はてなキーワード: 感情表現とは
医療関係をやってるが、現代人は感情表現を驚くほどせず、理性をだいじにしすぎている。
だから、鬱屈した感情が蓄積してストレスになる。東洋医学からみれば、テクノストレスも
人間関係のストレスもすべて、一時的に生じた緊張よりそれを解放しないことのほうがおおきな問題であることが多い。
だから、野蛮さを失ったように見える現代社会だが、その内実は、野蛮さを我慢して心にしこりを生んでいる。
私は海外に行ったことはないが、映像でみると実に表情豊かで感情豊かな感じがする。
だから、私は日本人がもっとも現代的ストレスの悪影響を受けていると思う。
その最大の原因は繰り返しているように野蛮さを押し込めていることにある。
社会の規範も大切だが、感情を解放する手段がどんどん失われてゆくのは悲しいことである。
いまの小学生は驚くほど醒めている。私が子供のころは野山を駆け回ったものだが、
そんな話をすると決まって嗤われて、どんな大昔の人間なんですかと言われる。
いまの人たちには到底そんな時代があったことが知らないのだと思う。
「どうしたら好きに思われるか」か…考えたことなかった。
優しいとか親切とか言われるし嬉しいけど、どう対応して良いのか分からない。
何考えてるか分からないって言われた覚えもある…相当前の話。
最近のヒト科ヒト属ホモサピエンスの雄は携帯メールで絵文字をよく使うものなのか?
真剣に聞きたい。
いやさ、「男は絵文字使わない」と一部のネット上で言われているが、
年下年上共に貰った物は、初めてのメールからして絵文字入りだった。
喪女の貧相な恋愛知識として<男は絵文字使わない>というのがあるんだが、それは本当に貧相な知識だったのね!?
とりあえず、集計対象が少なすぎて(喪だからね☆)統計としては成り立っていないが、
23~24才の3名(職場)、28才の2名(学校の先輩)の内、28才の1名除いて絵文字入りでした。
所謂携帯依存の画像絵文字やAAが普通に使われていてあまりのカジュアルさ?にちょい驚いた。
へたせんでも、女同士より絵文字入り。
特徴としては、気軽に感情表現の絵文字を入れてる。表情、涙、汗、渦巻き、動物、土下座等。
多いと一文に一つ。「了解」系のアンサーだけにも入る。
業界的に砕けているからなのかもしれないが、
少なくとも自分より上の女性スタッフは総じて絵文字無しの事務的そっけなさ、
多少砕けることもあるが、所見で絵文字は無い。
自分が送るメールは絵文字無しで事務的なだけに(どうしても文にすると硬くなるヲタ喪女)、
そこまで感情を絵文字に変換して送れるとはすごいなと。
勿論返信内容はそこそこ立場を踏まえているものなので問題はないです。多分。
そのへんのヲサレな女子並に絵文字を駆使する男の方が、よっぽど可愛い女の子ですよ・・・。
性別交換しないかね?
何日か前の話題をみていて思った。
やっぱり「じゃあ死ねば」とか言わないで欲しい。
軽々しく「死にたい」とか言って甘えてくる人が鬱陶しいと言う意見には、共感できるのだけれど。
でも、もしかするとほんとに、やばいくらいに行き詰まっている人かも知れない。
あるいは心の病とか。
「困っているから助けて欲しい」という理性的表現よりも「死にたい」という感情表現がよりよく自分の危機を示すことはあるでしょう。
むしろ「死にたい」をこそ意訳すべきだと思う。「じゃあ死ねば」を意訳するんじゃなくて。
本当に死にたい人は黙って死んでいる、とっくに死んでいる、みたいな話もあるけど、
「君の発言が本気かどうか証明するために、今ここでとにかく死んでくれ」なんて無茶だし、
ポロリとこぼしたのか勇気を出して伝えたかわからないが何かのサインかも知れなくて、
明らかにそれは甘えだろうとわかる面倒なケースもあるとは思うが、
やはり軽々しく扱えないよ。
「手もつなぎたくないし、キスもしたくない。嫌いになった訳ではないけど自分にも相手にも嘘をついて生活を続けることができない。レールに乗せられて将来が決められてしまった気がする。リセットをしたい。」
こんなことをパートナーの女性から結婚後一週間で言われてしまった。
遠距離だったパートナーとの新しい生活を、結婚の準備も終わってようやく始められるふたりの時間を、楽しみにしていた。
正直かなりつらい。
付き合い始めて、遠距離の時期も含めてもう8年。
この4月から、パートナーに田舎から東京に出てきてもらって同居を始めた。
一緒に住みだしてからずっと幸せそうに笑った顔が見られなかった。
相手も女の人だし、まぁいいか、くらいに思っていた。
でも、電話のときだけしか明るい声が聞こえてこないのは、自分がパートナーの幸せのために何もできていないことを自覚させられてつらかった。
今でもずっと愛しているから、本当にどうしていいかわからない。
「結婚後、しっかり考えて結論を出した」という。
「離婚したい」と。
他に男ができた訳でも、自分に落ち度がある訳でもない、ただパートナーの心が変わってしまったのだそうだ。
ならば、また心が変わるまでそばにいさせてほしいと言ってみても、「自分の気持ちに嘘をつくのでつらい、別居婚でも将来を決められるのは嫌だ」という。
話し合って二日目だが、整理すると仕事の件と自分への感情の件のふたつが障害であるような気がした。
田舎でしていた仕事がそこでしかできないすばらしい物だったこと、そして自分への気持ちが薄れてしまったということだ。
でも、今、机の上に束になっておかれている絵はがきを見て愕然としている。
そこには文通友達からの切実な「想い」が綴られている。
一見すると、熱烈なラブレターのようにも取れるほどだ。
自分の気持ちはこの友達にも負けないものだと信じているが、感情表現の苦手な自分には伝えられていなかったのだろうか。
この歳になってまさか泣くことになるとはね、かっこわるい。
一度離れてしまったパートナーの気持ちは取り戻せるのだろうか。
取り戻せずにいたずらにつらい日々を送らせてしまうのは、本当に好きな人にさせることじゃない。
取り戻せても、仕事面では理想とのギャップに苦しませることにもなるだろう。
頭で考えると全部ネガティブになってしまうけど、どこまでも客観的に見るならパートナーを自由にさせてあげるのが一番なのかもしれない。
結婚てなんだったんだろう。
私がいるな。
小説読んだ時もそうだし、実生活で感じたことを言葉に表現できない時にも
似たような感覚に陥る。それを増田に書こうとするのだけれど、元記事増田と同じで
文章にすることができない。30分以上ディスプレイの前で格闘の末に結局挫折する。
私の場合、まず語彙が乏しいことが第一。その言葉とその意味や概念を知らなければ
言葉にしようにも出来る訳がないと思う。これは本を沢山読んで辞書で調べて増やすしかない。
だから、次に自分の「もやもや」した感情をどう文章にするかだと思う。
話逸れるけれど、身近に私に輪をかけたように表現力の乏しい人がいて、
伝えたいことをジェスチャーと「みたいな」という言葉だけで
表現しようとする人がいる。驚いたことを身振り手振りしながら
「うわってなってきゃーみたいな」と言う。とても聞き苦しい。
「むかつく」や「うざい」のような安易な感情表現を連発する人は
語彙も表現力も乏しいのだろうな。非常に頭の悪そうな印象を受ける。
それで伝わるのだから、ある意味で便利な言葉ではあるのかもしれない。
私もそれを使いそうになった時は、その「むかつく」や「うざい」を
と書いていて、上の「ある意味で」とは「どういう意味で」だろうなと思った。
おそらく「その言葉の受け手が相手の感情を自分の体験・経験に照らして
どう「むかつく」のか、どう「うざい」のかを感覚的に理解してくれるか、
または自分で勝手に言葉に置き換えてくれるという意味で」なのだろう。
(これで表現できている?)。まぁ、こんな風に別の言葉に置き換えてみる。
話を戻して、
だから増田で表現しようとして書いては消し、また書いては消したり、
キーボードに向かってじっくり推敲(?)するだけでも訓練になると思う。
それでも表現できないなら、まだ自分の中で煮詰まっていないのだと考えて
一旦諦める。その「もやもや」を忘れないように書きかけの文章は一応残しておく。
時々、読み返して普段からそのことを意識するようにする。
何かの拍子にふっと上手い表現が沸いてくることがある。
ただ、そんなのは稀で大抵は本を読んでいるときに、
あの時の「もやもや」の正体はこれだったんだと分かることが殆ど。
それでもその他人が書いた文章を読むと「もやもや」した霧が晴れて
とてもすっきりする。清々しい気持になれる。
確かにその時は他人の表現かもしれないけれど、それでいいと思う。
表現もある程度は学ぶものだと思う。現に今自分が使っている表現も
本を読んで覚えてきたものを使い回しているだけだと思う。
元記事増田の
は正にそれなんじゃない?こういう表現を自力で考え出せるなら才能あるよ。
私的だけど結論。
大事なのは自分の中に言葉にできない「もやもや」の存在を感じ取ること。
それを覚えていて常に意識して言葉で表現しようとしていること。
新しい表現を考え出すよりも、知っている表現を使いまわして表現すること。
その内に新しい表現を思いつくかもしれないし、死ぬまでないかもしれない。
(後者で終わる恐れがとても濃厚な気がする)
なんにしても本を読まないと始まらないかもしれない。
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こんな風に正しいか間違いかは別にしてとりあえず文章にしてみることかな。
期間を置いて読み返してみて、「何か変なこと書いてるな。稚拙な文章だな」
と思えれば、少なくともその時よりは成長していることを実感できる。
もう一度、同じことを一から書き直してみるのもいいかもしれない。
と、たったこれだけの文章を考えながら書いていたら 1時間以上かかった。
http://anond.hatelabo.jp/20090219220621
上の記事では大槍が技巧派の例として挙げられている。俺もかつて大槍の絵に魅了された者の一人だ。2004年頃までの彼は神がかっていたと言ってもいい。だが2005年から彼は迷走し始めてしまった。姉歯偽装マンションで損失を被ったことの影響を云々するのは下種の勘ぐりでしかない。しかしその時期から「大衆」受けを狙った画風に意識的に手を出すようになる。2005年、ロマQでピンク髪を解禁。2006年、リトルウィッチファンディスクを発表。ここで白詰の追加シナリオを挿入したことにより、2003年時点(白詰オリジナル)との絵柄の差がファンの目に明らかになった。以後、少しずつだが確実に画風を修正しつづけ現在に至る。
変化はおよそ以下の4点にまとめることができよう。
かつて大槍の描く少女は物憂げな眼差しを特徴としたが、2005年以降は急速に明るくなっていく。グラビア写真のように屈託なく微笑む構図が多用され、また漫符に代表されるように「軽い」感情表現が増えていく。憎悪や嘲笑、虚無感といった振幅の大きい感情はネタとして戯画的に表現されるか、排除される傾向にある。
触れたら折れそうに細い手足と胴、手のひらに収まるほど小さい尻、というのが大槍の基本スタンスであった。このフレームを非ペド層にも受けようと成人女性への拡張を図った結果、俺が洋ナシと呼ぶところの肉体表現ができあがった。細い肩や胸囲は変わらないまま、骨盤を大きくし、それを起伏のないなめらかな曲線でつなげる。頭部は大きく、手足は細く小さく。四つんばいになったところはちょうど、盆に供える割り箸を刺したナスの馬に似ている。この肉体表現を少女に対しても逆輸入することで、古参ファンを絶望させたことで名高いメタボ透花が作られるに至った。
元々大槍絵は「脳勃起」と言われるほど、頭部に占める顔面の割合が小さい。頭部輪郭線の下半分に口から眉までが収まっている。これは幼児を描くときに多くの画家が利用する表現だが、大槍の場合は成人にも適用される。また横顔を描いたときに耳が中心ではなく前寄りになる(この結果、額から後頭部が顔に対して非常に大きくなる)。近年はこの傾向が進み、頭部のおよそ下五分の二に顔が描かれるようになりつつある。またこれと並行して目の巨大化がはかられた。耳や顎のラインにはあまり変化がないため、まなじりと耳が接し、もみあげは介在する余地がない。
少女の衣装に顕著に見られる変化である。従来の大槍は基本色に白無地を据え、そこに濃く暗い色をかぶせていくことを旨としていた。近年はピンクや水色、黄といった華やかな色を地にすえることが多い。桃白ボーダー、黒地水色水玉など派手な柄が登場することもある。ピンク髪は上述の通り2005年に解禁されたが、その後に青・赤・紫と何でもありになりつつある。このぶんだと近い将来には緑も加わることだろう。家具などの小道具大道具も、以前はアンティークを強く意識した陰影と重厚感の表現が見られたが、現在はむしろ清潔感・現代性を前面に出しているように思われる。総体として絵全体の彩度明度が高い。
以上のような変化のため、現在の大槍絵は残念ながらもはや俺の好みから外れつつある。もっとも当の大槍にしてみれば、総数としての支持者の数が増えれば成功であって、俺のような人間が去る代わりに同数以上の新規ファンが入ってくれば良い。この画風改革が間断なく続いているという事実は、新しい傾向を支持する者が多いことを示唆する。俺涙目。まあいいさ次行こう次。
増田「じゃあ、これから(入籍)前提でお付き合いすることにしますか」
相手「そうですね」
と、2週間前に会話をした後、34歳♀と、結婚前提でお付き合いをすることにした。
彼女と出会ったのは、Yahoo!が運営している「Yahoo!縁結び」というサイト。
月々4800円(♂の場合。オレはプレミアム会員なんで2割引)を支払いながら、
オレはここに10月から2ヶ月間登録し、
20人ぐらいの♀に連絡希望を申し込み、7人ぐらいとメールをやりとりして、
そのうち4人と実際に出会い、
この相手、春子さん(仮称)とのみ"進展"していた。
月イチのペースで4回会って、さすがに放置もしておられず、
「ちょっとマジメな話を」と美術館巡りの後、もう一度、茶店に誘い、
このようなことになった。
以前、増田で「生まれて初めて出会い系(Yahoo!パートナー)に登録してみた 」http://anond.hatelabo.jp/20080530165522という連載を続けたことがある。
同じYahoo!の出会い系サイトYahoo!パートナーhttp://partner.yahoo.co.jp/
で女性捜しを始めた体験記みたいなものだ。
まだまだ連載を続けるつもりだったが、実際にリアルで女と出会ったら成果は芳しくなかった。
三十路・オタク・非モテ・メタボのオレは、いい人で、話は面白いんだけど、
俺自身、昨春、リアルで女と別れて、それをまだ引きずっていたというのもある。
http://anond.hatelabo.jp/20081009225854
で、今度はケコーン相手をちょっとマジメに探した結果が、春子さん。
いい人なんだと思う。読書家でミステリー好き(ただしメジャー作品のみ)なんだとか。
話はそれなりに弾んでいる。
ただ、肝心のオレのテンションがまったく上がらない。
口説き落としたいと思わなかった
この人と一緒にいたいとか、人となりをねっと知りたいとか、
そういう気にならないんだ。
富野由悠季流に言うなら
「オマソコを舐めたい」と思うようなオンナじゃない
春子さんのトークが営業っぽい雰囲気があるというのもある
感情表現がヘタっぽそうだし、
外見は悪くないが、かといって性的に魅力的と感じることもない
一緒の布団で寝ている姿をイメージできないんだ。
恋愛をして結婚したい。35歳が近づいて出産とか考えているんで何とかしたい
という本人には申し訳なく感じている。
出会い系で出会ったと言うことに後ろめたさがあるのか。
元カノへの未練がまだまだ根深いのか。
そもそもこのオンナと何をしたいんだ
さっき「明日のデート、楽しみにしています」と絵文字入りで携帯メールが来て、
急に迷いだした
学生のころからつい最近まで、僕は生きるというのは基本的につらいことだと思っていた。ところが、そのつらさの大部分が簡単に消えてしまったのでこんなこともあるんだという意味で伝えてみたい。長いので興味があったら読んでください。
中学生のころから、いつも体のだるさを感じていた。お腹も弱く、何かあると下痢してばかり。当然元気なんかあるわけなく、高校生のころもあんまり前向きな人間ではなかった。でも頑張ればなんとかなると思える若さもあり、インスタントコーヒーに砂糖をぶちまけて勉強をしたら大学には合格した。大学では典型的な怠惰な学生で、起きるのはデフォルトで午後、授業には半分も出ていないと思う。無気力で今にして思うと鬱状態だった。
何とか卒業してIT系に就職したが、そこでの仕事の仕方も追いたてられてやっているような感じで、いつも綱渡りをしているような気分で全く余裕はなかった。それでも20代のうちはなんとかなったし、結構業績もあげたので30前半も20代の貯金でなんとかやっていけていた。けれど30半ばになって全く新しい仕事をやらなくてはならなくなり、そこでクラッシュして休職した。復職してからは自分の頭や体の調子を冷静に見るようになって、ヘビースモーカーだったのを禁煙したり、ランニングを始めたり、食べ物に気をつけたりしたところ、少しずつだけど調子は上向きになっていったけど、根本的に何かおかしいと思っていた。以下ここまでで出ていた症状。
(追記)
仕事は、失敗するのが怖くて異常にワークロードをかけてやる。だからうまくいくときはいいけど、失敗すると目も当てられない。うまくいってもうまくいかなくても疲弊してしまう。うまくいった仕事は、人の手助けとか責任がなくて気軽にやったものがほとんど。
こういう状態だから、とても悩んでいろんなメンヘルの本や啓発系の本を読んだけど解決にはならなかった(違う意味で色んな示唆は受けたけど、特に瞑想とか)。ある時アメリカ人の書いた本を読んだところこんなことが書いてあった。
炭水化物を減らす
炭水化物は"全粒"がキーワードです。白いパンや白いご飯、白いパスタなどの精製された炭水化物は血糖値を急激に変化させ、気分をコロコロ変えてしまいます。
「脳にいいことだけをやりなさい」マーシー・シャイモフ、三笠書房
アメリカの啓発系の本は説教くさくなくプラクティカルなので好き(追記:個人的にこの本全体を評価するわけではありません。最後のほうにはカルトっぽい記述もありましたし。要は部分的にでも役立てばなんでもいいということです。)なんだけど、早速玄米やライ麦パンを試してみたところ、頭がすっきりした感じがした。のでさらに調べてみたところ「低血糖症」のキーワードにたどりついた。特にこの本には驚いた。
「低血糖症と精神疾患治療の手引き」マリヤ・クリニック院長 柏崎良子、イーグレープ
この本によると、低血糖症患者(反応性低血糖症の場合))は食後の血糖値が急激に上昇するために、インスリンが出過ぎてしまい3-4時間後に血糖値が異常に低くなってしまうとのこと。血糖値が低くなりすぎたりすると、血糖値を上げるためにアドレナリンやノルアドレナリンが分泌され、
分泌されたアドレナリンやノルアドレナリンが情動を司る脳の分野(大脳辺縁系)を刺激し、感情的興奮(怒り、憎しみ、敵意、焦燥感、恐怖感、落ち込み、悪夢、不眠、自殺観念)を引き起こすため、脳全体の機能のバランスが悪くなり、感情をコントロールできずに「キレる」症状を起こす原因の一つともなります。
攻撃的行動、うつ的衝動、性格の異常化、感情の抑制ができない、判断の統合ができない、引きこもり、自律神経失調症、完璧主義になる、健康の認識基準が低い、自責の念が強い、過度に目的志向型になる、幻聴幻覚の症状、不眠と悪夢、「キレて」止まらない症状、ストレスへの対応、感情表現の欠如
また、コルチゾールも分泌されるが、血糖値を上げるためだけに使われてしまい、アレルギーや炎症が出るとのこと。これも症状ぴったり。
極め付けはこの文章。
青少年期から低血糖症の患者は、低血糖の異常状態に慣れていて、それを通常の状態であると誤認していることもあります。低血糖症がもたらす他の症状のために来院し、検査の結果、低血糖症であることがわかり、治療して後、体質も性格も変わり、自分の健康状態、正常な状態を知って驚くことも多くあります。
これだけ言われたら試すしかないと思い、これで駄目だったら田舎にでも引っ込んで低位安定の人生を送ろうと決心して食生活を試行錯誤の末こんな風に変えてみた。
朝食:ライ麦パン、生野菜、卵、カフェイン抜きコーヒー、果物少し、ジュースなし
間食1:コンビニのミックスナッツを150kcalくらい
昼食:肉か魚でご飯は2口くらい、玄米が選べたら茶碗半分くらい
間食2:ゆで卵
間食3:プロテインとナッツの残り
間食4:寝る前にナッツとプロテイン
(追記:最適な食べ方は人によって違います。低GIで少量頻食にするのがポイントですが、ミネラルバランスを気にして、内臓疾患がないか検査は必要でしょう。)
ポイントは、お腹半分でまでしか食べないことと、空腹のタイミングを作らないことと、ソースも含め砂糖とブドウ糖果糖液を徹底的に避けること。食べるものは基本的にマクロビオティクスに肉と卵を足したものだと思えばいい。最初はSoyJoyも食べていた(症状が重くなければ十分効果があると思う)。酒は翌日に残っていたのが残らなくなったのであんまりセーブしていない(追記:飲む種類は蒸留酒と赤ワインがメインになりました。ビールを飲むととたんにおかしくなるので)。むしろ野菜と肉と魚で飲むと眠くならないし飲むのが楽しくなってきた(甘いつまみは厳禁だけど)。ちなみに、頭が働かない時にブドウ糖や甘いものを、と宣伝されているけど、あれは砂糖業界の陰謀だとしか思えない。その一瞬はいいけど、すぐに悪循環に入ってむしろ悪化する。たんぱく質だって脂肪だって時間はかかるけどブドウ糖に分解される(追記:厳密に言うと糖新生ですね)ので最終的な効果は一緒で、いきなり吸収されないぶん血糖値を上げず安全だったりする。だから泰葉みたいに砂糖を食べてはいけなくて、ふらふらする前にたんぱく質か低GI食品を食べるのが正解。
効果は笑っちゃうくらいすぐ(2-3日で)出た。まず仕事の集中力が圧倒的に戻ってきて、いい資料は作れるし、ミーティングで効果的な発言はできるし、客に嫌味を言われてもこたえない(冷静に指摘としてとらえる)ようになった。寝る前に食べるせいだろうけど、朝は気持ちよく目覚めるし、いらいらすることがないから性格も丸くなった。なによりうれしいのは、以前だったら調子のいい時に思いついたアイデア(プライベート、仕事を問わず)が、昼食をとるとリセットされて全然進展しなかったのが、継続して発展させられること。結構ややこしい問題に関する説明資料を1ヵ月かけてつくって客のお偉方に説明したりなんてことが簡単ではないにしても充実してできるようになって、もしもう少し若い時に同じことができたら、高給取りのコンサルになれたのになと思ったりした。今や仕事の企画を考えるのが楽しくて仕方がない。
ランニングも調子よく、以前だったらハーフマラソンに出るたびに怪我をしていたのが、今回はフルマラソンを走っても3日後には練習が再開できるくらい。胃腸については、お腹を壊すことはほぼなくなり、肉を大量に食べても難なく消化できるようになった。
おまけに、インスリンダイエットとプロテインダイエットを同時にやっているようなものだからいい感じにやせてきた。(追記:もともとやせていましたが、体型は良くありませんでした)
一応病院にも行って、保険適用外の5時間糖負荷検査というのを受けた。検査の最中から慣れ親しんだ嫌な身体的心理的症状が出て、結果は見事に反応性低血糖症(200以上に上がった血糖値が4時間後に50近くまで落ちた)だった。念のためこれも保険適用外のサプリ(結構高い)も買ったけど、なくても食事だけで十分効果があるのはわかっているのでいつでもやめられる。低血糖症を治療することでうつ病だけでなく、統合失調症も良くなるらしいとのこと。統合失調症になったことはないのでよくわからないけど。ただ、不定愁訴系はかなり治るような気がするし、いらいらしてキレやすい犯罪者やDQNは、自分もそうだったから治療可能だと思う。
何をやったらいいかわからなくて無為に時間を過ごして、無力感と自責感にさいなまれながらだらだら遅くまでいた以前とは大違い。一日集中できるということがいかに素晴らしいか痛感する。マネージャーだったころに人系のぐだぐだでとても疲れたことがあったけど、そういう仕事も懐深くできるような気がする(あくまで気がするだけだけど)。
プライベートでもランニングがこれまで以上に楽しくなったほか、もともと好きだった音楽や映画も心の底から楽しめる感覚が本当に久しぶりに戻ってきた。今はドアーズを聞きなおして曲の良さにほれぼれしているところ。味覚も鋭くなって、豆や野菜の自然なおいしさがよくわかる。自然のおいしさを理解して生かしている料理を食べると嬉しい。二度とチェーンの居酒屋なんか行けないけど。妻や友人と過ごす時間も増え、こんな簡単に幸せになっていいんだろうかと思う。経済的な不安はまだまだあるけど、幸せっていうのは結局自分の状態のことなんだなと実感した。
ともかく空腹感や満腹感で良くも悪くも気分や体調が変わってしまう人は試したほうがいいかも。症状が治まった目で見るとそういう人がとても多いように見える。アメリカでは保険適用で、4,000万人くらい潜在患者がいるとのこと。日本で普通の治療になったら、長期のうつ病や進行した結果としての糖尿病やメタボが過去のものになるかもしれないと思う。
(凄い久々の追記)
基本的に同じ食生活を続けていい調子ですが、最近もしかしてセリアック病なんじゃないかと考えだしました。セリアック病による自己免疫不全でお腹の具合が悪く、小腸から栄養が吸収できないということなのかもしれません。糖尿病の併発も多いようで、結局は低血糖症で言われているのと同じ現象が発生し、治療法もほぼ同じとのことです。将来的にここらへんが統一的に説明がつくようになるのかもしれません。
(またまた追記)
セリアック病のテストではネガティブでした。ただセリアック病を疑うのと前後して、ハーフマラソン後に誤って飲んだオレンジジュース(炭水化物30g)で体が発狂(痙攣と胃腸障害)したので炭水化物不耐性なのだろうなと思います。炭水化物不耐性→現象としての低血糖症という感じです。
ミクにしても、テクノにしても、打ち込みにしても、シンセサイザーすらも、否定するのかな?
音楽は道具=楽器を通じて進化してきたし、メディアを使って一般化してきた。
でも、それはみんな人間が求めて作り上げたもの。
DTMだってもはや一昔前のテクノミュージックだけのものじゃない。
アコースティックの音と区別が出来ないほど、自然な音をシュミレートしてる。
ミクだって、シュミレーター。それはたまたま人間の声をシュミレーとしているだけって事。
音楽は自由でいいと思う。
アカペラの、人の声だけの歌も良い。
テクノもポップも自由自在。
そこから何を受け取れるのか、聴き手の感受性を試すもの、それが音楽。
ということで、頭ごなしにミクを否定することの意味は無いと思う。
だからといって、人の声の持つ感情表現を否定するものでもない。
y_arimは自称ボーダーでも前増田が書いてたアスペでもなく演技性だと思う。
「次のうち5つ以上あてはまると演技性人格障害が疑われるようになります。
自分が注目の的になっていないと楽しくない。
あさはかで感情を表に出す。
自分への関心を引くために身体的外見を利用する。
芝居がかった態度や誇張して表現する。
他人や環境の影響を受けやすい。
対人関係を実際以上に親密なものとする。 」
自分の姿を写真等で誇示するはボーダーやアスペじゃなくて演技性だと思う。
素人判断だから正確には分からないけど。
「人格障害は治せない」書かれたエントリがあったけど、ホルモンバランスの崩れで起きている事が多いから、投薬治療すれば治る可能性はある。カウンセリングは人格障害にあまり効果ない筈。カウンセラーに通うより精神科の方がいいと思われ。
そうすると、感情表現が乏しい人(一応内心では反応してるんだけど表に出ない人)か
間が生じることを怖れるまたは失礼と思って大して興味ないけど一生懸命話を振ろうとしてる人、かなぁ??
うーん。気持ちは分かるけど、正直なところ、そこまで怒るほどのことか?と思った。
まあデリカシーないっちゃないけど、所詮デリカシーの問題であって、他人に強制出来る範囲を超えてると思う。自分には、デリカシーない人なりになんとか寄り添おうとしてるように見えるけどなあ。しかし結果的には的外れなことを言ってしまってるし、気持ちも遺族に届かなくて空回りしてしまった。お互いに不幸だけど、こういうときには気持ちだけ頂いて、言動の的外れな部分は水に流してあげなよ。感情表現が不器用で、目に見える形(派手な供物とか)でしか表せない人もいるし、田舎のジジババが集まったらこんなもんだよ。コミュニケーション能力とか言って病的なまでの気遣いを当然視するのはごく最近の風潮で、田舎の人はそんな世界で生きてないからなあ。
ひとつは、骨が黒いとか痛んだとか言われたことで、まるで自分達の看病が悪かったと責められた気分になったんじゃない?言った方には全くそんな意図は無かったと思うよ。ただお手軽に、故人の痛みに言及することでその瞬間だけ故人を思いやった気分を味わおうとしただけだと思う。生前の病中に何もせずに葬式だけでそんなことするのも褒められた態度じゃないけど、その良し悪しはともかく、家族の看病やそのポリシーに対する非難の意味合いはこれっぽっちも無かったと思うよ。無いものに振り回されるのは馬鹿らしいよ。
もうひとつは、こういうときはごくごく身内しか知らないことって当然あるし、葬儀にやってくる人達はそれを知らないわけで、知らないなりの行動しかとれないってこと。増田達がどんな思いで看病していたか、故人の最期が実際どうだったのか、どんなつもりで葬儀のポリシーを決めたかなんて、分からないのが普通なんだよ。察して当たり前ではないんだよ。増田の文を読むと、察して当たり前で、そのうえで何故逆撫でするようなことをするのかって心理が働いてるように見える。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの心理で、葬儀に集まった人達の言動を悪い方へ悪い方へとってしまってないかな。
他人てそんなに思い通りにならないよ。みんな日常生活を中断して集まってくれた人々だよ。その思い通りにならない人々の対応に振り回されて忙殺されて、悲しみに足をとられそうになる遺族に生気を失わせないようにする、葬式っていう儀式には、そういう意味もあるよ。
分かりやすいところじゃRFCだし、ちゃんと調べていくと英語の文献にあたらざるを得ない状況は結構ある。
オープンソースなんかだと、日本の技術者でも英語の文献しかないことあるしね。
それらを(少数精鋭が)きっちりと日本語化して、日本語だけでやっていけるようにすれば、技術屋の国語として日本語が守られるかと言えば、それは違うような気もするし。
「ぐろーばる」とか「いんたーなしょなる」な感覚がなきゃ、この先生きのこれないとして、どうしたって普遍語化してしまった英語の知識は必要。
その上で思うのだが、海外の言語と違って、言語体系があまりにも違いすぎる日本語について、そうそう容易く置換って起こるのだろうか?
海外の小説を日本語に翻訳するとき、その感情表現に至るまで修正する「超訳」が行われることは結構ある。
日本語のラップはどうにもキモチワルイのと同じで、単に英語化しただけの物は、やはり馴染まないのではないか?
逆に言えば、それでも問題ない程度の違和感に留まってしまうなら、それは日本の文化がそこまで(感情表現や価値観に至るまで)欧米化してしまったって事で。
その域に達してまで日本語が生き残るべきかどうかは、また別の議論のような気もする。
http://anond.hatelabo.jp/20080727184654
原因は夫のDV。
といっても、直接的な暴力はそれほど回数は多くなく、どちらかといえば
「家計を入れない」
「必要以上に私を監視する」
「私の行動や態度に逐一ダメ出しをする」
ということが続いて、精神的に参ってしまったから、という方が強い。
これも立派なDVということで。
で、私は現在、自分でも自分がイヤになるくらいめっちゃ短気だ。
些細なことで怒りすぎだと自覚はしてる。
すぐ子供を叱りたくなる。
いや、ちょっと前はホントにすぐに叱ってた。
手も出た。
結構ひどい言葉を言ってた。あれは暴言だったな、と反省するくらい。
でも最近はだいぶ落ち着いた。
というのも、去年、実の母に「あんた最近すごい短気だね、どうしたの?」と言われて我に返ったから。
確かに、昔はここまで苛立ちやすい性格じゃなかった。
のんきだったとは思わないけど、こんなに毎日カリカリしてなかった。
いつからこんなに短気になったんだろう、と自分を振り返ってみて、やっぱりあの結婚生活にあったなあと、そう思う。
責任転嫁とかじゃなくて。
DVは、どっちにどんな原因があるとかじゃなくて、大抵の場合はお互いに些細な原因を作っていて、それがすれ違ったままどんどん溝を深くしていって、気が付いたら他人同然になっていた、ってパターンだろうと思う。
その途中に、どこかで何かを踏み外して、一方の直接的な暴力などが始まってしまう感じ。
だから、どこかで悪循環を断つすべはきっと私にもあったんだろうなと思うから、まったく私に責任がないとは言わないよ。
それでも暴力はいけないことだけど。
暴力だけは、絶対にいけないことだけど。
話が逸れた。
つまり、夫から抑圧的な日々を強いられる中で、私は小さなことでもマイナスに捉えるようになっていたし、すごくどうでも良いことでもすぐに子供を叱るようになってたんだ。
なんでもないことでめそめそ泣いたりしたし、鬱っぽくなったりしたし(鬱病ではない、あくまでも「鬱っぽい」)、とにかく感情の起伏がやたら激しかった。
躁鬱ってこういう感じ? なったことないから詳しくないけど。
やっとの思いで離婚して、子供を引き取って私が育てることになってからも、この気の短さと感情の起伏の激しさは、しばらく治らなかった。
恐怖に怯える日々からは解放されて安堵はあったけど、条件反射ともいえる感情表現の部分は、すぐには戻らなかった。
ちょっとしたことで子供にあたる。
どうでもいいことで泣く。
なのに突然、機嫌が良くなったりする。
怒るとなると、徹底的にヒステリック。
うん。
だから増田の言うことは理解できる。
元DV被害者が、言葉のDV加害者っていう見方も、分からなくはないよ。
DVって、すごく根が深いと思う。
私はそんなに自分が傷付いたとは思ってこなかったし、ただただ、夫にひどい嫌悪感があって逃げたかったから逃げただけで、だから「私は被害者なの! すごく傷付いたの!」なんて主張をしようとは思わないけど、でも楽天家の私ですら引きずっていることは幾つかあるんだ。私以外の被害者だったら、どれほどなんだろう。
ただ簡単に、「暴力ふるわれた! 傷付いた!」とか、それだけの問題じゃないんだよ。
だから、
「DV被害者は、言葉のDV加害者になりやすい傾向があるのかもしれない」
という仮説だけ、ここに置いていく。
DVの連鎖、って言うよね。
そこに含まれるのかな。
どこかでもう誰かが、検証するべくデータを集めてるかもしれないね。
俺の教師も増田並に柔軟な思考を持っていたらよかったと思う。
個人的には、明治の初めまで日本人の「論理的思考力」は漢文を学ぶことによって鍛えられていたと思うが、
同じ役割を英語に期待するのはやはり難しいと思う
時折こういう話を聞くが、俺は日本語が特別、外国語と比較して論理記述力に劣るとは考えていないので「論理的思考力」は日本語で学ぶべきだと思う。
ただ、日本語は自然言語であるので、訓練をしないと容易に論理と感情が混同されるので
そう言う意味では、プログラム言語で「論理的思考力」を鍛えるのはアリだと思う。
・・・そう言えば、俺の書いた論説文が教師に「無味乾燥で感動がない」とか怒られたことがあったっけw
「学びて思はざれば則(すなは)ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則(すなは)ち殆(あやふ)し」
結局はこれに落ち着くのかな、、、
純文学にこだわらず、マンガでもラノベでも読んでおけば何かの肥やしにはなると思うし
知識と経験の両輪が備わって初めて意味が出てくると言うには賛成だ
また「言葉」というのは、一見共通OSのように見えて実は「出力が近似である」に過ぎない。だから、誰もが気づいているように「同じ日本語」を喋っているように見えて「理解しがたい」人間が存在するのだ。
議論をするにはそのOSを統一するというのは前提であって
論文の様式が統一されているのはそのためだし、専門用語には定義がついている。
そして論説中はたとえ話は厳禁だ
文学の弱点はその統一がなされていないことにあるのだと思う。
文学者同士が議論しようとするととたんに揚げ足取り詭弁合戦になるのはそのためだ。
国語が「一つのことを表現するのにたくさんの言葉を使おう」と教えているのは論説文を書くための教育では完全に誤りだ
増田はそうならないようにとても注意しているのがわかるし非常に好感が持てる。
(雑談なので堅苦しくはする必要はないが、現に文学の定義すら揺らいでいるw)
だから、文学は「「言葉」を限界まで使いこなす」ことは感情表現の分野に限定されていると思う。
それは音楽で言うところの調和がとれて聴こえるどの和音を探求する作業に近しい
感情は脳内のブラックボックスに発生しているので、その表現が多様になるのは必然である。
それは完全に芸術の側面だ
>>いわゆる有名な「ブンガクサクヒン」を授業で取り扱う意味というのは、究極すればここにのみ意味を見いだすことができる。
語彙力を増やすのは素晴らしいことだ
せいぜい言い得るのは、表現はその的確さで評価されるべきで権威で評価されるべきでないという程度だ
広まったキャッチコピーや2ch語にはそれなりのものが含まれていると思う
結論としては文学屋は「情報伝達」を行う能力を持ち合わせていないのが大多数で