何かの司会をやっていて、急にフリートークで繋いでって言われて困ったことがないだろうか?
大事な時期に仲間が沈滞ムードになってて当たり障りのないフリートークで空気を和らげたいと思ったことは?
後輩達を教育している時に、息抜きにちょいと小粋なフリートークでも挟もうとしたことは?
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こうした経験は誰もがあるはずで、その度にフリートーク能力のなさを痛感するのではなかろうか。
実際のところフリートークは難しく、フリートークが得意な人などごくまれである。
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フリートークが苦手な人でも無理にごまかす方法はある。持ちネタをさまざまな状況に備えてストックしておけばいいのだ。
身の回りの人達がどう対処しているか考えてみてほしい。いつも決まった話をする人が多いだろう。
「またあの話か」なんて陰口はよく耳にする。一応場つなぎにはなるが良い評判は得られない。
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器用な人なら、常に新しいネタを仕入れ、膨大な引き出しを構築して、そこからフリートークできる人もいる。
しかしこれは大変な努力と才能が必要なことである。さまざまな状況に備えてネタを常にアップデートするのは大変骨の折れる作業だし、
それらを頭にインプットしてすぐ引き出せるようにしておくのは大変な記憶力と機転の良さを要する。
いわゆる知識人は、この程度のことを難なくこなせるように見えるが、それは長年携わる自分の専門分野だからやれているだけだ。
自分の専門分野でもないのにこれをやるとなると、やはり大変なことなのである。
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じゃあどうすれば簡単にフリートークができるのかというと、もちろんそんな方法はないw
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ただ、フリートークが苦手な人の特徴はハッキリしている。「話の入り口」がものすごく狭い。
フリートークに長けた人ほど、どこからでも話を膨らませることができる。つまり、話の入り口が豊富だ。
仲間内のおしゃべりは得意でもフリートークは苦手という人は、話の入り口を見つけるのが苦手なのである。
日常会話というのは、仲間内で決まった流れをなぞっているだけで、話の入り口を見つける必要はほとんどない。
それがフリートークになると常に新しい話の入り口を見つけて、ポンポンとテンポよく繋げていかないといけない。
だから、おしゃべりが得意な人は山のようにいても、フリートークが得意な人はまずお目にかかることがないのである。
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よく10代の若者から「何を話したらいいか分からない」という声を聞く。相手が恋人だろうと不特定多数だろうと同じことだ。
どんな些細なことでも面白く膨らませるような思考回路がないのである。一旦つまらないと思ったものはもう一顧だにしない。それがいけない。
幸せの青い鳥という話があるだろう。身近なところに幸せはある。だから身近なものにも目を向けようという教訓である。
人間中心主義のキリスト教では「隣人を愛せよ」と言うけど、我々は「隣物・隣事を愛せよ」と言ったほうがいいだろう。
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逆に小説家というのは、例外なく「どこからでも語れる人」だ。どこからでも語れないと小説なんて書けない。
小説家というのはね、文章力はピカイチでなくてもいいんだ。だけど、語り(または登場人物への「語らせ」)の力は圧倒的に必要。
ぐにゃぐにゃと軟体動物のように自在にどこからでもどんな順番でも語れて、それでいてしっかりと伝えたいことを伝える力。それが必須なんだ。
だから小説家に人見知りやあがり症やコミュ障っぽい人はいても、フリートークがまるで出来ないという人は居ないんだ。
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じゃあ小説家デビューしてフリートーク上達しよっと。そう思うだろうか?そこまでしたいと思える人はまずいないだろう。
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肝心なのは職業ではなくて習慣だよ。どこからでも話の入り口にする思考習慣をつけよう。
まあそのだらだらと長い文章を見れば説得力はある 長文を書くだけでも練習になるだろうな 俺はしないが