はてなキーワード: 軟体動物とは
http://eikaiwa.dmm.com/blog/26789/
上の記事は、海外で「あなたはどの宗教を信仰しているの?」という質問に下手に「私はなんの宗教も信仰していません(=無宗教です)」と答えるのはやばいよ、という内容で、無宗教者だというのがNGな理由として、
>宗教は精神を支えるいわば「背骨」のようなもの。このため、何も信じるものがない人のことを、「得体の知れない軟体動物」のように感じてしまうようです。
>また、信仰心の厚い人たちは、その信仰心ゆえに行動が自制され、倫理的・道徳的に問題のある行動を回避するため、「無宗教?この人の自制心や倫理観は大丈夫なのだろうか?」と不安に感じてしまう部分もあるようです。
>宗教に関する話題はセンシティブな面もあるので、「無宗教」と答えるのが無難と思う方もいるかもしれません。しかしながら、単に「無宗教」「神は信じない」と答えたのでは、「信じるものがない空っぽの人」「倫理観が欠如している可能性のある人」と、相手にマイナスの印象を与えてしまう可能性がありますので、注意が必要です。
と書かれていたけど、これだけじゃないと思うんだよね。
昔ちょっと海外に住んでたことがあったんだけど、向こうの“無宗教者”と名乗っている方々(の多く)は本当に徹底してる。
ガチで「神の存在さえ一切信じてません」って感じ。クリスマスをお祝いしない(人もいる)し、宗教的施設でお祈りなんてしない。
でも、日本人には無宗教というわりにクリスマスもお祝いするし(商業的イベントなので笑)、お寺や神社にお参りする人が多いじゃん?
それって結局、積極的信仰者ではないにしろ、消極的信仰者なんだよね。無宗教者とは厳密に違う。だから、下手に無宗教ですと言っちゃうと、クリスマスパーティーに誘ってもらえなかったりするときもある(笑)
同記事内で答え方の例として、
> “I’m not a deeply religious person, but…”
と前置きした上で、次のように答えればよいのです。
“I practice both Shintoism and Buddhism.”
とあったけど、私はいつも「よくわかりません。でも、祖母は仏教徒です」みたいな答え方をしていた。もしくは、「神様の存在は信じています」とか。
御所貝は貝と名前がついているが、軟体動物ではなく、腕足類の仲間である。
腕足類は翼型と形容される非対称の殻をもっており、
この殻で水流をコントロールすることでザコナメクジウオの死骸などの
水流の強さや餌にあわせて彼らの形状は最適化されており、
単体ではなく群生の相互作用によって水流を高度にコントロールしていた。
互いが互いの口元に水流を呼び込むことでWIN-WINの関係を築く、
長い箸でごちそうを食べる天国みたいな関係。そうして海底の「御所」を広げる
――と言えば聞こえはいいが、現実には複雑な自然を相手にしているゆえに、
位置によって得られる利益には格差があり、面倒くさい序列が存在していた。
新入りの御所貝は古参の御所貝に多くの栄養を提供しなければならず、次の新入りが来てやっと大きな利益が期待できる。
かくして不労所得を楽しんでいた御所貝たちは互いのコミュニケーションに消耗し、最大の利点を失った。
地軸が容易に横転する増田アースにありがちな環境の激変に対応しようにも、
自分たちの関係が第一に接する高コストの環境内環境になってしまっていた。
それが彼らの衰退の原因であったという。
この世界で最初に上陸したのはナメクジだった。正確にはナメクジ様の単純な動物であった。軟体動物に属するナメクジはかなりの高等動物である。
ナメクジモドキ:Limacidae Pisciculosは、さながら巨大なミドリムシ。動物でありながら光合成能力を持っていた。
そして、外敵がいない先駆者の利点を活かして、恐ろしい密度で大地を満たした。
雑魚ナメクジたちには葉緑素のほかに、体表にあるメラニン色素のつまった膜を広げたり畳んだりして体色を変える能力があった。
寒い地方の雑魚ナメクジは膜を広げて光を受け、暑い地方の雑魚ナメクジは膜を畳んで白い肌で光を反射した(紫外線の波長域には別の対応をした)。
ナメクジモドキはあまりに高い生存密度から、周辺の気候にすら影響を与え、
日光を吸収・反射することで寒い地方の大地は黒く暖かく、暑い地方の大地は白く涼しくしていた。
遥か高空からみた大地は灰色に染まっていたが、ズームインすれば、それはうぞうぞと蠢いているのであった(想像しないでください)。
それに対抗するための「殻」の再発明がさらに大きな悲劇をもたらした。
いちど作られてしまえば愚かなエスカルゴたちの殻の色を変えることは不可能だった。
地上は寒い地域は寒く、暑い地域は暑い、過酷な世界に戻ってしまう。
数百万年後にこの苦境を救ったのが、新種の賢いエスカルゴEuhadra callidusの誕生である。
賢いエスカルゴに溶岩を噴出させたり、大気中の水蒸気量を操ったりする能力があったわけではない。
ただ、賢いエスカルゴは、うんこの色をコントロールすることで環境の制御に挑戦したのだ。
こうして、大地のアルベドをコントロールし、気候を穏やかにする。
雑魚ナメクジと違って体表の葉緑体にも影響されないため、賢いエスカルゴはより徹底的な白色で世界を塗ることができた。
宇宙空間から、増田アースを見た時、大陸は気候帯に合わせて白から黒のグラデーションに染まっていた。
そして、白から黒のグラデーションによって気候が変化させられていた。
とても美しい光景であった。
このように雑魚ナメクジも賢いエスカルゴも奇跡的な生物であったが、
後世の古生物学者に体表の色や排泄物の色をつきとめるのは難しく、
http://530000micro.hatenablog.com/entry/2015/11/18/201500
たしかに小学校のときに保健体育の時間でビデオを見て、子供を作る特定の方法があることは知っていた。
ちゃんと熱心に見たし、その後の小テストでも悪い点は取らなかったはずだ。
精子が卵子にたどり着いて受精すると赤ちゃんになる、とまあ大雑把には理解できていたのだ。
俺は男女間に真実の愛が生まれると、精子がフェロモンのように空中に散布され、愛する女性の元へと空気中を泳いでいくものだと思っていた。
ポイントは真実の愛という部分で、だから子供の恋人ごっこ程度ではそう簡単に子供が生まれないのだと思っていた。
正直、どうしてこんなバカな話を中学高校と本気で信じていたのか、俺自身もよく分からない。
オタク趣味にハマったのもこの頃で、中学二年の頃には友達のお兄さんから借りたエロゲをやりまくっていた。
エロゲと言ってもいわゆる泣きゲーのストーリー重視がほとんどだったから、どっちかというとそっち方面で好きだったんだけど。
それでもHシーンはあって、そのときは女の子の肌の白さと軟体動物みたいな柔らかさに、ただただ感心するばかりで興奮もなにもなかった。
絵ではあっても、結合部分もちゃんとこの目で見ているはずなのに、どういうわけか普通にスルーしていた。
オナニーという言葉は周囲から頻繁に聞いていたし、エロゲでも何度かその単語を見ていたはずなのだ。
友達とのエロ話にも普通に参加していたはずなのに、具体的な部分だけはなぜか脳が処理をしてくれなくて、完全に耳から耳へと抜けていた。
だけど、俺の脳がちゃんとオナニーという行為を認識したのは、なぜだか大学生になってそういう話に参加したときだった。
そこで初めてオナニーという単語が気になって、「それってよく聞くけどどういう意味なんだ?」と素で聞いてしまった。
というかこうして書き出してみると、自分でもちょっと信じ難い。
そんな俺も今では立派なオナ猿ニートです。
何かの司会をやっていて、急にフリートークで繋いでって言われて困ったことがないだろうか?
大事な時期に仲間が沈滞ムードになってて当たり障りのないフリートークで空気を和らげたいと思ったことは?
後輩達を教育している時に、息抜きにちょいと小粋なフリートークでも挟もうとしたことは?
.
こうした経験は誰もがあるはずで、その度にフリートーク能力のなさを痛感するのではなかろうか。
実際のところフリートークは難しく、フリートークが得意な人などごくまれである。
.
フリートークが苦手な人でも無理にごまかす方法はある。持ちネタをさまざまな状況に備えてストックしておけばいいのだ。
身の回りの人達がどう対処しているか考えてみてほしい。いつも決まった話をする人が多いだろう。
「またあの話か」なんて陰口はよく耳にする。一応場つなぎにはなるが良い評判は得られない。
.
器用な人なら、常に新しいネタを仕入れ、膨大な引き出しを構築して、そこからフリートークできる人もいる。
しかしこれは大変な努力と才能が必要なことである。さまざまな状況に備えてネタを常にアップデートするのは大変骨の折れる作業だし、
それらを頭にインプットしてすぐ引き出せるようにしておくのは大変な記憶力と機転の良さを要する。
いわゆる知識人は、この程度のことを難なくこなせるように見えるが、それは長年携わる自分の専門分野だからやれているだけだ。
自分の専門分野でもないのにこれをやるとなると、やはり大変なことなのである。
.
じゃあどうすれば簡単にフリートークができるのかというと、もちろんそんな方法はないw
.
ただ、フリートークが苦手な人の特徴はハッキリしている。「話の入り口」がものすごく狭い。
フリートークに長けた人ほど、どこからでも話を膨らませることができる。つまり、話の入り口が豊富だ。
仲間内のおしゃべりは得意でもフリートークは苦手という人は、話の入り口を見つけるのが苦手なのである。
日常会話というのは、仲間内で決まった流れをなぞっているだけで、話の入り口を見つける必要はほとんどない。
それがフリートークになると常に新しい話の入り口を見つけて、ポンポンとテンポよく繋げていかないといけない。
だから、おしゃべりが得意な人は山のようにいても、フリートークが得意な人はまずお目にかかることがないのである。
.
よく10代の若者から「何を話したらいいか分からない」という声を聞く。相手が恋人だろうと不特定多数だろうと同じことだ。
どんな些細なことでも面白く膨らませるような思考回路がないのである。一旦つまらないと思ったものはもう一顧だにしない。それがいけない。
幸せの青い鳥という話があるだろう。身近なところに幸せはある。だから身近なものにも目を向けようという教訓である。
人間中心主義のキリスト教では「隣人を愛せよ」と言うけど、我々は「隣物・隣事を愛せよ」と言ったほうがいいだろう。
.
逆に小説家というのは、例外なく「どこからでも語れる人」だ。どこからでも語れないと小説なんて書けない。
小説家というのはね、文章力はピカイチでなくてもいいんだ。だけど、語り(または登場人物への「語らせ」)の力は圧倒的に必要。
ぐにゃぐにゃと軟体動物のように自在にどこからでもどんな順番でも語れて、それでいてしっかりと伝えたいことを伝える力。それが必須なんだ。
だから小説家に人見知りやあがり症やコミュ障っぽい人はいても、フリートークがまるで出来ないという人は居ないんだ。
.
じゃあ小説家デビューしてフリートーク上達しよっと。そう思うだろうか?そこまでしたいと思える人はまずいないだろう。
.
肝心なのは職業ではなくて習慣だよ。どこからでも話の入り口にする思考習慣をつけよう。