はてなキーワード: ドーキンスとは
増田はリチャード・ドーキンスの『神は妄想である―宗教との決別』は書店で平積みするべきではないという立場を取る?
このタイトルの表紙が目に入っただけで「殴りかか」られたようなショックを受けるキリスト教徒やイスラム教徒は多いと思うけど。
経験な信仰者の親に育てられて神の愛を信じ切っている子供が見たら心底嫌そうな顔をして親に泣きつくかもしれない。
キリスト教徒やイスラム教徒は日本では人口の1%未満の圧倒的少数者でもある。
書店は日本ではマイノリティである一神教論者に配慮して露骨な無神論を表紙で謳っている本はゾーニングすべきであると考える?
もし増田がドーキンスはゾーニングしなくて良いという立場なら、エロ表紙のラノベとの違いは何?
どちらも表紙を目にしただけでマイノリティを傷つける可能性の高い「センシティブ」な表現では?
子供はラノベのエロ表紙のような性的な表現から保護されるべきだ、それは当たり前の他者に対する思いやり、ラノベの表現の自由は子供の保護に優越しない、それが文明社会。
しかし、子供には神の存在を徹底的に否定しにかかる無神論の表現からは保護される権利など無いのだ、文明社会には表現の自由ってものがあるのだ。
キリスト者の親は神とともに歩んで欲しいと願っている我が子が書店の入り口に平積みにされているドーキンスの無神論に感化されるのを受忍するしかないのだ。
これは差別では?
情報系の博士号持ちの横田ですが、ここに挙げてくれている三冊だけは絶対おすすめです!
吉田武先生の本だと、持ち運びのしやすい『オイラーの贈り物』も良いでしょう。
ここに挙がっているのは数学系の本になりますが、他の分野に目を向けるのも、息子さんの選択肢を広げるのに良いでしょう。
物理学者のファインマンの『ご冗談でしょうファインマンさん』や、動物行動学者のローレンツの『ソロモンの指輪』などは、
息子さんなら小学校に在籍している時点でも読めるかと思います。
もう少し大きくなったら、進化生物学者・動物行動学者のドーキンスの『利己的な遺伝子』も良いでしょう。
横田の専門分野的には、折角息子さんがプログラミングにハマっているとのことですし、アルゴリズムに関する本も良いのでは
と思います。灯台下暗しで、どれが今の息子さんに良いと今すぐ紹介できないのがお恥ずかしいですが…
学校で横田がやってもらえて嬉しかったのは、上の学年の教科書を貰えたということでしょうか。
高1まででさっさと高3の教科書まで全て終わらせた後は、丸二年間数学の授業の時間はフリーダムに大学数学をやっていて良かった
R.ドーキンス博士の「利己的な遺伝子」「神は妄想である」を続けて読んだ感想。
進化の過程において、一部の生物は自己の遺伝子を有利に残すため、子を世話する=利他性という資質を身に付けた。
生存に有利な資質の一種、利他性を持つ個体の割合が多くなった。ここまで前提。
利他性というものが生得的資質であるならば、慈善、正義というものも本能の一種であり、生理的快感を伴うものではないか。
生理的快感に従って行為するがゆえに、「困っている人」には注目し快感の命じるままに主観的慈善行為を行い或いは正義のため糾弾し、「困っている人」でなくなったら忘却するという現象が起こるのではないか。
この仮定が正しければ、単なる生理的快感を他者に役立てるためには理性による制御が必要だということになる。
自分の頭ではここまで。
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早速指摘あったので追記します。
「個体が好き勝手カオスに選択しまくった無限の乱数の結果一定の偏り(ESS)で収束が生まれる」というのは実に面白いなあ、でした。
書き方と自分の理解両方に不足があったと思います。指摘ありがとうございました。
なんでこんなエントリを書いたかというと、「おもいやりをもちましょう」と教える現行の道徳教育って思わぬ善意の落とし穴を作ってるんじゃないか、とふと思ったのが発端。
もし利己的行為を各自選択することでお互いが生存に有利に働くシステムを構築することができれば、生物学的に見て一番無理がないのではないだろうか。
ん?ドーキンス系の話をしているのだと思ったけれど、今は叩かれ側なの?
生物学をきちんと学べば、ドーキンスらが言っている事も分かるようになる。
生物は、様々な環境変化に生き延びていけるよう、常に、「今、その環境で良く生きていけるもの」と、「今の環境では決して生きやすくないもの」と、バリエーションを持つようにデザインされている。
たとえば6500万年前までは、恐竜は、すごく環境に適応していて、哺乳類は、その影でこそこそと暮らしていた。
しかし環境の激変で「王者」は滅び、こそこそ生きていただけの哺乳類が、その次の王者になった。
我々の遺伝子は、数万年~数十万年という単位時間で進化していく(虫や微生物はもっと速いが)。
人工物が無い自然環境の変化は、それくらい時間がかかるものなので、生命進化も、それくらいゆっくりで良かった。
そうした、「時間のかかるヒト生命進化」の中で、「生きやすい遺伝子」と「生きづらい遺伝子」が、それぞれ共存している。
それは、環境の変化に遭っても、ヒトが絶滅しないための仕組みだ。
現在の社会は、たかだか、ここ数年~数十年の間に形成されてきたものに過ぎない。
増田は、その中では生きづらいのだろう。
しかし、この先数年~数十年で、社会の価値観や仕組みが、変わっていかないとは言い切れない。
仮に激変が起こって、今をときめくリア充やイケメンが「滅びた」時、増田のような人間がいなければ、人間社会は滅びてしまうだろう。
もちろん、そんな激変は、死ぬまで起こらないかもしれない。
6600万年前に生きていた哺乳類のように。
でも、そういう「絶滅を免れるための仕組み」として、我々は全員生まれてきて、生きている。
胸を張って、ただ生きていればよい。
僕が雪村に出会ったのは、大学の研究室の新入生歓迎会のときのことで、そのとき歓迎する側にいたのが僕で、歓迎される側にいたのがいっこ下の雪村だった。
彼女は、長くきれいな黒髪の落ち着いた女の子で、お嬢様という感じではないが、どこか品のある立ち居をしていた。
僕は彼女とは別のテーブルにつくことになり、でも彼女のことが気になったのでたまにそちらの方へ目をやったりしていたのだけれど、ちゃんと正面に座って話す機会は、ひとつ上の先輩がくれた。
「真田くん、ちょっとこっち来てよ」と先輩が僕を手招いて呼んだ。「この子エーティーフィールド張ってて、俺ひとりじゃキビシイよ」
それで僕は、彼女の向かいに座って話をした。雪村は聡明で、控えめで、微笑みながら人の話にうなずき続けることができるタイプの女性だった。
でも僕は自分のことが話したいわけではなくて、彼女のことが聞きたかった。僕はゆっくりと、何か自分と合うような話題がないかと探した。彼女の趣味は読書で、好きな作家は恩田陸(←「ああ、あのガチホモミステリの……」)。よく読むのは講談社ノベルス(←今にして思えば恩田陸は講談社ノベルスとあんまり関係ない気がする)。映画も好きで、好きな監督はスタンリー・キューブリック(←『バリー・リンドン』)とピーター・ジャクソン(←『乙女の祈り』)。ピクサーとジブリも好き。好きな漫画は『夢幻紳士』『百鬼夜行抄』『うしおととら』『タブロウ・ゲート』……。まともにやったゲームは『ファイナルファンタジーX』くらいで、時間のカウンタが止まるまでやって(←大学受験が終わってから暇だったようだ)、「全てを越えし者」を倒すところまではいったとか。あと何かのレースゲームは前に進めなくて諦めたという。
僕はといえば、好きな作家は星新一で、好きな映画は『ショーシャンクの空に』で、好きな漫画はジャンプとチャンピオンとヤングジャンプとヤングマガジンとスピリッツとモーニングだった。僕はその程度の文化パワーの人間だった。
雪村は本当に本が好きで、暇なときには一日一冊くらいのペースで読んでいた。「『雑食なのでなんでも読みます』とか言うやつは信用できねえよ。そういうやつは絶対に大して本を読んでない」と吐き捨てる友人が僕にはいたが、雪村は本当に雑食で、ノンフィクションを除けばなんでも読む女の子だった。小説も漫画も。
その新入生歓迎会の日は、友達が帰るというので、彼女もそれについて早めに帰っていってしまった。僕はもっと残っていってよと頼んだけれど、穏やかに断られてしまった。
次に僕が彼女と話をしたのは、それからしばらく後の教養の授業のときのことで、雪村は教室の最前列に座って、社会学だったか文化人類学だったかの講義を無視してペーパーバックを読んでいた。
勇気を出して隣りに座って(←勇気を出したのだ)、何読んでるの、と彼女に訊ねた。雪村は手に持った本の表紙を見せてくれた。G.R.R.マーティンの『玉座をめぐるゲーム』だった。もちろん僕にはまったくわからなかった。
それからも僕は、折にふれては勇気を出して彼女に話しかけていった。レポートがあるので……と断られてひどく落ち込んだりもしたけれど、ついに僕は彼女を連れて名古屋城にデートにいくことに成功した。名古屋城はつまらなかったけれど、彼女といるのは楽しかった。
これはおもしろかった。本当に。
それからも授業で隣りに座ったり、食事に誘ったりして、僕らは付き合うことになった。僕は実家に住んでいて、彼女は下宿をしていたので、よく彼女の家に泊まって二人で本を読んだり、映画を見たりした。本山にゲオがあったので、近所でレンタルができて助かった。
でも不思議なことに、幸せなことはそんなに長く続かないもので、僕と雪村が二人で東尋坊を見に旅行に行ったとき、泊まった旅館でカニを食べて一緒の布団で寝たあと、彼女は僕の知らない何かに引っ張られて、僕が寝ているうちに布団を出て服を着替えて旅館から脱げ出して、東尋坊の先から海に飛び降りてしまう。
東尋坊では死ねないという話があるけれど、やっぱりそれは嘘で、飛び降りればちゃんと死ぬ。雪村がそれで死んだのだから間違いない。
彼女を失った僕は悲しくなって、雪村が死んだというそのこと自体よりもむしろ雪村が僕に一言も告げずに死んでいったことに鬱々と悩んで、こりゃだめだ、このままじゃ何も解決しない、と思ってそのまま十五の夜ばりにバイクで走り出す。でもそのバイクは別に盗んだものじゃないし行き先もきちんとわかっていて、僕は一直線に福井まで行って、雪村と同じように海にダイブする。そして生きて浮かんでくる。本当に死にたいのなら、そのための飛び降り方をしなければならない。
病院のベッドでしばらく暮らすことになった僕は、とりあえずアマゾンで小説と漫画と学芸書とDVDを注文しまくって、それを片っ端から消費する。雪村が生きていたときにはこの女はまたなんか読んでんなあとしか思っていなかった僕が、いまさらになって雪村の触れていたものたちに目を向け始める。村上春樹を、伊坂幸太郎を、恩田陸を道尾秀介を舞城王太郎を僕は読む読む。雪村のようにペーパーバックをぺらぺらとはいかないが、翻訳者に感謝しながら、ヴォネガットをカポーティをフィッツジェラルドを読む読む。福満しげゆきを藤田和日郎を増田こうすけを読む読む。カントを、デリダを、ヴィトゲンシュタインをホフスタッターをドーキンスを読む読む。そんでDVDはよく考えたら病室じゃ見られねえなと思ってそのままジャケットだけを眺める。いいじゃんアマデウス。時計じかけのオレンジ。タクシードライバー。
そして読みたい本をあらかた読み終えてしまったので、そろそろ家に帰ってDVDでも見るかと思って僕は退院する。退院するために荷物を片付けてきれいな服に着替えて、もう忘れ物はないよな、と思って振り返った病室に雪村がいるのを見て僕はびっくりする。
「いまさら化けて出てんじゃねーよ」と僕は言う。
でも雪村は生きていた頃と同じ顔で、僕がさっきまで寝そべっていた病室のベッドに腰掛けている。いつもと同じように黒い服ばっかりを着ていて、別に幽霊だからって白いベッドが透けて見えたりはしない。
「いやーいいじゃん。嬉しいでしょ」と雪村は言う。
そんな口調じゃねーよ。
ドーキンスを誤解に基づいて援用し、利己的遺伝子やら進化論やらを
「子あり勝ち組」論の根拠にすることの誤りは明白。
「進化論」を「利己的遺伝子」に置き換えても元増田の主張に理由がないことには変わりない。
「生物が生存機械であるならば、人間が生きる目的や意義はないのか?」という指摘に対してドーキンスは次のように答えている。
確かにこの宇宙には究極的な意思や目的など何もないのだろう。しかし、一方、個人の人生における希望を宇宙の究極的な運命に託している人間など私たちのうちに一人も存在していないこともまた事実である。それが普通の感じ方というものだ。我々の人生を左右するのは、もっと身近で、より具体的な思いや認識である[9]。
また、生物の究極的な運命や、生物がどうであると言う言明と、人間がどうであるべきと言う主張は全く別であるとも述べている(「である-べきである議論」も参照)。
1冊も読んだことねえwwwww
仲の良い友人と喫茶店で喋っていて、知り合いが「水は答えを知っている」のことを目をキラキラさせながら喋っていたという話をした。
自分としは笑い話をしたつもりだったのだが、彼は真顔で「え?俺もあの本好きだよ」と言う。
彼とは読書が趣味という共通点があるので、お互い文学の話やたまに政治の話もしていたのだが、まさか彼があのエセ科学本を無批判に信じ込んでいるとは
思わずショックを受けた。
僕はドーキンスの話を引用して、検証不可能なことは科学ではないと何度も言ったのだが、彼は認識の相違という逃げ場に逃げ込んで話は平行線となった。
それまではお互いに楽しい時間を過ごしていたのだが、それで一気に空気が悪くなった。
あまり仲の良くない女の子なら、俺は笑って流せたのだが、同じ価値観で離せると思っていた男の友人が無批判にあの本を信じ込んでいて、しかも
「道徳と科学と分けることに何の意味がある?」と発言したのには驚きを通り越して失望した。
なんとなくやるせない。