「進化論」を「利己的遺伝子」に置き換えても元増田の主張に理由がないことには変わりない。
「生物が生存機械であるならば、人間が生きる目的や意義はないのか?」という指摘に対してドーキンスは次のように答えている。
確かにこの宇宙には究極的な意思や目的など何もないのだろう。しかし、一方、個人の人生における希望を宇宙の究極的な運命に託している人間など私たちのうちに一人も存在していないこともまた事実である。それが普通の感じ方というものだ。我々の人生を左右するのは、もっと身近で、より具体的な思いや認識である[9]。
また、生物の究極的な運命や、生物がどうであると言う言明と、人間がどうであるべきと言う主張は全く別であるとも述べている(「である-べきである議論」も参照)。
それを「理由がない」とするならば、年収がある程度あることを社会的な「勝ち組」とする理由もない。 ここで理由を求めること自体、モノの考え方がちょっとズレている。