、夢についてのその他の定義としては以下の要素が挙げられる。
・特異な現象が生じる(人が生身で空を飛ぶなど)。
・ある種の強烈な慣性力がはたらいており、思考が通常通りにはたらかない(人が生身で空を飛んでいたとしてもそれを不自然と捉えられない場合がある)。
大まかに言えば以上の二つが夢を構成する最も根本的な要素である。
ここにおいて、以下の実際的事実に関して述べた言説によって、現実が夢でないという結論を導くことができる。
・現実においては特異な現象が生じない(反証可能性を満たす事象が起こっていない)。
現実が夢でないことについての論述は基本的にはこれで終えることができる。しかし、一部の例外に基づく反論が存在しないというわけではない。よって、以下にそのような反論を記す。
・統合失調症患者などの事例においては睡眠下ではない現実においても特異な現象が生じる。
これについて、統合失調症患者の定義は以下のものとする。〈自〉を〈他〉と誤謬することがあり、〈他〉を〈自〉と誤謬することがある。つまり、自他の区別が時に曖昧になる人間のことである。このような患者においては、自己の〈想像〉の内部においてのみ起こり得る事象を――つまりは特異な事象を――自身の外部から感じ取ることができる場合がある。これが主な反論の一つである。
この反論については以下の形で論駁する。統合失調症は非可逆的性質を持った病であり、ある段階を過ぎると一定以上の回復が見込めなくなる病ではあるものの、薬剤によって一定のコントロールが可能である。先述できていなかったが、これはいわゆる夢における非因果性(因果性:ある入力に対し条件さえ一定であれば一定の出力が返る、といった性質)に矛盾している。よって、統合失調症の例を出したところで現実が夢であるという結論を導くことはできない。
しかし、以上の反論以外にも別種の反論が存在する。それは以下のようなものである。
・現実において、ある種の慣性力から我々が自由であるということを証明できない
夢の中においては我々の思考は慣性力にさらされており、正常な論理的思考への推進力を得ることが難しいのは自明であるが、かといって現実における我々が正常な論理的思考能力への推進力を常に獲得できているかと言えばそこには単純に肯定できない事情がある。これが第二の反論である。
この第二の反論については以下の形で論駁し得る。因果性(ある条件下の入力においては一定の出力が返るという法則)に基づく反論である。
現実においては、ある条件下の一定の入力に対して一定の反応がある場合が多い。換言すれば、ある種の理性的事柄が十分に理性的に示されるならば、その反応も理性的になり得るということである。
例えば完全に理性的な(どんな人間でも納得し得る程に理性的)かつ可読性に富んだ「現実が夢でないことの証明」の論文を読んだ場合に、通常の人間ならばこの証明について納得し得るし、実際のところ納得する。しかし、夢の中においてはこのような納得が生じない場合がある。慣性力の影響である。
しかし、現実においては極度に理性的で極度に可読性に富んだ文章を読みさえすれば、万人に完全で理性的な情報を伝達することが可能である。これによって、「現実において、ある種の慣性力から我々が自由であるということを証明できない」という反論は、反駁され得る。