はてなキーワード: ドーキンスとは
仲の良い友人と喫茶店で喋っていて、知り合いが「水は答えを知っている」のことを目をキラキラさせながら喋っていたという話をした。
自分としは笑い話をしたつもりだったのだが、彼は真顔で「え?俺もあの本好きだよ」と言う。
彼とは読書が趣味という共通点があるので、お互い文学の話やたまに政治の話もしていたのだが、まさか彼があのエセ科学本を無批判に信じ込んでいるとは
思わずショックを受けた。
僕はドーキンスの話を引用して、検証不可能なことは科学ではないと何度も言ったのだが、彼は認識の相違という逃げ場に逃げ込んで話は平行線となった。
それまではお互いに楽しい時間を過ごしていたのだが、それで一気に空気が悪くなった。
あまり仲の良くない女の子なら、俺は笑って流せたのだが、同じ価値観で離せると思っていた男の友人が無批判にあの本を信じ込んでいて、しかも
「道徳と科学と分けることに何の意味がある?」と発言したのには驚きを通り越して失望した。
なんとなくやるせない。
http://anond.hatelabo.jp/20090123231723
http://anond.hatelabo.jp/20090125095427
この二つ。
前者は一見似非科学批判批判のようで、「ガン治療の遅れ」つまり科学技術の遅れがもたらした問題であり、科学技術の進歩により問題が解決するという、科学絶対主義的、似非科学似非批判者的主張をしている。
後者は一見似非科学批判批判のようで、「何でも科学のせいにするな!」と盲目的な信頼、つまり科学を宗教的信仰の手段に持ち出す似非科学の批判を行っている。
今一度、科学と宗教とで盛り上がったこのhttp://anond.hatelabo.jp/20090120003918エントリーの周辺を眺めてみることをお勧めする。
「なにか大きな計画がある」は宗教的な発想(絶対的な存在がある)としては自然なんだが、最終的には道を誤まる。
あと単なるレトリックだと思うならドーキンスをちゃんと読めてないぞ。
「神は妄想である」とかも読んだほうがいいのかもな。
http://anond.hatelabo.jp/20090109152059
ども、これ書いた増田です。
ミーム(文化的な遺伝子みたいなもの)がどうこうと言ってる人がいるけど、
あのよく出来た小理屈もやっぱ「文化」の張り巡らせた罠だと思うんだよね。
納得づくで淘汰されていただくシステムというか。
地球環境に対してヒトが増えすぎてきてるから、
いろんな文化的「生きがい」を仕込んで数を調整しにかかってるんだと思う。
とか言ってる独身で人生謳歌のヒトは実はよくよく訓練された奴隷なのかもしれない。
そこで淘汰されていただくための。
コントラスティブで興味深い事例だと思ってます。
あくまでヒトとして、ですが。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
本質的には学問は面白いものなのに、テストだの受験だののせいで詰まらないものになっちゃってる感があるよね。
受験数学の本(というかチャート)なんて見るだけで嘔吐感を催すくらい嫌いだったのに、最近では数学ガール読み始めたりしてる。中学2年くらいまでは数学大好きだったのだけど、その時を思い出して気分が高揚してくる。
国語も、やっぱり大嫌いだったのだけど、最近では室生犀星とか読んでるし。科学系も嫌いだったのにドーキンス本買い漁ってるし。
よく考えれば、「勉強ツマンネ」って言ってゲームやってても、そのゲーム内で必要とされる計算なんかは喜んでやってるわけだ。ゲーム製作試みた人なら、期待値計算とか延々やってたり、独自言語製作のために格変化云々考えたり、魔法のためには物理学上の数値(重力係数とか)を変えて発生する現象を考えてみたり、化学式見て都合の良い変化を起こす方法考えたり、まあ色々やったことがあると思う。で結局設定段階で力尽きていたことと思う。
一度親友に告白して大失敗をしたことがある。
一緒に酒を飲んでいて物凄くリアクションがいいし、楽しそうだし、実際に「○○と話してると楽しい」と言ってたし、あちこちデートに誘っても一度も断られなかったし、家にも遊びに来るというので満を持して告白したら、
「○○のことは友人として好きなんだけど……」
という定型の断り文句が帰ってきた。
と言われた俺は、「話していると楽しい」=恋人としての最大の要素だと当時思っていたわけで、自分の何が悪いのかが全くわからずパニックになった。その後もしばらく腐れ縁のような形でたまにご飯を食べたりしていたが、もう今は交流はない。
その後女の友達と色々話すにつれて、「女性は一般的に男を自分にとって恋愛対象であるか否か、ひと目で見抜く。話していて楽しいかどうか、性格が合うか合わないかはほとんど関係ない。性格が全然合わなくても、話していてつまらなくても、相手が恋愛対象のカテゴリに入るならば恋人になれるし、逆もまた然り。一旦どちらかにカテゴライズされたら、もうカテゴリの移動は出来ない、云々」というようなことを聞き、俺は再度パニックになった。なんだそりゃ!? しかし色々な女と話していると、どうもそれが真実のようだ。俺は恋愛に対する考え方を変えた。
恋愛はロジックでするものではない。「性格が合うから」「趣味が一緒だから」そんなロジックを積み重ねても、本能的な直感の前ではそんな戯言は吹けば飛ぶようなもので、恋愛とはもっとエモーショナルなものなのだ。ドーキンスだったか誰かが「人が恋をするのは遺伝子のせいだ」という胡散臭い説を唱えていたが、確かにそうなのかもしれない。それまでの俺はロジックで恋愛をしていた。「この子は可愛いとは思わないけれど、自分とこの部分が一緒だから一緒にいるべきなんだ」という思い込みを恋愛と勘違いしていた。こんなんで彼女が出来るわけはない。それ以来、恋愛に対してもっと直感を大事にすることを心がけた。自分が可愛いと思うか、セックスしたいと思うか、一緒にいたいと思うかをまず考えることにした。
そんなこんなで俺にも可愛い彼女が出来て、先月婚約をした。趣味は一緒だが、二人でそれを楽しんだことはないし、はっきり言って性格も合わない。ずぼらで楽観的な俺と、神経質で落ち込みやすい彼女。だが、一緒にいてこの上なく楽しいし、心から彼女を愛している。ロジックではない部分で我々は繋がっているのだと思うと、たまらなく彼女のことがいとおしくなる。これが恋愛なのだと、20代も半ばを過ぎてからようやく理解できた。