はてなキーワード: 教養とは
それぞれの作曲家の年代と歴史的経緯を把握してるからでしょ。spotifyで聴いてるよっつって名前だけ挙げたなら教養扱いはされないでしょ。
あとそもそも今の時代クラシック聴こうとする時点でそれなりの文化資本持ちという確率が高いのもあるだろう。90年代JPOPアーティストの名前と年代と経緯を同じように述べたとしても教養扱いはされないだろう。
別に知らないから言ってるわけじゃないし、教養がないって煽りはボキャブラリーなさすぎ
建築家の領域でエンジニアの領域を超えるのは工業デザインと、せいぜい都市計画くらいまで
同じ土木建築分野でも橋の設計者は、設計もデザインも両方やるけど芸術家とよばれることはほとんどない
建築がある種の芸術性を持っていることは否定しないけど、公共施設において税金から多額の設計費を払うほどの効用があるのかい?
国立競技場のデザイナー選定騒動はばかばかしいものだったし、都庁だっていまさらあれを芸術だといって愛でる人や、優れたデザインによって都民のシンボルになっていると主張する人はほとんどいるまい
たとえば北条時行なんかまあWikipedia観漁るのが趣味な人と歴史が好きな人あたりが好きって程度で、一般常識からほぼ外れている。更に言えば、名前を知ってても北条時行がどういうことした人なのかをそらんじれる人は更に少ないはず。高校日本史でやってたとしてもまあ忘れてる人がほとんどでしょう。ただまあ、「足利高氏」って名前を見た時に「あ、足利尊氏と音が一緒だな」というところから推測して検索かけて「やっぱ鎌倉幕府滅亡するタイミングの話しをやるんだな」って推測を立てることができるくらいは多分一般教養の範囲。
文学作品、特に羅生門みたいなのに関しちゃ、単に読んだことがあるだけでしょう。羅生門とか山月記とかってレベルなら、これは高校(もしかしたら中学)の国語で読むだけだからまあ一般教養の範囲とは言えそう。これがたとえば夏目漱石「こころ」あたりになると教養から外れてくるのかなという気はする。「こころ」を高校現代文で学ぶとき、履修範囲は「先生」の学生時代の話がメインになる(Kに「向上心がないものは馬鹿だ」と言うシーンね)。でも、じゃあ「こころ」が実は三部構成で、その三部構成がどのように組み立てられて……という話しになると多分あんまり答えられる人はいないと思う。なぜなら授業で習ってないから。
何が言いたいかっていうと、「はてなの人がみんな知っている知識」と元増田が思っているものはおそらく「人生のどこかで聞いたことはあるけど、蓋を開けてみればほとんどの人がそんなに詳しくない」ってタイプの知識になるのは間違いない。これがみんな知ってて当たり前みたいな感じになるのはただの観測バイアスだから知らなくていい。
それでもなお知識がほしいというなら、マジな話としちゃ、歴史なら「もう一度読む日本史」「もう一度読む世界史」、国語ならhttps://www.shinchosha.co.jp/edu/download/high-school_2018.pdf に掲載されてる作品をざっと読むのがいい。別に覚えなくていいから。大学受験じゃねえんだからとりあえず「見たことがある」=「詳細は覚えてなくていいけど話は思い出せる」くらいの感じにしておくのが良い。読むのもめんどいってんなら諦めろ。
昨年の緊急事態宣言では全国の図書館が閉館していたが、今年は時短はあれど開いている所も多いようだ。かくいう私も利用者の絶えることない小さな図書館で今日も働いている。
よくTwitterでは喋らないから感染リスクは低い、受験生の居場所を奪うな等々色々書かれているが、正直そんなことはないと思う。まずカウンターに来て利用者も職員も話さないなんてことは有り得ない。そんな接客をしたらクレームものだ。そもそもレファレンスというサービスがある時点で喋らないというのは到底不可能なのである。図書館は本を貸し出せばいいという場所ではない。図書を収集管理し、誰もが平等に教養を得ることの出来る場でなければならないのだ。予約受取りのみにしている図書館もあるようだが、それでは図書館の本来の役目を果たしているとは言えないのじゃないだろうか。
受験生の居場所という意見もだ。確かにゆっくり勉強することが可能な環境が図書館くらいしかないという言い分も理解は出来る。ただし、それは学習室やワーキングスペースの設けられている図書館に限る話だ。閲覧席は本来図書館に置いてある本を読む場所であり、宿題や勉強をする場所ではない。何回でも言おう、閲覧席は勉強をするための机ではなく読書をするための席だ。
図書館はインフラだと思っている。お金が無くても目が見えなくても家が無くても、誰もが読書を楽しむことが、知識を得ることが出来る。それは閉めていいものではないし、現在の業務委託で低賃金な運営を許していてはいけない大切な場所なのだ。けれど、不特定多数が触れる本を、職員との対話を経て手に取る図書館が、どんなに対策をしていたとしても決して感染リスクの低い場所ではないということ。そしてそこは本と人を繋げる場所であって、ワークスペースではないということをよく覚えておいて欲しい。
身バレが怖くて匿名掲示板に書き込んでみたところで、ただの愚痴にしかならないけれど。誰かの目に留まり、少しでも図書館の利用について考えてもらえると嬉しい。
こういうのさあ、定期的に出てくるネタなんだけどさあ
なんでいちいち賞賛しなきゃいけない空気にしようとしたがるのか、すっげー不思議でしょうがないんだよ
70歳だの90歳だのの老人が今更教養らしきものを身につけたところで、それはどこの誰にも還元されない自己満足に過ぎない
最大限意地の悪い言い方をするなら、むしろ貴重な貴重なリソースが、こういう輩の自己満足によって無為に食い潰されていると言えなくもない
景気が悪くて若者の学びも不安定なこのご時世にまあずいぶんと優雅なご趣味でございますねと皮肉が口から出そうになってしまう
放送大学だからまだいいが、これが例えば普通の入試に乱入してきたら、現役の高校生だって内心ウザがるだろう(そんなのに負ける方が悪いと言われりゃそれまでだが)
そりゃ別に自分の学びを社会に還元する義務があるわけじゃないし、だから自己満足大いに結構だし、いくつになっても生き甲斐があるのは本当に素晴らしいと思うよ
やりたきゃどんどんやればいい
でも単なる老後の手習いだったら、別に書道でもコーラスでも大正琴でも何でもいいわけ
みんな素晴らしいわけよ
最初に申し上げると、ASD(自閉症スペクトラム)。ADHDも併発してるが自閉傾向が強い。5歳の時に診断されて保育園では意思表示が出来ず大暴れ。
だが言語通級指導教室(ことばの教室)に通って大幅改善された。
小学校は普通学級だったが、3年生くらいから教室に入れない日々が続く。今となってはなぜ入れなかったのか分からないがとにかくしんどかった、勉強はしたいししたくても、机でジッとするだけで疲れる、先生の話を聞いてるのに何も頭に入ってこないし授業の内容も理解も出来ない。結局卒業までほとんど教室に入れなかった。
こんな感じなので中学校は特別支援学校に進学することになった。無事環境には慣れることも出来たが、感想文や文章を組み立てたり類いは苦手。また発達障害や知的障害の人は、絵が上手だったり発想力が豊かというが、自分は全くの逆で、絵心以前に絵の描き方が分からなくてほとんど書いたことがないし、発想力も全くない。
昔から機械とかPCの類いは好きだったおかげか、高校卒業後は自分なりには良い所に就職も出来た(障害者雇用ではあるが)。仕事も楽しく続けられている方だが意見(業務改善提案など)を言うのは苦手。
最近の悩みは教養がなさ過ぎること、今に無って小学生の頃に現実から逃げてたことに後悔してるけど、あのまま何をどう頑張れば良かったのかも分からない。こんなことを考える毎日、しんどい。